原題:Lady in the Water(2006)

「人にはそれぞれ、語るに足る物語がある」。または、「誰にでも一冊は小説が書ける」。ありふれた決まり文句だ。しかし、現実は違う。
すでにあなたは“ある物語”に登場し、その役割を終えたかもしれない。あるいは、これから出番がくるのかも……。
もし自分が“ある物語”の登場人物で、これまでの一生がその“物語”の一部であることに気付いてしまったら? M・ナイト・シャマランが描き続けてきたのは、そうした「汝、物語と共に在り」というおはなしだ。そのことを主人公に気付かせるとき、語り手(シャマラン)の立場も危うくしかねない揺らぎが生じる。そして、シャマラン自身はそれを愉しんでいる。
そのスタイルをはっきりと打ち出したのは『アンブレイカブル』(2000)だった。警備員のおっさんが実は不死身のヒーローだった、という話である以上に、己の“物語”を知ったことでその幕開けを受け入れざるを得ない男の悲劇を描いていた。自分の「特性」に気付いて新たな人生の使命を得る、というのは『シックス・センス』(1999)のラストも同じだが、より強く“物語”を意識させたのは『アンブレイカブル』の方だった。
あらかじめ用意された“物語”は、『サイン』(2002)にも『ヴィレッジ』(2004)にも登場する。死に瀕した妻や、村の年配者たちの姿を通し、フィクションの中であるにも関わらず「“物語”を司るもの」(つまり作者のシャマラン自身)の存在を強烈にアピールしてきた。伏線などという生易しいものではない。その危うい綱渡りを愉しむ感覚は、どんどん先鋭化していった。本作『レディ・イン・ザ・ウォーター』では、ついに主人公の前に「ストーリーという名の妖精」が現れるのである。
この映画は様々な意味で「極まった」作品だと言えるだろう。疑惑を積み上げるサスペンス演出を捨て、有り体な人間描写も省き、“物語”に没入していく人々を、何のてらいもなく見せていく。そしてさらに、「自分は“その物語”の登場人物ではなかった」ことを気付かせるという未踏のドラマ展開にまで挑んでいるのだ。これは結構、残酷な展開だと思う。
だが、シャマランは優しい。弱者への強靱なシンパシーは今回も健在だ。あらゆる人には役割を。物語にはハッピーエンドを。クライマックスでは、これまでの作品と同様に泣かされてしまった。
ただ残念なことに『レディ・イン・ザ・ウォーター』は傑作とは言えない。住人たちは割り切りが良すぎて、みんなが“物語”に参加できるチャンスを待っていたことについて、もう少し説得力が欲しかった。彼らが“物語”に没入できる素養をもっとディテール豊かに見せられていたら、とは素直に思う。それに、やっぱり撮影がよくない。どうした、クリストファー・ドイル。
主人公に昔話を通訳して伝える韓国系ギャル(シンディ・チャン)が強烈な存在感を放っているが、観ている間「ひょっとしてコイツが全ての世界を創り上げているのか?」と思ってしまった(それですらなかった、というのも衝撃だったけど)。

監督・脚本/M・ナイト・シャマラン
製作/M・ナイト・シャマラン、サム・マーサー
撮影/クリストファー・ドイル
プロダクションデザイン/マーティン・チャイルズ
衣装デザイン/ベッツィ・ハイマン
編集/バーバラ・タリヴァー
音楽/ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演/ポール・ジアマッティ、ブライス・ダラス・ハワード、シンディ・チャン、M・ナイト・シャマラン、サリタ・チョウドリー、フレディ・ロドリゲス、ジェフリー・ライト、ボブ・バラバン、ビル・アーウィン、ジャレッド・ハリス、メアリー・ベス・ハート

