Simply Dead

映画の感想文。

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『高麗葬』(1963)

『高麗葬』(1963)

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 近年、再評価と作品発掘が進んでいる韓国の異才、キム・ギヨン監督の1963年作品。これまでプリントの所在が不明だったが、最近になって全長版に近いかたちで修復され(欠落部分は字幕で補足)、今年の東京国際映画祭でも上映された。たとえ不完全版であっても、復活させたのは快挙と言える掛け値なしの傑作だった。

 姥捨て山伝説を題材にしているが、『楢山節考』みたいな内容ではない。死と暴力とセックスと厭世観が横溢する、人間の暗黒をこれでもかと描きのめした異様な物語が展開するのだ。因習はびこる村社会で、残酷な運命の呪縛に苦しめられる人々の生き様、死に様。しかも30年にわたる一大クロニクルである。約2時間ほどの上映時間(現存するのは87分)の中に、ほとんど映画5本分くらいの内容が凝縮された、不幸のジェットコースター・ムービーだ。

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〈おはなし〉
 山間にある貧しい寒村。幼いグリョンは母の再婚を機に、その村へとやってきた。嫁ぎ先には十人の兄弟がいて、彼らは新しく来た義弟がいつか自分達を殺すであろうと巫堂に予言されたことから、グリョンを亡き者にしようと罠をしかける。グリョンは毒蛇に噛まれ、怒った母は再婚相手に離縁を迫り、慰謝料として畑の一部をもらう。

 それから10年。グリョンは蛇の毒で足が不自由になりながらも、母と二人で辛抱強く暮らしていた。決して他人に頼らず、人一倍働くグリョンだったが、不具者への風当たりは強く、想いを寄せていた村娘カンナキにもフラれてしまう。

 グリョンは唖の娘を嫁に迎えるが、彼女は十人兄弟にさらわれ、輪姦されてしまう。なんとか助け出されるものの、屈辱を晴らしたい彼女は、兄弟の一人を誘い出して殺害。怒った兄弟たちはグリョンに嫁を差し出せと迫る。多勢に無勢の状況で、グリョンは不幸な嫁を手にかけるほかなかった……。

 さらに15年の歳月が流れ、村の暮らしはいっそう厳しくなった。水場を独占する悪党兄弟は、村人たちに水を分け与える代わり、なけなしの食料を巻き上げるなどの悪行三昧。ある日、病気の夫と大勢の子供たちを抱えたカンナキが、グリョン母子を頼ってくる。が、グリョンは昔フラれた恨みを忘れていなかった。仕方なく、娘の一人ヨンが養女として差し出され、おかしな共同生活が始まる。そんな中、グリョンの母は自分さえいなければという想いから、自ら姥捨て山へ。グリョンは母をどうにか連れ戻し、ヨンもカンナキのもとへ帰す。

 再び地獄のような飢餓生活に戻ったヨンは、苦痛よりも死を選ぶと言い、巫堂の執り行う儀式のいけにえとなる。悪党兄弟がためこんだ芋ひと袋と引き替えに。それを聞いたグリョンは兄弟たちから彼女を買い戻そうとするが、時すでに遅し。少女の魂は巫堂の口を借りて、グリョンと母の再婚を願った。ようやく結ばれるグリョンとカンナキ。

 だが、巫堂の予言が成就されるまで、グリョンの苦難は終わらないのだった……。

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 この映画における最大の恐怖は、貧困と空腹。かつて農民たちを襲った飢饉がどれほどむごたらしいものだったかを、キム・ギヨンはホラー映画ばりの陰惨な演出で徹底的に描いてみせる。白黒シネマスコープ画面に映し出される寒村の、不穏な妖気に満ちたビジュアルは圧巻だ。代表作『下女』(1960)同様、独創性あふれる美術設計はキム・ギヨン作品の大きな見どころのひとつである。本作のような内容で、ここまで贅沢に美術費が出るという当時の韓国映画の制作状況が素晴らしい。後半に出てくる姥捨て山のセットなんて、まるで地獄か別の惑星のようである。それと、ほとんどオールセット撮影なのに、役者の吐く息がみんな白い、というこだわりようも凄かった。

 苦しい生活の中で、人間の心根は暗くねじ曲がり、どす黒く病んでいく。主人公グリョンも、義兄弟たちに足を不具にされた恨みを何十年もたぎらせ生きてきた。もちろん善人に育つわけがない。逆に言えば、貧困というバックボーンを得たことで、人間はどこまでも悪に傾倒できるのだ。敵役である「黒い十人の兄弟」の極悪ぶりといったら実に清々しいほどで、とにかく悪いことしかしないし、悪事以外に考えが働かない。なんと素晴らしきキム・ギヨンの人間観。常田富士男に似た長男のワル顔も素晴らしく、監督のキャスティング・センスの確かさにも唸らされる。

 『高麗葬』には、ものすごく悪い人間か不幸な人間しか出てこない。主人公グリョンは後者であり、ひたすら負け犬であり続ける。彼が少しでも愛し、心を許した相手(みんな女子供)は、ことごとく彼の眼前で死んでいく。しかも多くの場合、救いの手が届く距離にいながら、むざむざ死んでいく様を見送るばかりだ。最初の妻と母親にいたっては、主人公自ら引導を渡さなくてはならない状況に追いつめられる。この悔恨の積み重ねが凄まじい。そのボルテージたるや、『ミッドナイト・クロス』(1981)でナンシー・アレンを死なせたジョン・トラヴォルタの4倍相当だ(多分)。その蓄積された怒りが、凄絶なクライマックスの大殺戮へと繋がっていく。

 序盤で、主人公は巫堂から「十人兄弟の命を奪う運命にある」と予言されるのだが、そこに至るまでこれほど長い時間をかけ、こんなにも大勢の人が死ななければならないと、もはや運命以前の問題ではないかと思ってしまう。「寓話」などという形容も生易しい。

 キム・ギヨン本人にとってみれば、実に理にかなった、説得力抜群の復讐劇なのかもしれない。これだけやられて立ち上がらないわけがない! みたいな。だが普通の観客にとっては、全ての理由付けが過剰なのだ。「そこまでやったら別物になっちゃうよ」というボーダーラインもためらいなく踏み越え、あらゆる点で通常のドラマツルギーを過激に逸脱してみせる。まさに「常軌を逸した」傑作なのだ。

 姥捨て山の頂上で繰り広げられる、母と息子の別れのシーンも凄い。地面いっぱいに人骨が敷き詰められたセットも強烈だが、ここで母子の愁嘆場を異様なしつこさで(ギャグまでまじえて!)延々と描くセンスも、常人の理解を越えている。息子は名残惜しさのあまり、何度も行きつ戻りつを繰り返し、母親もまた生への執着を恨みがましく口にし、我が子を想う気持ちとの相克に引き裂かれる。息子はドクロを踏みしだきながら母のもとへと舞い戻り、そしてまた背を向けて歩いていかねばならない。これが何度も何度も繰り返されるのだ。人間が極限状況でさらけだす「恨」のすべてを、余すところなく描こうとするかのように。この執拗さは、同時に突き放したシニシズムにも満ちていて、これもやはりキム・ギヨン独特の韓国人メンタリティへの揶揄なのか? と思った。

 映画の作りは正直、粗い。というか、おかしい。カットのコンティニュイティも何か妙だ(特に前半)。グリョンの最初の嫁が悪党兄弟を誘惑する場面の、セックスの暗喩描写も面妖である。かと思えば、オープニングのタイトルデザインは60年代の映画とは思えないほどスタイリッシュだったりする。そんな奇ッ怪で予測不可能なセンスも、作品を見ていくうちにだんだんクセになっていくのだ。そのインスピレーションの原点がとても気になる。

 映画祭上映時には、韓国の若手映画人たちがキム・ギヨンの印象について語る50分のインタビュー集『キム・ギヨンについて私が知っている二、三の事柄』(2006)が併映された。主にビデオなどでキム・ギヨン作品を追いかけてきた世代……ポン・ジュノやリュ・スンワンといった出演者の中でも、晩年のキム・ギヨン監督と一緒に仕事をするはずだったソン・イルゴンの言葉が、やっぱり胸に染みた。「もしキム・ギヨン監督が生きてあなたの目の前にいたら、何を訊いてみたいですか?」という質問に対して、彼は「今、何か食べたいものはありますか? と訊きますね」と答えるのである。泣ける。

 しかし、個人的にいちばんその答えが知りたかったのは、パク・チャヌクだ。彼こそは(商業的成功も含めて)最もキム・ギヨンに近い素質を発揮している映画監督だという気がするからだ。限りなく陰惨で、なおかつ性格の悪いユーモアに満ちた彼の最高傑作『復讐者に憐れみを』(2000)が、キム・ギヨン作品の影響を受けていないわけがない。残念ながら、『キム・ギヨンについて?』での出番はあまり多くなかったけれど。それより他の監督たちの口から「前にパク・チャヌクから聞いたんだけど」「パク・チャヌクと一緒に観たんだけど」とか、何度も名前が出るのがおかしかった。

 キム・ギヨンは1998年2月5日、自宅の火事が原因で、夫人とともに亡くなったという。……映画祭で『高麗葬』を観た後、会場近くに消防車が10台近く集まる騒ぎがあった。結局、火事でもなんでもなかったそうだけど……誰が呼んだのだろうか?


監督・脚本/キム・ギヨン
撮影/キム・ドクジン
音楽/ハン・サンギ
出演/キム・ジンギュ、チュ・ジュンニョ、キム・ボエ、ジョン・オク
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