『レディアサシン』原題:Boarding Gate(2007)
がっかり。アーシア・アルジェントはどこまで不遇なんだろう……と思わずにはいられない失敗作。オリヴィエ・アサイヤス監督は前作『Clean』(2004)の素晴らしさがまさに奇跡だったことを証明するかのように、今回は豪快に空振っている。
とにかくもう展開がタルい。完全なB級スリラーのお膳立てで作られていながら、筋運びがやたらモタモタしていて、集中力を削がれることこの上ない。それはひとえに、役者の芝居を大事にしすぎるからではないか。特に、前半2回もあるマイケル・マドセンとアーシア・アルジェントのワークショップのごときダラダラした掛け合いは、正直言って観るに堪えない。アドリブと思しき台詞も本当につまらないし、後の展開に繋がる伏線の織り交ぜ方もスマートさとは程遠い。このやりとりさえ切り詰めれば映画の印象もだいぶスッキリしたような気がする(マドセンのエージェントが「出番を増やさないと降りる」とか言ったのかも?)。

こういう映画なら15分で終えなければならない導入部を1時間に引き延ばしておいて、結局なんの効果も上げられていないのだから、観る側の意欲も気力も大暴落である。後半、舞台が香港に移ってからは少しだけ持ち直すが、やはり遅きに失した感がある。思わせぶりな台詞をちりばめて「巨大な社会システムの前になす術もない個人」という図式を押し出そうとするのも、安易で陳腐な印象しか与えない。作品全体が朦朧とした感覚に覆われたまま、本作はB級映画らしい活力を取り戻せずに終わってしまう。

確かにこの映画の出演陣が魅力的でないかと言ったら、それぞれの良さは十分に引き出されていると思う。アーシア・アルジェントは相変わらず被写体としては最高に魅力的で、彼女のセクシーな姿を堪能するためだけの作品なのかな、と最初のうちは思ったりもする。しかし、長回しの即興芝居などやればやるほど演技が泥臭くなってしまい、悪い面も十二分に引き出してしまっているのが惜しい。もっとキレのある彼女が観てみたかった。マイケル・マドセンだって、哀愁漂う中年を言葉少なに演じているうちは「ああ、いい役者なんだな」と思えるのだけど、長丁場のアドリブとなると……。
一方、カール・ンの美男子ぶりといったら惚れ惚れするほどだし、
『マッド探偵』(2007)などでおなじみの香港ノワール美女、ケリー・リンの硬質の美貌も際立っている。ソニック・ユースのベーシスト、キム・ゴードンの堂々たる女優ぶりも見ものだ。しかし、それらの好演もやはりおぼろげな印象の中に飲み込まれてしまっている。

前作『Clean』は、ある一人の孤独な女が再生に向かって突き進むドラマを、過剰なまでの歯切れよさで描いた秀作だった。そのエネルギッシュな語り口は、本来なら今回のような映画で特に発揮されるべきだったが、実際のところ勢いはガタ落ちしている。本作は準備段階から公開に至るまで、いろいろとトラブルに見舞われた作品らしいが、それらの現実問題が内容に悪影響を与えているとしても、弛緩したシナリオ構成や鈍重な仕上がりの言い訳にはあまりならない気がした。
アサイヤスは明らかに演出モードの切り替えに失敗している。それこそリチャード・フライシャーのように、役者を単なるコマとして動かすぐらいの思い切りがあれば、同じ題材でもずっとタイトでスピーディーな仕上がりになったと思う。ヨリック・ル・ソーによるフォーカスを巧みに使ったカメラワークも素晴らしいだけに、なおさら惜しい。ちょっとヤワすぎる気がした。いろんな意味で。
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『Une Partie de Plaisir』(1975)
英語題:Pleasure Party

クロード・シャブロル監督といえば、こじれた愛情や人間関係が招く犯罪とその顛末を見つめる、一連のスリラー作品で知られている。人が一線を越え、ある種の怪物となっていく様を、シャブロルはつとめて冷静に、悪意をもって観察する。そこで起きる惨劇は誰にも止められず、決して避けられない。シャブロルの映画には常に観客を不安にさせる「イヤな感じ」がつきまとい、それが麻薬のような魅力となってファンの心を捉え続けるのだ。その感触が最も強い作品は、どれになるだろうか。寒々しく絶望的な『Juste avant la nuit』(1971)か。コミカルなタッチが逆に不気味さを際立たせる『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』(1972)か。見るからにヤバすぎるヒロインが絶品だった
『石の微笑』(2004)か。
1975年に公開された『Une Partie de Plaisir(A Piece of Pleasure)』は、そんな「イヤな感じ」が最も極まった傑作ではないだろうか、と観ながら思った。ここでは、一見幸福そうな夫婦のたどる悲惨な崩壊劇が、インテリ階級への皮肉もこめながら淡々と描かれていく。

年上の夫フィリップ(ポール・ジェゴフ)は、美しい妻エステル(ダニエル・ジェゴフ)と幼い娘エルシーと三人、郊外の邸宅で幸福な生活を送っていた。彼は自身の浮気を当たり前のことのように告白し、妻にも自由にしていいと寛容さをアピールする。しかし、妻が自分の気に食わないアラブ系の青年と寝たと知るや、激しい嫉妬にとり憑かれ、ついには恐ろしい暴力を彼女に振るい始める……。
男のイヤな部分が凝縮されたような主人公フィリップのキャラクターが強烈。己の身勝手さに無自覚で、自分を懐の深い理性ある知識人だと思い込み、口先では進歩的なことを言いながら、結局は嫉妬・怒り・暴力衝動といったプリミティヴな感情に支配される凶暴なゴリラでしかない。それが人間の真実である、とシャブロルは暴露する。そんな本質を理解せず、全ては理性でコントロールできるなどと思って生きている現代人に、警鐘を鳴らすかのように。

まやかしの幸福が破綻し、家族の絆が決定的に壊れてもなお、しつこく幻影に追いすがる。そんな異常だがリアルな妄執を、ポール・ジェゴフはごく自然体の演技で、絶妙に演じている。彼は本作の脚本家でもある。そして妻を演じるダニエル・ジェゴフは、実際に彼の元妻でもある。そして娘役のクレマンス・ジェゴフも、彼らの本当の子供である。この映画に漂う、妙に真に迫った生々しさは、彼らが本当の(壊れた)家族だからもたらされているのではないか。アニエス・ヴァルダの『幸福』(1964)を百倍ぐらい容赦なくしたような家族の崩壊劇を、書いた当人とその家族に演じさせるシャブロルは本当に意地が悪い。というか、引き受ける方もどうかしてると思うが。
クレマンス・ジェゴフの可愛さといったらない。本物のパパとママを相手に演技しているので、その表情には生硬な芝居くささが全くないのだ。ラスト、彼女が鉄格子の向こうにいる父親に問いかける「ママはどこへ行ったの?」という台詞の屈託のなさは、シャブロルが仕掛けた悪意の真骨頂である。大人になってこの映画を観た時、彼女はどう思っただろう? また、劇中で彼女がつぶやき続ける数字のカウントも、絶望的な余韻として観客に忘れがたい印象を残す、秀逸なモチーフとなっている。

ポール・ジェゴフはかの名作『太陽がいっぱい』(1960)を手がけた名脚本家であり、シャブロルとも『二重の鍵』(1959)や『女鹿』(1968)、『交換結婚』などで何度も仕事をしている仲。本作の主演候補には『女鹿』のジャン=ルイ・トランティニャンなどの名前が挙がっていたが、誰もこんなエゴイスティックで共感の持てない人物を演じようとしなかったため、最終的にジェゴフ本人が演じることになった。彼はジャン=リュック・ゴダール監督の『ウィークエンド』(1967)などにも出演しており、全くの演技未経験者ではなかったものの、『Une Partie de Plaisir』での演技はとても自然で、鬼気迫るリアリティに満ちている。相手役のダニエル・ジェゴフが投げかける冷たい目線にも、ひょっとしたら演技以上の感情がこもっているのでは……と疑いたくなってしまうほど、彼らが演じる破滅のプロセスは不気味な真実味を湛えている。本当にイヤな傑作だ。
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『Goya’s Ghost』(2006)
大傑作。正直こんなに面白い映画だとは思ってなかった。さすがミロシュ・フォアマン監督! と快哉を上げたくなる見事な風刺劇で、その手腕が最大限に発揮された集大成的な作品とも言える。秋には日本でも『宮廷画家ゴヤは見た』というタイトルで公開が決まっているので、「こんな映画だったの!?」という驚きを大事にしたい人は、ここから先は読まなくていい。とにかく、ぜひ劇場で楽しんでほしい傑作であることは間違いない。
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