Simply Dead

映画の感想文。

お知らせなど(映画秘宝・香港ノワール特集 etc.)

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 明日4/21発売の「映画秘宝 2010年6月号」にて、またまた原稿を書かせてもらいました。ジョニー・トー監督の新作『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』特集と絡めた「至高の香港ノワール31本」というページで、10本ほどの短い作品紹介文を書いております。そんなにたくさん書いているわけではないですが、個人的には新世紀香港ノワールの金字塔だと思っている『ワンナイト・イン・モンコック』(2004)や、アルフレッド・チョン監督の隠れた逸品『オン・ザ・ラン/非情の罠』(1988)、鬼才パトリック・タムの呪われた傑作『風にバラは散った』(1989)など、大好きな映画について書くことができてメチャメチャ嬉しかったです。あと、前回の韓国暴力映画特集の時もそうでしたが、今回も江戸木純さんと高橋ターヤンさんというビッグネームに混じって書かせていただき、恐悦至極でございました……。

 他には「TRASH-UP!! vol.5」の香港ニューウェーヴ特集でも餓鬼だらくさんが紹介していた快作『狼の流儀』を始め、『野獣たちの掟』『ガンメン/狼たちのバラッド』『ワイルド・ヒーローズ/暗黒街の狼たち』『ロンゲストナイト』『SPL/狼よ静かに死ね』『ブラッド・ブラザーズ/天堂口』のテキストを書いてます。よければご一読ください!

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 そして、現在シアターN渋谷にて絶賛公開中の『ジョニー・マッド・ドッグ』ですが、公式サイトのコメントページに、はずかしながら当ブログのテキストを抜粋・掲載していただいております。とにかく、是が非でも観てほしい反戦映画の大傑作なので、『第9地区』や『息もできない』といった話題作と併せてご覧ください。全く優劣つけがたいパワーに溢れた凄まじい作品です。4/23(金)19時の回には、田野辺尚人さん(別冊映画秘宝編集長)と三留まゆみさん(イラストライター)のトークショーがあるそうなので、こちらも要チェック!


 あとまあ、近況でもなんでもないんですが……
湯浅政明監督の最新作『四畳半神話大系』
超面白いに決まってるので必見!!
少なくとも第1話はガチで傑作!!


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 要するに「もう観ちゃったゼ」自慢でした。
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『0時』(1972)

『0時』
原題:0시(1972)
英語題:The Midnight Sun

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 韓国の宇津井健ことホ・ジャンガンが主演し、名匠イ・マニが監督をつとめた刑事ドラマの佳作。大都市ソウルを舞台に、様々な事件を追う刑事たちとその家族、犯罪に走る人々が織り成す群像劇が描かれる。脚本は『星たちの故郷』(1974)から『棺の中のドラキュラ』(1982)まで、幅広いジャンルの作品を手がけるイ・ヒウ。若手刑事役のシン・ソンイルを始め、主人公の妻を演じるユン・ジョンヒ、キム・チャンスクなど、充実したキャスト陣も見どころだ。第11回大鐘賞映画祭では、奨励賞と編集賞を獲得している。これも「kmdb」で鑑賞。

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〈おはなし〉
 主人公チャン・チュンハン(ホ・ジャンガン)は、330捜査隊の隊長をつとめるベテラン刑事。愛する妻(ユン・ジョンヒ)との間に一人息子をもつ家長でもある。息子のキュシク(イ・スンヒョン)は遊び盛りのわんぱく坊主で、一家と同居している妻の妹ヘリョンは、チャン刑事の部下パク(シン・ソンイル)と交際中だ。ある日、新聞配達のアルバイトをしていたキュシクは、田舎から出てきた少年インドルと出会い、彼の姉を捜してほしいと頼まれる。偶然にも、彼女はチャン刑事たちが追っていたバイク強盗犯カップルの片割れだった。

 そんな時、かつてチャン刑事に逮捕された男ミンス(ムン・オジャン)が7年ぶりに出所。入獄中に家族を失った彼は、復讐のためにチャンの息子キュシクをつけ狙い、ついに誘拐してしまう。だが、ミンスはキュシクの無邪気さに触れるうち、報復を諦める。それどころか、ふたりの間には奇妙な友情すら芽生え始めていた。

 その頃、息子を捜して街中を彷徨う妻の悲愴な姿を横目に、職務遂行を優先するチャン刑事は、バイク強盗の追跡に専念。とうとう恋人と共に逮捕されたスンニョは、弟インドルと再会し、自らの罪を反省するのだった。

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 社会のつまはじき者、孤独なさすらいびと、あるいは犯罪者を主役に据えることの多かったイ・マニ監督。本作では珍しく警察官を共感すべき主人公として扱っているが、同時に、犯罪者へ向ける視線も同じように優しくユーモラスである。物語の主眼に置かれるのも、いわゆる犯人VS刑事のサスペンスフルな追跡劇ではなく、中年刑事の家族を中心とした人間模様だ。偶然に偶然を重ね、多彩な登場人物のタペストリーが編み上げられていく過程には、法の番人として生きる刑事たちの人間的な素顔、あるいは人間性を捨てきれない犯罪者の弱さが浮き彫りにされる。題名やポスターから想像されるアクションスリラー的な作りとは真逆の内容であり、どちらかといえば刑事モノの衣を着たヒューマンドラマというべき作品である。

 かつて自分を逮捕した刑事への復讐心から凶行に走る元犯罪者。そして、息子を誘拐されながらも職務を優先しなければならない刑事の葛藤。これだけお膳立てが揃っていれば、パク・チャヌク作品ばりに胸をしめつけるサスペンスと悲劇的展開が待ち構えていても何ら不思議ではないのに、イ・マニ監督は敢えてアンチサスペンスの方向に物語を転がしていく。悔悛と赦しをもって人の罪は贖われ、誰もが自身の内なる善意を欺くことはできない。かぎりなく性善説的というか、別の言い方をすれば「ヌルい」展開を貫き、まるで良質のホームドラマを観たような後味で映画は幕を閉じる。先述のパク・チャヌク、あるいは黒沢清監督あたりが観たら「こんなのはむしろ害悪だ!」と怒り出しかねない非情さの欠如、ヒューマニストとしての揺るぎない態度は、イ・マニ監督が70年代に入ってから見せた興味深い作風の変化を示すものでもある。

▼ホ・ジャンガン(左)と、演出中のイ・マニ監督
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 60年代後半、イ・マニは自作においてペシミズムをどんどん強めていった。それはパク・チョンヒ政権下で軍国主義に凝り固まっていく韓国社会の暗澹たる展望を反映したものでもあっただろう。また、『七人の女捕虜』(1965)が当局の批判を受けて改竄され、さらに『休日』(1968)がオクラ入りに追い込まれたことも、その憂鬱に拍車を掛けたに違いない。メランコリーすら描けないメランコリーのなかで、無念さと窮屈さを募らせ、60年代末のイ・マニははっきりと「暗い作家」として観客や興行主から敬遠され始めていた。

 もちろん作品的には「暗い=マイナス」というわけではなく、その卓抜した演出力はさらに研ぎ澄まされ、円熟を迎えていた。しかし、商業性は確実に失われていたことは確かだ。犯罪スリラー仕立ての反共映画の中で、ジャン=ピエール・メルヴィルばりのストイックさと粘り腰の時空間演出を展開する『暗殺者』(1969)などを観ると、さすがに頭を抱えるプロデューサーの姿が目に浮かぶ。

 そして、イ・マニは2年間の沈黙に入る。復帰後に発表した『鉄鎖を断て』(1971)は、まるで何かがふっ切れたように、観客を楽しませることだけに心を砕いた完全無欠の娯楽活劇だった。軍事政権による民衆への締め付けがさらに強まっていった70年代、イ・マニは暗い世相をストレートに反映した作品を作るより、観客を元気づけるような映画、あるいは人間の良心やポジティヴィティを思い出させてくれるような映画を作ることを選んだのではないだろうか。それが本作『0時』であり、傑作『太陽のような少女』(1974)なのだと思う。

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 『0時』では、イ・マニ監督の子どもを撮る巧さが存分に発揮されている。刑事ドラマかと思ったら児童映画だった、という印象を抱いてしまうくらい、とにかく劇中の少年たちを活き活きと描くことに精魂が傾けられている。子どもを悪辣な生き物としてしか描けないキム・ギヨン監督とは正反対のスタンスだ(それはそれで凄いが)。子どもたちのテーマとして流れるギターの音楽も、『クレイマー、クレイマー』(1979)を思い出させるようなメロディーで耳に残る。実質的な主人公といえる少年キュシク役を見事に演じたイ・スンヒョンは、本作で第10回青龍映画賞の奨励賞に輝いた。

 そして、他の作品同様、やはりロケーションが素晴らしい。チャン刑事一家が暮らすアパートの屋上からは、南大門市場の景観が広がり、72年当時の近代都市ソウルの姿がダイナミックに映し出される。また、キュシク少年が自転車で駆けめぐる駅前や広場のにぎやかさも、同じくらい印象的だ。洪水のように溢れる車や人の群れをすり抜け、ほとんどカースタントの域に達した走りを見せる自転車小僧の背景には、高度成長期の大都会の表情が見事に収められている。

 ヒューマニズムを前面に押し出した作品ながら、ちゃんと都会的で洒落た犯罪映画的ムードを醸し出す辺りは、さすがイ・マニといった感じ(彼は60年代中期にスリラーの名手としても名を馳せていた)。シン・ソンイル演じる刑事と、バイク強盗の若者がビリヤードをしながら牽制し合う場面など、いかにもそれっぽいムードが漂っていて楽しい。キュシク少年の乗った自転車と、誘拐犯の三輪自動車のチェイスシーンでも、巧みなショットの積み重ねがスリルを醸成する。

 笑いもふんだんにある。特に、ボーイとして働くことになったインドルと、彼に客の送り迎えの言い方を指南するキュシクの掛け合いは、言葉があまり分からなくてもたまらなくおかしい。また、刑事部屋にある複数の電話を使ったお約束のギャグも、実に心地好く見せてくれる。口当たりはあくまでソフトな佳作だが、イ・マニ監督の名人芸を随所に堪能できる作品だ。もういちど、できれば今度は日本語字幕つきで観てみたい。

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『休日』(1968)

『休日』
原題:휴일(1968)
英語題:Holiday

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 1960?70年代の韓国映画界で、多彩なジャンルの秀作を残した伝説的監督、イ・マニ。遺作となった『森浦への道』(1975)の編集中に45歳という若さで世を去るまで、彼は24年間に50本もの長編映画を監督した。1966年公開の代表作『晩秋』は、当時から映画史に残る名作と謳われ、のちに斎藤耕一監督によって『約束』(1972)として再映画化。さらにキム・ギヨン監督の『肉体の約束』(1975)、キム・ヘジャ主演の『晩秋』(1981)と繰り返しリメイクされ、現在は米国ロケを敢行したヒョンビン主演の最新版が公開待機中だ(残念ながらオリジナル版のフィルムは現存していない)。また、『グッド・バッド・ウィアード』(2008)の元ネタとなった満州ウエスタン『鉄鎖を断て』(1971)の監督としても知られている。

 『休日』は、恋人から妊娠したと告げられた若い男の一日を綴る、73分の小品だ。徹底的にメランコリックで悲劇的な内容だが、同時に穏やかな美しさと慈しみにも満ちた傑作である。イ・マニ監督のフィルモグラフィーの中でも、本作は幻の1本と言われていた。「退廃的で暗すぎる」という理由から検閲を通過できず、とうとう一度も劇場にかかることなく封印されてしまったからである。それから37年後の2005年、奇跡的にフィルムが発掘され、同年のプサン国際映画祭の「イ・マニ回顧展」などで上映されて大きな話題を呼んだ。現在は「kmdb」の動画配信サービスで観ることができる。

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〈おはなし〉
 教会の鐘の音が鳴り響く、冬の終わりのある日曜日。すっからかんのホウク(シン・ソンイル)は、いつものように恋人ジヨン(チョン・ジヨン)に会いに行く。彼女はホウクとの子供を身籠っていたが、ふたりとも今は家庭を設ける余裕などない。ホウクは堕胎手術の費用を得るため、ジヨンを公園に待たせて知り合いを訪ねて回る。しかし、行く先々でことごとく拒絶され、ついには友人の金を盗んで逃げてしまう。

 病院へやってきたふたりは、待合室で心変わりして医師に出産の相談をする。が、医師はジヨンの健康に問題があるので堕胎することを薦める。彼女が手術を受けている間、ホウクは再び孤独に街を彷徨う。サロンで酒を飲んでいた彼は、そこでひとりの寂しげな美女と出会い、一緒に酒場や屋台を転々。泥酔したふたりは工事現場で情事に及ぼうとするが、教会の鐘の音で我に返ったホウクは、愛するジヨンのもとへひた走る。

 病院に駆けつけたホウクに、医師はジヨンが手術中に死んだことを告げる。ホウクは悲しみに打ちのめされながら、彼女の父親の家を訪ねて事情を説明するものの、門前払いに遭ってしまう。さらに、金を盗んだ友人にも捕まり、思う存分ぶちのめされる。顔中を血だらけにしたまま、恋人と過ごした日々のことを思い浮かべながら、夜道をひたすら走り続けるホウク。そして、彼は行き先も知らない路面電車に飛び乗るのだった……。

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 冷たい風が吹きすさぶ丘の上の公園、すすけた裏路地、喧噪に溢れる歓楽街、終わらぬ夜を走り続ける路面電車……。イ・マニ作品に登場するロケーションはいつも強く印象に残るが、本作に出てくるソウルの情景の数々は、抜群に素晴らしい。冬枯れの街のうら寂しさ、都会の冷たい拒絶感をひしひしと伝えながら、そこに映しだされる光景は実に表情豊かで、趣深くもある。

 まだ戦後の貧しさが影を落とす68年当時のソウルを見事に捉えたモノクロームの映像が、全てに拒まれ、彷徨う男の孤独を見事に際立たせる。極端なローアングルや俯瞰を大胆に取り混ぜたカメラワークも、ヌーヴェルヴァーグ直撃世代のイ・マニ監督の実験性をうかがわせて印象的だ。そして、男の帰りを待ち、公園でひとり佇むヒロインの姿を映すシーンは、まさにフォトジェニック。詩情溢れる美しさとはこのことだ。これを観ると、いまだ見ぬ幻の名画『晩秋』への夢も、否応なく膨らんでしまうというもの。

 ある「休日」をひとつの縮図として、イ・マニは人生そのもののやりきれなさ、閉塞感を映し出してみせる。ストーリーだけ見ると、暗く絶望的なだけの映画かと思われてしまいそうだが、実際にはユーモアや温かみを感じさせる場面が随所に配されており、決して観た人をどん底まで落ち込ませるイヤガラセのような作品にはなっていない。同時に、突き放した客観性も保たれているので、ひとりよがりの自己憐憫を綴ったプライベートフィルムとも異なっている。あくまで普遍的なドラマとして、人間のネガティヴィティを見つめ、それを否定もせず、とても分かりやすいかたちで観客に伝える秀逸なフィルムに仕上がっているのだ。(実際には、人々の目に触れるまで40年近くかかったのだけれども)

 映画の前半、観客が主人公のキャラクターに感情移入できるポイントとなるシーンが、実にスマートで素晴らしい。恋人との待ち合わせ場所に向かうため、無一文の彼はタクシーに無賃乗車し、続いて売店でタバコ1箱をタダでせしめる。しめしめとほくそ笑んでいると、彼はマッチを持っていないことに気づき、近くで焚き火にあたっていた労働者たちのもとに近付く。火種を借り、一服した彼は、ごく自然にその場にいた人々全員にタバコを分け与える……。このひと続きのシークェンスで、主人公の小ずるさと、実は優しく気のいいヤツであるという部分を、見事に描きだしてみせるのだ。イ・マニの人間描写のうまさが際立つシーンである。

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 優柔不断で小心者で、悪いヤツではないが負にからめとられやすいたちの男・ホウクを、シン・ソンイルは完璧に演じきっている。性(さが)としての「どうしようもなさ」と「優しさ」を、不可分のものとして体現できる彼の資質を、イ・マニ監督は誰よりも的確に見抜いていたのではないだろうか。本作の素晴らしく繊細な演技を見ていると、そんなことをしみじみと思ってしまう。

 終盤、血だらけの主人公を乗せて夜の街を走り続ける路面電車の画は、どこかユ・ヒョンモク監督の名作『誤発弾』(1961)のラストにも似ている。文字どおりの終着駅=デッドエンドに向かいながら、全てを失った彼の疲れきったモノローグが被さる。無字幕で観たのでどんな台詞か最初は分からなかったが、あとで内容を調べてみたところ、思わず二度泣きしてしまった。なんて味わい深いエンディングなんだろう……。ぜひ、映画祭などでちゃんと字幕つきで観てみたいと思った。

 脚本を手がけたペク・ギョルによると、本作はシナリオの事前審査でも「暗いから直せ」と言われ、その段階ですでに本来あったプロローグとエピローグを削っているらしい。まず、オープニングは川で水死体となっているホウクの姿から始まり、『サンセット大通り』(1950)のように死んだ男のナレーションが被さって物語がスタートする。そしてエピローグでは、遺体の損傷が激しいために誰も彼の身元を確認できず、警官が手帳に「身元不明」と書き込んで終わるというオチだったそうだ。また、映画完成後の審査では、ホウクが髪を刈って軍隊に行く(!)ラストシーンを足せば、公開許可を出すと言われたらしい。これには監督、脚本家はもちろん、プロデューサーまでも反対したので、結局オクラ入りになってしまったのだとか。

 こんなに美しい作品が公開禁止に追い込まれたのは、その内容があまりにも激しく検閲官のパーソナルな心情を揺さぶったからではないか? などと思ってしまうくらい、今でも名作として十分通用する映画だと思う。映画評論家のホ・ムニョンは、2005年の初上映に寄せて、本作を「最もイ・マニ的な作品のひとつ」と評した。

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『守節』(1973)

『守節』
原題:수절(1973)
英語題:Fidelity

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 UCLA仕込みの映画理論と強靭な反骨精神を武器に、制約に満ちた70年代韓国映画界を駆け抜け、代表作『馬鹿たちの行進』(1975)の続編となる『ピョンテとヨンジャ』(1979)の公開中、わずか38歳で世を去った不遇の天才監督ハ・ギルジョン。『守節』は彼の商業映画2作目となるホラー仕立ての時代劇である。古典怪談と武侠アクションを融合させたような筋立てを用いて、横暴な権力に苦しめられる民衆の痛みをこれでもかというほど苛烈に描き、当時の抑圧的な軍事政権体制を批判。劇場公開時には当局の検閲によって20分近くもカットされてしまったという、曰くつきの作品だ。これも「kmdb」の動画配信で観賞。

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〈おはなし〉
 高句麗時代。家族を残して戦に出ていた男・ユー(ハ・ミョンジュン)が、捕虜の身から解放され、10年ぶりに故郷へ帰ってくる。懐かしい我が家へ戻った彼を出迎えたのは、変わらぬ美貌を湛える妻のキル(パク・ジヨン)と、美しく成長した娘のヨン(イ・ヨンオク)だった。夢にまで見た一家団欒の時を過ごすユーたち。しかし、妻と娘はすでにこの世の者ではなかった。

 翌朝、ユーが目覚めると、そこは廃墟であった。そして、なぜか家の周囲を見回りに来ていた武士が、小川に顔を突っ込んで死んでいた。ユーは、血文字で書かれた妻の手紙を読み、真相を知る。数年前、戦争で女子供と老人しかいなくなった村を武士の一団が襲い、食糧や財産を全て奪った上、凄惨な虐殺や陵辱が繰り広げられたこと。キルたち母娘はからくも山奥へ逃げのびたものの、日照りのため地獄のような飢えに苦しんだこと。食糧を探しに行ったキルが、精魂尽き果て倒れたところを当主にさらわれ、強姦された挙げ句、生き残った村人たちに売女と罵られ嬲り殺しにされたこと。母の悲惨な死を目の当たりにした娘ヨンも、武士に犯され殺されたこと……。

 怒りに打ち震えるユーは、家族と村を破滅に導いた当主のもとへ向かい、単身戦いを挑む。配下たちを次々と叩き斬っていくユーに、当主は1対1の決闘を申し出る。後日、河原で対峙するふたりの男。はたして勝負の行方は……?

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 ホラー映画調の前半では、いかにも様式的な照明効果を駆使して巧みに怪奇ムードを醸成しており、また後半の剣戟アクションの部分でも、そつのない演出力を披露している。だが、この映画でハ・ギルジョン監督が最も力を注いでいるのが、権力に蹂躙される弱者の苦しみをとことんハードに描いた中盤のシークェンスであることは、誰の目にも明らかだ。

 特に、家も畑も失った母娘を襲う飢餓の描写は凄まじく、生々しいリアリティで観る者を圧倒する。荒らされた畑に残った芋の切れ端や、木の葉の裏についた露をかき集め、何も口にできない日はただ死んだように横たわるしかない。ついには、喉の渇きを訴えて苦悶する娘のために、母親が自らの指を噛み切り、その血を飲ませる。ここまで壮絶な“母子愛”のシーンはあまり観たことがない。演じているのがパク・ジヨンとイ・ヨンオクという、非常に美しい女優たちであるゆえに、なおさらその悲惨さと痛ましさが際立つ。

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 生々しいと言えば、略奪者の群れが村の女たちを陵辱するくだりも、当時としては過激だったであろうしつこさとリアリティをもって描かれている。昔から韓国映画には暴力としてのセックスが登場することが少なくないが、本作のそれはひときわ生々しく、パワフルで、陰惨だ。扇情的な意味合いよりも、明らかに怒りをもって韓国的マチズモを批判しており、言うまでもなく強圧的な政治体制のメタファーともなっている。

 後半でヒロインが当主に犯されるシーンも、かなりのインパクト。ここでは彼女の見る幻影として、原色照明の中で全裸の女たちが悶え苦しむサバト的光景が展開し、おどろおどろしい地獄絵図ビジョンで「女の悪夢」を表現している。検閲でカットされた場面の多くも、これらの暴力的シーンがほとんどだったそうだ。

 その一方、前半でユーと妻が10年ぶりに床を共にするシーンでは、あくまでナチュラルに夫婦の営みを描こうという別の意味でのリアリティが感じられる。そこまで露骨な描写ではないものの、ありがちな抽象表現には逃げていないところに、そこはかとない“ニューシネマ作家の血”を感じた。(ハ・ギルジョンがUCLA映画学科に在籍していた時、1年先輩にはフランシス・フォード・コッポラがいた)

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 力なき民衆を象徴する母娘を、考えうるかぎり最悪の結末へといざなう悲劇性の徹底ぶりには、凄まじいものがある。ハ・ギルジョンは常に作品中に象徴的な意味を持たせようとする作家だった。それは後年の『ハンネの昇天』でさらに研ぎ澄まされていくが、『ハンネ』はもはや「何かの象徴」であることが前提の物語になっていて、ドラマ単体として面白いかどうかは疑問の残る作品だった(それほど当時は「言いたいことが言えない」状況がどんどん悪化していた、という証拠でもある)。『守節』は、いくぶんB級ジャンル映画的な素材と、ハ・ギルジョン監督ならではの象徴性がうまい具合に噛み合った佳作だ。あからさまにカットされた部分も目立つし、残念なところもあるが、一見の価値はあると思う。

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 母親役のパク・ジヨン、娘役のイ・ヨンオクの熱演が何しろ素晴らしい。イ・ヨンオクは、ハ・ギルジョン監督の次作『馬鹿たちの行進』でもヒロインを演じ、一躍スターダムに駆け上がった。彼女たちの力のこもった演技に比べると、やや影の薄い主人公ユーを演じるのは、監督の実弟であるハ・ミョンジュン。のちに主演したイム・グォンテク監督の『族譜』(1978)や、イ・ドゥヨン監督の『最後の証人』(1980)などに比べると、とにかく若い! 主要キャストの中ではいちばん初々しく見えるくらいだ。

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『君もまた星となって』(1975)

『君もまた星となって』
原題:너 또한 별이 되어(1975)
英語題:You become a star, too.

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 韓国の映画データベースサイト「kmdb」で、古典映画ライブラリーの動画配信サービスが行われていることは、前にも何度か書いた。ただし海外からのアクセスの場合、月替わりで無料配信される特集コーナーの作品しか観られないと聞いていたので、まあ観られるだけいいか……と思いつつ、毎月の特集だけを楽しみにしていた。ところが、ついこないだ弾みで有料配信タイトルの再生ボタンをクリックしてみたところ、ちゃんと国外からでもクレジット決済を受け付けてくれることが判明。今までの無駄な時間は一体なんだったんだ! とアタマをかきむしりつつ、さっそく何本か観てみた。ちなみに有料動画配信の利用料金は14日間で5000ウォン、1ヶ月で1万ウォン。そこに、1本観るごとに500ウォンが加算されていく。現在の日本円に換算すると、14日間に1本ずつ観たとしても、全部で1000円くらいにしかならない。つまり、アホみたいに安い。

 そんなわけでまず最初に紹介する『君もまた星となって』は、80年代韓国ニューウェーヴの代表格として名を馳せたイ・ジャンホ監督の長編第3作。ロマンティックな響きを持つ題名ながら、中身はなんと『エクソシスト』(1973)の亜流である。さらに、韓国映画お得意の青春メロドラマ的要素を盛り込み、キム・ギヨン監督作品の向こうを張ったような奇抜な演出が随所にスパークする、カルトムービーの資格十分の怪作であった。

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〈おはなし〉
 山から飛んできた1匹の蝶が、郊外のとある一軒家に入ってくる。そこに、宝くじを当てて大金を得た会社員のサンギュ(シン・ソンイル)が、妻と娘を連れて引っ越してきた。念願のマイホームを手に入れ、新生活のスタートに胸躍らせるサンギュ一家。

 ある夜、残業していたサンギュはタクシーに乗りそびれ、外出禁止令下のソウルを彷徨う羽目に。そこで彼は、ひとりの少女ミウ(イ・ヨンオク)と出会う。彼女は人気歌手ソン・チョルホの大ファンだった。偵察車の目をかいくぐりながらホテルにたどり着いたふたりは、共に夜明けまで過ごし、そして別れる。

 一方、新居に引っ越して以来、サンギュの娘ユンジョン(ユン・ユソン)は奇妙な幻覚を見るようになる。やがて彼女自身も異常な言動をとり始め、病院で精密検査をすることに。だが、原因は医師たちにも分からずじまい。彼女はより専門的な治療を受けるため、ロンドンの病院へと向かった。

 ひとり残されたサンギュの前に、再びミウが現れる。憧れの相手だったチョルホに拒絶された彼女は、あてどなく現世を彷徨い続けていたのだ。互いの孤独を補い合うかのように、結ばれるサンギュとミウ。その頃、巷では謎の連続怪死事件が頻発しており、その中にはチョルホの姿もあった。

 帰国したユンジョンはすっかり回復したかに見えたが、自宅に戻った途端、さらに症状は悪化。そこで彼女の主治医は、イギリスの教会から心霊学者を招き、悪霊祓いの儀式を決行しようとする。そこに、連続怪死事件を捜査していた刑事が訪ねてきて……。

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 簡単に言うと、幽霊モノと悪魔憑きモノを合体させたような内容だが、最初はどういう方向へ映画が進んでいくのか皆目分からなかった。もちろん自分に語学力がないせいもあったけど、とにかく話があちこちに飛びまくるし、解説ページのあらすじを読んでもよく理解できない。なんとなく、現代人の抱える神経症的な不安を、群像劇スタイルで描いた不条理スリラーなのかな……でも場面によっては撮り方が完全にホラー映画だし……キム・ギヨンっぽいことをやろうとしているのかな……とか思いながら観ていると、だんだん「ああ、やっぱり『エクソシスト』の二番煎じでよかったのか!」と分かってくるが、それでもメロドラマ的な色彩や青春残酷物語的な展開は、終盤に至っても節操なく投入され続ける。

 そう易々とは観客にジャンルを見定めることを許さない映画作りというか、違う言い方をすれば「盛り込みすぎな上に、迷走を恐れない語り口」というのは、韓国映画の大きな特徴のひとつでもある。本作の場合も、あとから思えば一応ちゃんと考えてシナリオを設計していたような気がしないでもない構成にはなっているが、デタラメぶりも同じくらい確信犯的だ。さすがは『馬鹿宣言』(1983)のイ・ジャンホ監督。

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 イ・ジャンホは『エクソシスト』にはないオリジナル要素をふんだんに加え、それらを綺麗に過不足なくまとめようとはせず、意図的にとっ散らかった風変わりなドラマとして仕上げている。現代人のマイホーム願望、アイドル歌手に恋をした少女の悲劇、奇怪な連続殺人事件とそれを追う刑事、オープニングとエンディングを結ぶ蝶(=魂の化身)の存在などなど……。お世辞にも全てがうまく機能しているとは言えないものの、いくつかの要素は非常に魅力的。そのイビツさも含め、トラッシュ映画ファンには捨てがたい輝きを放つ作品となっていることは確かだ。

 個人的に印象深かったのは、映画の前半、シン・ソンイル演じる主人公とヒロインの少女が、外出禁止令下の真夜中のソウルを彷徨うシーン。軍事政権下の70年代韓国ならではの場面であり、暗闇に包まれた無人の街というシチュエーションは、どこかシュールでロマンティックでもある。こんな夜なら幽霊に出会っても不思議ではない、と思わせるのだ。(当時の韓国ではそれが日常だったのだけれども)

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 もちろんプロデューサーからは「『エクソシスト』っぽいやつ頼むよ! 似たようなシーンもバンバン入れてさ!」みたいな注文が最優先事項としてあったと思われ、イ・ジャンホはそこにもきっちり職人的に応えている。異常をきたした少女がドロドロの液体(というか、お粥)を吐くシーンや、病院で精密検査を受けるシーンなどは、まるっきり原典のまんま。ちゃんと「お前は宇宙で死ぬ」的な台詞を言うシーンもあるし、せっかく焼き直すならもっと強烈にいてまえ! というヤケクソなバージョンアップもいろいろと施されている。例えば少女が失禁する場面は、本作では股間から噴水のごとく血が噴き出すという描写になっており、数段ショッキングかつえげつない。男が首をねじ切られるという残酷シーンもあり(ちょっとカットされてるっぽいが)。『低きところに臨みたまえ』(1981)なんて真面目な宗教映画も作ってるくせに……。

 最終的に、事件の原因をハードコアな「女の悲劇」に落ち着かせてしまう筋立ては、いかにも男性優位社会の古典的な女性観に基づいたもので、若干うんざりする部分はある。とはいえ、男尊女卑思想がまるだしの一般的な韓国怪談映画群に比べれば、この映画のヒロイン描写は一線を画しているとも言える。

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 主演のシン・ソンイルは、60?70年代の韓国映画界を代表するハンサム男優。ギターを抱えた可憐な少女ミウを演じるのは、『馬鹿たちの行進』(1975)『ピョンテとヨンジャ』(1979)のヒロイン役も印象的だったイ・ヨンオク。宙を飛んだり血尿を出したり大変な熱演を披露している娘ユンジョン役のユン・ユソンは、その後も女優業を続け、最近では『宮?Love in Palace?』『善徳女王』などに出演し、TVドラマを中心に活躍中だ。どこか頼りないコメディリリーフ的な刑事に扮する名脇役のシングも、いい味を出している。

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