Simply Dead

映画の感想文。

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『シエラデコブレの幽霊』(1965)

『シエラデコブレの幽霊』
原題:The Haunted(1965)
別題:The Ghost of Sierra de Cobre

 ちょっとディープな映画好きなら一度は目にしたことがあるタイトルだと思う。個人的には中学生の時に読んだ竹中直人のエッセイで初めて知った。「子どもの頃にテレビで観た、ものすごく怖い映画。マーティン・ランドーが主演で、女教師の幽霊が出てくる話」というような記述だった。しかしその後、オフィシャルな文献というものに出会ったことがない。本当にそんな映画があるのか? ひょっとしたら幻なのでは? とさえ思ったりした。

 だが、作家の井上雅彦など、他にもこの映画をテレビで観たという人がいて、しかも『サイコ』(1960)の脚本家ジョゼフ・ステファーノが関わっているらしい、といったことを知るのはかなり後のこと。どの道、もう観られない作品であることには違いなかった。

 ところが昨年、その『シエラデコブレの幽霊』の16mmプリントを誰かが入手し、都内某所で試写が行われたという(知り合いも多数参加していた)。うわー行きたかったなーと歯噛みしていたら、なんと「カナザワ映画祭2007・青いオトコ祭り」のオールナイトで上映されるという報せが。他にも観たいプログラムが山ほどあるので、ちょうどいいや、ということで休暇旅行もかねて観に行ってきた。

 そして迎えた上映当夜。会場となった「金沢駅前シネマ」自体のインパクトがまず凄かった。絵に描いたような三番館の侘いと、スプリングのガツンときいた椅子の感触がまさに和製グラインドハウスで、失われたホラー映画に出会うにはもってこい(?)の小屋だった。観客全員がジョン・カーペンターの『世界の終り』のように呪いを受けても不思議ではない。

 上映前には、プリントの所有者である評論家の添野知生さんと、今回の上映を手配した『美女濡れ酒場』の樫原辰郎監督による、作品解説とフィルム入手のいきさつが語られた。この映画が実は『The Haunted』というテレビシリーズ企画のパイロット中編であること、企画立案者のジョゼフ・ステファーノ唯一の監督作であること、あまりの怖さにテレビ向きでないと判断されてアメリカではお蔵入りになったこと、それでも日本やイギリスやオーストラリアなど幾つかの国では放映され、多くの視聴者にトラウマを植え付けたこと……。

 特に強烈だったのは、試写に立ち会ったCBSの重役陣のひとりが恐怖のあまり吐いたらしい、という逸話。そりゃオンエアできねえよな。しかもカットや修正を加えてマイルドなものに調整するとかじゃなく、完全封印・企画も中止という扱い。そこまで厳しい、ある種ヒステリックな反応を引き出したフィルムとは、一体どんなものなのか?

 あんまり期待しすぎると、大概の映画はつまらなく感じてしまうものだが、『シエラデコブレの幽霊』は違った。当時観た人々が語るとおり、ちゃんと怖かった。

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〈おはなし〉
 ネルソン・オライオン(マーティン・ランドー)は著名な建築家にして心霊探偵。彼は盲目の資産家ヘンリー・マンドールの依頼で、真夜中の納骨堂を訪れる。そこに永眠しているはずの母親が、夜ごと電話をかけてくるというのだ。

 ヘンリーの妻ヴィヴィア(ダイアン・ベイカー)もネルソンの調査に同行するが、ドライな彼女はそんな話を信じておらず、ネルソンのことも「霊媒師」と揶揄する。

 2人が地下にある納棺室に入ると、母親の遺言で据え付けられた電話機には温もりが。そこに一陣の風が吹き、何者かの気配を感じた彼らは部屋をあとにする。しかし、ハンドバッグを忘れたヴィヴィアが1人で墓へと戻ってしまった。そのとき、彼女の前に恐ろしい幽霊が姿を現した……!

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 60年代の白黒テレビ映画だからといって、クラシック・スタイルの静謐な恐怖演出を期待すると、まず面食らう。描写の多くが強迫的で、何か過剰なのだ。強烈なのは“幽霊の悲鳴”。誰もいないはずの納骨堂に、苦悶に満ちた女性の嗚咽が響きわたる……。この叫びが本当にイヤな感じで、音響ホラーとしてはかなり上位に入ると思う。そして何のためらいもなく、当然のごとく姿を現す幽霊のビジュアルも、子どもが見たら引き付けを起こすくらいグロテスクだ。ここではステファーノが企画・製作したカルトSFシリーズ『アウター・リミッツ』(1963?)で用いられたSFX技法が、効果的に使われている。

 ステファーノは、幽霊を疑いの余地なく「恐ろしいもの」として描いた。ムード作りやカッティングの技も相当なもので、とても初監督作とは思えない。ヤワなテレビ屋が吐くほど追いつめられた気持ちも分かる気がした。

 怖いのは描写だけではない。話もしっかり陰惨だ。上に書いたあらすじは、本編の冒頭15分ほどの部分でしかない。終盤で明らかにされる因縁話は「テレビでそりゃねえだろ」と思わずにはいられない。化けて出ても仕方のない、説得力抜群の悲惨な死を遂げた幽霊が登場するのだ。

 一方で本作は、映画とは違うテレビムービーであり、しかも一発で視聴者の興味を惹かなければならないパイロット版である。ゆえに、悠長で生ぬるい古典的演出などやってられなかったということもあるだろう。ドラマ全体の語り口はスピーディで台詞量も多く、二転三転する展開で視聴者を退屈させないよう腐心している。

 また、パイロット版だけあって、その後のシリーズ化を考慮したキャラクター設定や小道具の使い方、ストーリーの趣向が随所に盛り込まれており、そのあたりのディテールを見るのも楽しい。心霊探偵マーティン・ランドーの主人公ぶりも堂に入っている。ヒロインのダイアン・ベイカーはどこかで見たことがあると思ったら、『羊たちの沈黙』(1991)で娘を誘拐された上院議員を演じていた人だった。

 陰影を巧みに配した撮影を手がけたのは、『アウター・リミッツ』でも腕を振るった名手コンラッド・ホール。『冷血』(1967)『アメリカン・ビューティー』(1999)など、数々の偉業を残したハリウッドを代表する撮影監督である。そして、カメラオペレーターを『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)『エクソシスト2』(1977)のウィリアム・A・フレイカーが務めているのも、映画ファン的には注目のポイント。「マスターズ・オブ・ライト」に登場する撮影監督が2人も参加しているのだから。

 1本の映画としてはイレギュラーな体裁の作品だが、単純に面白いフィルムであることは間違いない。せっかく封印が解けたことだし、もっとみんなに観られていいんじゃないかと思う。あるいは、また幻のフィルムとして闇の彼方に消えていくのか……。

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『ガンマン無頼 地獄人別帖』(1971)

『ガンマン無頼 地獄人別帖』
原題:La Vendetta e Un Piatto Che Si Serve Freddo(1971)

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 レナード・マン主演の異色マカロニウエスタン。人類みな兄弟を謳って穏やかに暮らす一家が、ある日インディアンの大群に襲われ虐殺される。唯一生き残った少年はやがて一匹狼のガンマンとなり、インディアンと見れば誰彼かまわず殺して頭皮を剥ぐ復讐の鬼と化した。が、事件には意外な真相が……という、オチがバレバレのどうしようもなく救いのない話。いくら主人公が途中で事実を知って改心したところで、罪咎のないインディアンを殺しまくってるんだから最後は死ぬしかないだろう、と思うのだけど、特に悪びれない態度で最後まで生き延びてしまうので、凄くヤな感じ。彼に命を助けられ、恋してしまうインディアン娘に「俺は昔の俺とは違うゼ」とか言い捨てて去っていくラストは、お願いだから矢が飛んできてこのバカに刺さってくださいと念じずにはいられない。

 レナード・マンが憂いを湛えた寡黙なキャラクターをナルシスティックに演じれば演じるほど、異常さが漂う。ほとんど刷り込みのようにインディアンを殺さずにはいられないというキャラクター設定は面白いけど、いまいちその狂気を活かせていないうらみがある。実際、映画は単なる復讐ウエスタンの勘違いバリエーションにしかなっていない。

 原案・脚本・監督のウィリアム・レッドフォードは、『鉄人長官』(1977)のパスクァーレ・スクイティエリの偽名で、これがデビュー作。もっと徹底的に非情な演出を貫ければあるいは傑作になったかもしれないが、中盤からコメディリリーフの世話焼きオヤジ(ステファン・ザカリアス)が出てきてストーリーの牽引役になったりするので、半端な印象は拭えない。しかも、コミカルな場面の方が明らかに演出が活気づいてたりする。とはいえ冒頭の一家襲撃シーンでは、いきなり女の子の腹に矢がドスッと刺さったりするのでビックリする。主人公が戦利品(インディアンの頭皮)をかつらとして売りさばいているという設定は、ほとんどホラー映画だ。でも、そこまで残酷シーンが売りになっているかというと、そうでもないのでまた微妙。クライマックスに繰り広げられるアクションも、繋ぎがヘッタクソで何が起こっているのか分からない。

 セコい悪役で出演のクラウス・キンスキーも見せ場なし。悪い意味での異色作。ちなみにフランコ・ネロ主演の『ガンマン無頼』(1966)とは無関係。

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DVD「マカロニウエスタンDVD-BOX 哀愁篇」

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『Moonlighting』(1982)

『Moonlighting』(1982)

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〈おはなし〉
 1981年の冬。ノヴァク(ジェレミー・アイアンズ)ら4人のポーランド人労働者が、ロンドンへ出稼ぎにやってくる。彼らが請け負った仕事は、とある民家の改築作業。4人はその家に住み込みながら、黙々と内部を破壊していく。1人だけ英語が喋れるノヴァクは、世話役として忙しく立ち回るが、祖国に残してきた恋人(と、彼は思い込んでいる)アンナのことが気にかかって仕方がない。

 ところがある時、ポーランドで戒厳令がしかれ、国外からは音信不通状態に。途方に暮れるノヴァクだったが、他の3人にはその事実を伝えることができない。彼は3人を作業に集中させるため、外部との接触を禁じ、さらなる重労働を強いる。生活費を切り詰めるために万引きを繰り返すなど、搾取・検閲・犯罪・欺瞞に染まっていくノヴァク。はたして彼は真実を伝えることができるのだろうか。そして今、祖国はどうなっているのか……。

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 ポーランド出身の奇才、イエジー・スコリモフスキー監督がイギリスで撮り上げた傑作。前年に起きたポーランド民主化運動の軍事的弾圧をモチーフに、異邦人として取り残された人々の姿をサタイア風に描いた、アクチュアルなドラマだ。スコリモフスキーは本作でカンヌ国際映画祭の脚本賞を受賞。主演のジェレミー・アイアンズも高く評価された。原題の『Moonlighting』とは「不法労働」の意。

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 冒頭の入国手続きの場面で、主人公が旅行目的と嘘をついて入国許可を得た後、審査官から「〈連帯〉のメンバーか?」と問われるシーンがある。ノヴァクは「いいえ」と答え、次にこんなモノローグが続く。「その時に答えた言葉の中で、それだけが唯一本当のことだった」。

 〈連帯〉とは、ポーランド民主化を目指して80年に結成された、国内初の自主管理労働組合のこと。しかし、1981年12月の戒厳令で、初代議長レフ・ヴァウェンサらが拘禁され、その活動は軍によって弾圧されてしまう。この事件は西側諸国からの批判を浴び、スコリモフスキーはすぐに本作『Moonlighting』の脚本を書き上げ、翌年には映画を完成させた。そのフットワークの軽さと創作力には驚いてしまうが、そのスピードこそが企画の要だったのだろう。かつて『手を上げろ』(1967)で描いた政治風刺が検閲を受けたことで、自国ポーランドを捨てざるを得なかったスコリモフスキーにとっては、何が何でもすぐに映画化するべき題材だったはずだ。やっと芽生えかけた祖国の自由化が、またしても権力に叩き潰されたのだから。

 だが、この映画はバカ正直にポーランド政府を批判し、〈連帯〉を支援するような内容ではない。スコリモフスキーの映画だからだ。

 主人公ノヴァクは、冒頭で自ら語るように〈連帯〉の一員ではなく、最後まで自由とか正義に目覚めたりしない。どちらかというと社会のシステムに従順で、支配されることに甘んじているタイプだ。そんな男が、異国の地で統制を失った瞬間から、怪物的な愚かさを発揮していくさまを、スコリモフスキーは巧みな語り口で描いていく。自己判断能力にまるっきり欠け、嘘の上塗りを続けていればなんとかなると信じている主人公の姿には、抑圧的体制とそれに浸かりきった人民に対する痛烈なアイロニーが込められている。

 ジェレミー・アイアンズの滑稽かつ真に迫った演技が素晴らしい。全編を通して淡々と語られるモノローグが実に秀逸で、「私は英語が喋れるという理由からこの仕事に選ばれたが、その実、言葉の意味はよく分からなかった」など、忘れがたい名台詞がたくさん登場する。また、仲間たちに見つからないよう、主人公が〈連帯〉を応援する街頭ポスターを片っ端から剥がしていく場面なども、すごく可笑しい。

 括りとしては社会派作品になるのかもしれないが、そこはやはりスコリモフスキー作品なので、本作もシュールなユーモアに充ち満ちている。おっさんたちが異国語を喋りながらひたすら家屋をぶっ壊していく(自分たちが住んでるのに)という絵面からして、文字通りアナーキー。他にも細かいギャグが満載で、みんなでスーパーから段ボール箱を持ち帰るシーンでは1人が頭に箱を被っていたり(安部公房か!)、通行人のエキストラが巨大なパンダのぬいぐるみを担いでいたり。たまに冗談とも本気ともつかない謎めいた展開で観客を翻弄するスコリモフスキーの映画の中では、もっとも明解なコメディなのではないだろうか。上映時間も97分と相変わらずコンパクトで、凄く巧くまとまっている。なんで日本公開されなかったのか不思議だ(81年にはレフ・ヴァウェンサが来日だってしてるのに)。

 撮影はジェームズアイヴォリー作品を多く手がけているトニー・ピアース・ロバーツ。音楽は多作で知られるベテランのスタンリー・マイヤーズが作曲し、重たく不穏なシンセ音で映画を彩っている。彼はスコリモフスキーの『キング、クイーン、ジャック』(1974)や『Success is the Best Revenge』(1984)のスコアも手がけている。ちなみに本作の電子楽器奏者を務めたのは、後に売れっ子作曲家となるハンス・ジマーだ。

 時同じくして、イギリスの劇作家トム・ストッパードは〈連帯〉の活動をドラマ化。旧来の社会主義と西側の民主主義の折り合いをつけ、新たな社会を作ろうと試みたヴァウェンサたちの姿を追った物語を、彼は『Squaring the Circle』(1984)と題した。その円と同面積の四角形を求めよ、つまり「不可能なことに挑む」という意味合いである。だが、後に〈連帯〉の活動は合法化され、89年に行われた部分的自由選挙では旧来の統一労働者党を破って〈連帯〉が圧勝。90年には初の国民選挙でヴァウェンサがポーランド共和国大統領に選ばれた。スコリモフスキーもようやく祖国で映画を撮る環境が整い、およそ25年ぶりに監督作『Ferdydurke(30 Door Key)』(1991)をポーランドで撮影した。

▼『Moonlighting』撮影中のイエジー・スコリモフスキ(右手前)と、ジェレミー・アイアンズ(左奥)
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【追記(2011.5.26)】
 その後、イエジー・スコリモフスキ(ここ最近は「スコリモフスキ」表記のほうが一般化)は17年ぶりの監督作『アンナと過ごした4日間』(2008)を発表し、映画作家として完全復活を遂げた。日本ではポーランド時代の初期作品4本の特集上映も行われ、関連書籍も次々に出版。あまり事情の分からなかった製作時のバックグランドなども分かるようになった(詳しくは「イエジー・スコリモフスキ 紀伊國屋映画叢書・1」と、「エッセンス・オブ・スコリモフスキ」を参照のこと)。上記の『Ferdydurke(30 Door Key)』についての記述は間違いで、スコリモフスキはすでに『手を挙げろ!』(1967-1981)の追加撮影部分でポーランドでの撮影を敢行している。『Ferdydurke』はスコリモフスキにとって不満の残る出来だったらしく、彼が長い沈黙期間に入るきっかけとなった。いずれ、これらの作品についても書いておきたい。現在は、ヴィンセント・ギャロを主演に招いた最新作『エッセンシャル・キリング』(2010)が公開待機中である。

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『Moonlighting』DVD(US盤)

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『デス・プルーフinグラインドハウス』(2007)

『デス・プルーフ in グラインドハウス』
原題:Death Proof(2007)

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 何度も言うけど『デス・プルーフ』は本当に凄い。その衝撃は113分の単独公開版を観ても変わらなかった。個人的には、タイトに刈り込んだUSAバージョンの方が好きだし、飛躍も含めてちょうどいいバランスという気がする。それでも『デス・プルーフinグラインドハウス』は、タランティーノが苦手な人でさえ、今度こそ「こいつ凄い」と感じられる傑作だと思う。

 この単独公開版では、本作のトレードマークである女の子たちの会話シーンがさらに長くなり、ヒロインの1人であるバタフライがセクシーなラップダンスを披露する場面が「消失」せずに残り、中盤でロザリオ・ドーソン演じるアバナシーたちがコンビニに立ち寄るパートが追加されている(ここだけ唐突にフィルムが白黒になる)。その他、こまごまとした部分でUSAバージョンとは編集が違っており、体感時間もやや異なる。しかし、作品のハイライトである壮絶なカークラッシュと、終盤の手に汗握るカーチェイスに関しては手付かずで残されているので、傑作という印象は揺るがない。(でも正直、コンビニのシーンは要らなかったな……バーのシーンでの『ミーン・ストリート』を思わせるカメラワークも、なぜか長尺版ではインパクトが薄かった)

 恐るべき殺人鬼=スタントマン・マイクの膝の上で、褐色の美少女バタフライが豊かなヒップをグリグルリとひねり回すラップダンスの場面は、長尺版ならではのお楽しみだ。まさにグラインド・イン・ザ・ハウス! 全体に長くなった分、タランティーノ自ら撮影監督を務めるカメラの好色度も格段に上がっており、正直ちょっと胸焼けしてしまった。スラッシャー映画の法則上、なぜバタフライが生き残れなかったかも、こちらのバージョンでは明らかにされる。

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 実はいちばん気になっていたのは会話シーンの編集。あんまり長くなるとさすがにキツイかも、と思っていたけど、実際に観ると特に意味のないところを切っているだけなので、さほど印象は変わらなかった。よくなったとも思わないが、悪くなってもいない。やっぱり退屈一歩手前で観客の耳と目を捕え続けるテクが抜群に巧いのだ。

 『デス・プルーフ』で描かれる会話の面白さは、前にも書いたけど、まず台詞の言葉選びのセンス、役者たちの台詞回しの巧さ(B級映画にしてはみんな芝居ができすぎる)、そして「この会話は一体どこに行っちゃうんだろう?」というドキドキ感。着地点が見えないまま延々と続くガールズトークは、無駄を無駄とも思わないタランティーノの会話劇作家としての強い自負に裏付けられた試みであって、こんな思いきったことは他の娯楽映画監督にはできないだろう。よしんばオチなどなかったとしても、それはそれで驚かされるし、ぼんやり聞いているだけでも、女の子たちの会話に混じっているみたいで楽しい。

 ただ、誤解してならないのは、これらはタランティーノの脳内世界における「理想のイケてるギャル」の会話であるということ。こんなに下品でクレバーな言葉遣いがポンポン出てくるクールな女の子たちなんて、そうそういるわけない。ほとんど意味のない日常会話にも、よく聴けばタランティーノ節がガッツリ利いている。逆に言うと、『デス・プルーフ』ではタランティーノがこれまでの作品群で展開してきた台詞芸を、より自然なかたちへと落とし込んでいく作業に相当な労力が費やされている。だから、映画を観ながらタランティーノなりの現代アメリカ文学を読んでいるような目眩に陥るのだ。グラインドハウス映画なのに。

 そんな異形ぶりも含めて、本作は「グラインドハウス的」なのだ。監督自身、様々なインタビューで語っているように、グラインドハウスとは「自分の目の前で起きていることが信じられなくなる」ような、タガの外れた映画に出会う場所でもあった。例えばリノ・ディ・シルヴェストロ監督の諸作群……女囚ものがやりたいのかギャング映画がやりたいのか分からない『第7監房の女囚たち』(1974)とか、狼女が主役のはずなのに実は不憫な女性のサイコものだった『狼女の伝説』(1977)とか。同じような内容の映画ばかり観ている中で、突然ドキッとさせられる怪作にぶち当たるのも、グラインドハウス体験の醍醐味なのだ。

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 前の感想では書きそびれてしまったが、今回もやっぱり役者の揃え方が素晴らしい。というか、これまでとは一線を画したキャスティングになっていると思う。特に、出てくる女の子たちが(ロザリオ・ドーソンを除いて)いわゆるスターではなく、普通の存在感を醸し出せる顔ぶればかりで、その配役センスが本当に絶妙。しかも、クセのある台詞をスムースにセクシーに喋りこなす実力も兼ね備えている芸達者ばかり。中でも抜きん出ているのは、「よォ。俺、バリー」の一言で場をかっさらっていく女優マーシー役のマーシー・ハリエルではないか? まさに“バリー”としか呼びようのないテキサス男を即興で演じる彼女は、この映画に登場する誰よりも魅力的で最高におかしい「野郎」だった。素に戻る時の表情もえらいこと可愛い。

 2部構成をとる映画の前半でヒロインの1人“バタフライ”を演じるヴァネッサ・フェルリトは、あだっぽいルックスながら幼い可愛らしさと生真面目さも漂わせ、観客を魅了する。『チアガールVSテキサスコップ』(2005)のチョイ悪チアガールがこんな風に化けるとは……。前半のキャストの中ではいちばん魅力的に、というか、とても大事に撮られている気がした。「脚キャスティング」と思しきシドニー・タミーア・ポワティエは、DJ役というだけあって台詞回しに関しても芸能一家ならではの巧さを見せつける。これだけデキる子なのにお色気キャラで終わらせるのは可哀想だと思ったのか、タランティーノもわざわざ『ミッドナイト・クロス』(1981)の音楽を使ってロマンティックな場面を与え、役に奥行きを与えている(まるっきりギャグになってるけど)。

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 後半のキャストの中では、本人役で出演のスタントウーマン、ゾーイ・ベルの存在感が何しろ突出している。手に汗握る壮絶なカーチェイスシーンのスタントも凄まじいが、芝居の面でも秘めたる才能を発揮。友達のキムと口論する場面では、手の仕草など一挙手一投足が完璧にタランティーノ映画の主人公になっていて、凄くおかしかった。また、カーキチのキムに扮するトレイシー・トムズの快演も忘れがたい。『プラダを着た悪魔』(2006)の主人公の友人役も印象的だったが、本作では気の強いスタントドライバー役をパワフルに演じ、ハイテンションな芝居をのびのびと爆発させている。そして、観客の視点にいちばん近い立場であるアバナシー役のロザリオ・ドーソンも、いい意味でスターらしさを感じさせないナチュラルな表情が魅力的。このところの彼女の作品選びは素晴らしくて、ケヴィン・スミス監督の『クラークス2』(2006)にも出てるし、ロブ・ゾンビ監督の傑作『デビルズ・リジェクト』(2005)にも特別出演(残念ながら本編ではカット)。この3人が颯爽と反撃に向かうシーンは、もう涙なしには観られない。映画史に残る感動の名場面だと思う。

 だが本当の主役は、やはりスタントマン・マイクことカート・ラッセルだ。前半ではスネーク・プリスキンとジャック・バートンが混ざったような狂った男として登場し(おそらくスラッシャー映画史上最もよく喋る殺人鬼だろう)、後半では『トムとジェリー』のトムと化す(反撃されてヒドい目に遭うのもそっくり)。抱腹絶倒のラストでは、人間がこんなにマンガに近づくなんて! と感動してしまった。「よくもこんな役を引き受けたよなあ」と、その度量の大きさにはひたすら打たれるしかない。

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 そして音楽! デイヴ・ディー,ドージィ,ビーキィ,ミック&ティッチ!(あれ?) デイヴ・ディー,ドージィ,ビーキィ,ミック,ティッチ&ピート!(あれ?) 誰があの「Hold Tight」の邪悪なイントロを忘れられようか? バート・I・ゴードン監督の『Village of the Giants』(1965)から拝借したジャック・ニッチェ作曲のタイトルテーマも絶妙。衝撃的ラストを締めくくるエイプリル・マーチの「Chick Habit」も凄いインパクトだ(単独公開版には、サウンドトラックCDにも収録されていないオリジナルのフランス語で歌うパートが付いているので、ちょっとお得)。一緒に観に行った友達とも話したけど、これまではある種コマーシャル面を意識して選曲を行ってきたはずのタランティーノが、この映画に限っては徹底的に趣味性だけで音楽を構成している。その本気ぶりが映画をビッと引き締めている。

 USAバージョンは2回観て、今回初めて単独公開版を観たが、多分また劇場に足を運ぶと思う。ホント麻薬のような映画だ。川崎のシネコンで観た時は、600席ある劇場に20人ぐらいしか入っていない状況だったのに、ラストではやっぱり拍手と爆笑が巻き起こっていた。これはちょっと凄いことだと思う。

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『街のあかり』(2006)

『街のあかり』
原題:Laitakaupungin Valot(2006)

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 もはや映画を撮り続けることに絶望しているかのような、アキ・カウリスマキ監督の最新作。とにかくつまらない。撮りたいものがなきゃ止めりゃいいのに、とは言っても生活しなくてはならないから、日本のミニシアターファンみたいなカモがついているうちにさっさと搾り取っておかなければならない。

 「いつも同じだから観てる方も飽きたんじゃないか」とか、そういう問題じゃない。『過去のない男』(2002)だってまだなんとかキワキワで保っていたものが、『街のあかり』にはもはやないのだ。

 ユーモアもカリカチュアも捨て去り、劇的なるものをひたすら回避し、ただシニシズムと冷徹な視線だけが残ったカウリスマキの世界を支えてくれるはずのものが、この映画にはどこにもない。俳優たちに魅力はなく、古典ノワールに目配せしたストーリーも退屈で、シーン運びも心動かさない。観ている間ずっと、かつてのカウリスマキがいかに才気に満ちていたかを偲ばざるを得ないような無味乾燥ぶり。老境を迎えた作家のストイシズムが単純に悲惨な結果を招いた凡作だった。

 ただ、それでも映画を撮り続けなければならない商業アートフィルム監督の痛切さだけが突き刺さる。でもそんなことは僕に関係ないので、とりあえず金を返してほしい。

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『デジャヴ』(2006)

『デジャヴ』(2006)
原題:Deja Vu(2006)

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 トニー・スコットはわりかし好きな(というか憎めない)監督だった。けど、ここ数年は『マイ・ボディガード』(2004)に『ドミノ』(2005)と、やたらチャカチャカした編集のせいでドラマも芝居も台無しにしてる作品が続いていて、正直ウンザリしていた。「MTV風」を通り越して、どんどんジャンキーのトリップめいた映像テクニックに傾倒していく演出は、単に集中力を削ぐだけで何も面白くない。なのにシネフィルの人々が最近やけに持ち上げているらしくて、余計イヤな感じだった。

 そんなわけで『デジャヴ』も劇場では見送ってしまい、DVDでやっと観た。そしたらこれが結構面白かった! 公開時には箝口令が敷かれていたようだけど、要するに時間SFである。しかも『12モンキーズ』(1995)。

 推理サスペンスとして始まって、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)のようなハイテクスリラーになり、あまりにも無理やりなギミックなので「本気か?」と蒼ざめていると、途中からすっぱり開き直ってSFになるところが清々しい。頭の悪いブラッカイマー印映画のイメージを逆手に取ったギャグであり、多分セルフパロディでもある。どう考えても世紀の大発明なのに、ものすごく地味で中途半端な使われ方をしてるのがおかしい。

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 こういう題材だからこそ、逆に目くらまし的な映像効果は抑えようと思ったのか、近年の作品の中ではかなり落ち着いた絵作りを見せてくれるので、好感が持てる(それでも普通の映画に比べたらカッティングはやたら細かいと思うけど)。他にもいろいろと映画的な面白さに満ちていて楽しかった。死んだ美女に魅入られて我を忘れていく主人公という設定はまるっきり『めまい』(1958)だし、真顔でSFガジェットを装着してニューオーリーンズの町を往くデンゼル・ワシントンの姿も今時ありえない感じでステキ。主人公が映画に登場してから、なかなか台詞を喋り出さないのもいい。そもそもトニー・スコットがSFに挑むっていうのが初めてなのではないだろうか。そこが兄リドリーと線引きの違うところで、トニさんはああ見えて実はリアリストの部類に入る演出家。「空想の未来や歴史劇を描くよりも、今の現実世界を見ていたい」という人だと思う(ちゃんと見えているかどうかは別として)。だから本作もSFとはいえ、あくまで2006年の現実に立脚点を置いてドラマが展開する。

 ただし、ラストは「観客試写で好評を得たのでコレにしました」みたいな、全く腑に落ちないハッピーエンド。SFファンならずとも首を捻ると思うが、ブラッカイマー印なので仕方ない。それとも従来のSFマニアの固いアタマでは到底ひねり出せない,新たなタイムパラドックスの形を提示してみせたのか……まさかね(主人公もそう言ってた)。

 でも、監督・主演コンビの息の合い方もますますいいし、アダム・ゴールドバーグやジム・カヴィーゼルといったバイプレイヤーもよかったし、ヒロインのポーラ・パットンも本当にキレイだったので、まあいいや。と思える久々のトニー・スコット映画だった。

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『デジャヴ』DVD

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『Rabid Dogs』(1974)

『Rabid Dogs』
原題:Cani Arrabbiati(1974)

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 『デス・プルーフ』(2007)にぶっ飛ばされた直後、車が出てくる70年代のいびつなB級アクション映画が観たい! と思ってまず手持ちのDVDの山から引っ張り出してきた作品。イタリア恐怖映画の巨匠、マリオ・バーヴァ監督が手がけた辛口の犯罪スリラー。人を人とも思わない残酷なバイオレンス、神経を逆撫でするようなサディスティックな描写に溢れ、当時のイタリア国内の世相を反映したような殺伐としたムードに支配された異色作。70年代イタリアン・バイオレンス映画をも見事にモノにしてみせるバーヴァの職人技が堪能できる、シンプルな傑作だ。

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〈おはなし〉
 ある猛暑の日、大金を奪って逃走する武装強盗3人組。彼らは駐車場で若い女を人質にとり、さらに1台の車をハイジャックする。車を運転していた中年の男は、病気の子どもを病院へ連れていかなければと強盗たちに乞うが、聞き入れてもらえない。かくして6人を乗せた車はアジトを目指し、地獄のドライブを続ける。彼らを待ち受ける運命とは?

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 一触即発の緊張感と、うだるような暑さのなかで正気を失っていく人々を、バーヴァはパワフルな演出で活写する。鮮烈な色彩美と怪奇ムードに満ちた過去のバーヴァ作品とはかなり趣きを異にしているが、暑苦しいだけに終わらないシャープでスピーディな語り口はさすが。隠れた持ち味である独特の乾いたシニシズムも本作では特に色濃く打ち出されている。

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 映画の大部分が狭い車の中で展開するため、実質的には密室劇。セットで擬似的に撮影するスクリーンプロセス方式ならいざ知らず、実際に走る車の中での撮影は技術的にも困難だし、つまらないカットバックになりやすい。そこをどう緊張感を保たせながら単調にならず見せきるか、というところにバーヴァの作家としての意欲が発揮されている。

 各キャラクターもそれぞれ際立っていて、配置のバランスがまた見事。“犯罪者と人質の逃避行もの”のお手本のよう。若い狂犬ギャング2人組がいつ理性を棄てて暴走するか、いつ人質が悲惨な目に遭うかでハラハラさせながら、彼らが人間的な一面を覗かせる瞬間を絶妙なタイミングで映し出す。それが巧い。

 当初は、主役に『PULP』(1972)や『ゲッタウェイ』(1973)のコワモテ俳優アル・レッティエリがキャスティングされていたが、イメージが合わないということで『死刑台のメロディ』(1971)の中堅俳優リッカルド・クッチョーラに交代した。そのおかげで、ラストのショッキングなどんでん返しがより効いている。狂犬コンビの片割れで「32」という妙なニックネームを持つチンピラを、『猟奇!喰人鬼の島』(1980)のルイジ・モンテフィオーリ(a.k.a.ジョージ・イーストマン)が怪演。役名の由来は映画を観てのお楽しみ。大層くだらない。人質となる女性マリアを終始ヒステリカルな表情で演じるリア・ランデールの熱演も見もの。ステルヴィオ・チプリアーニの手がけたアクの強い音楽も素晴らしい。

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 この映画は完成直前に製作会社が倒産したせいでオクラ入りとなり、「幻の作品」と化していた。が、出演女優のリア・ランデールが所有していた素材からプリントを修復し、一時期DVDがひっそりと流通していた。最近またアンカーベイ社から2バージョン収録の復刻版DVDがリイシューされ、これが決定版になるだろうと思われる。

 米アンカーベイ社からリリースされたDVDは『Kidnapped』と題されている。これはランデールらが修復した『Rabid Dogs』に追加撮影と再編集を施した新バージョンのタイトル。作ったのは『血ぬられた墓標』(1960)を始め数々のバーヴァ作品をプロデュースしてきたベテラン製作者のアルフレッド・レオーネと、撮影当時に助監督を務めていたマリオの息子ランベルト・バーヴァ。はっきり言って「余計なことしやがって」としか思えない出来だ。追加シーンは完全に蛇足だし、差し替えられたステルヴィオ・チプリアーニの新作スコアはダサいにもほどがある。絶対に『Rabid Dogs』の方から先に観るべし。

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・DVD Fantasium
『Kidnapped(Rabid Dogs)』DVD(US盤)

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