Simply Dead

映画の感想文。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『ロサンゼルス・それぞれの愛』(1976)

『ロサンゼルス・それぞれの愛』
原題:Welcome to LA(1976)

welcome_to_la_01.jpg

 ロバート・アルトマンがプロデュースを務めた、アラン・ルドルフ監督の“公式”デビュー作。ルドルフはこれ以前にジェラルド・コーミア名義で『Premonition』(1972)と『悪魔の調教師』(1974)という低予算ホラー映画で演出を経験している。が、作家として臨んだ仕事ではないのでカウントしたくないらしい。

 彼が初めて自身の作家性を打ち出した『ロサンゼルス・それぞれの愛』には、すでに「アラン・ルドルフ映画」の特徴的なテイストがデビュー作ならではの濃密さで漂っている。つまり、息苦しいほどメランコリックで、ロマンティック。若干ココロのねじれた大人たちが織りなす恋愛群像劇が、アダルトなムードたっぷりに、シリアスなタッチで描かれる。違う言い方をすれば、後年の作品に比べるとやや軽みと飛躍に欠け、ルドルフの生真面目なロマンティストぶりが大っぴらに露呈した処女作なのだ。慣れない人はちょっと胃もたれするかもしれない。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
〈おはなし〉
 売れないシンガーソングライターのキャロル・バーバー(キース・キャラダイン)が、数年ぶりにL.A.に帰ってきた。人気歌手のエリック・ウッド(リチャード・バスキン)に曲を提供してほしいと、元恋人のエージェント、スーザン(ヴィヴェカ・リンドフォース)に頼まれたのだ。再会を機に復縁をほのめかすスーザンだったが、キャロルの態度はにべもない。

 キャロルは仮住まいのアパートを用意してくれた不動産屋のアン(サリー・ケラーマン)と軽い気持ちでベッドを共にする。明くる日、アンは頼んでもいないのにメイドのリンダ(シシー・スペイセク)を世話係として連れてきた。

 大会社の社長である父カール(デンヴァー・パイル)を訪ねたキャロルは、父と付き合っているカメラマンのノナ(ローレン・ハットン)と会う。カールは息子を会社の跡継ぎにと願っていたが、今ではそれも諦め、若く野心に溢れた側近のケン(ハーヴェイ・カイテル)に経営の大部分を任せていた。

 ケンの妻カレン(ジェラルディン・チャップリン)は、仕事第一の夫に愛されない苦しみから、今日もタクシーに乗って街をさまよっていた。そんな時、偶然出会ったキャロルとの間に奇妙な共感が芽生えるのだが……。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 各キャラクターが初めて顔を見せる冒頭10数分は、キャラクター説明をほとんどしない。単なる「顔見せ」を済ませた後、徐々にそれぞれの関係性を浮かび上がらせていく。アメリカ映画ではあまり見ないタイプの語り口だ。それも、重要なのは彼らの内面であって、設定ではない(実際、ハーヴェイ・カイテル演じるビジネスマンの具体的な仕事内容は意図的に明かされない)。その内面を饒舌に伝えるのが音楽。冒頭とエンディングは主人公キース・キャラダインが主題歌をさりげなくも切々と歌い、彼がメインの歌謡映画なのかと思いきや、実は劇中で歌われる曲のほとんどはリチャード・バスキンによるピアノの弾き語りである。バスキンは『ナッシュビル』(1975)や『ビッグ・アメリカン』(1976)の音楽を手がけたミュージシャン/プロデューサー。彼がスタジオでねっとりと歌い上げる曲が、キャラクター達の心情を説明するように、いくつもインサートされる。

welcome_to_la_02.jpg

 出演者のほとんどはアルトマン作品の現場で知り合った俳優たちで固められ、しかも群像劇。公開当時は否応なしに師匠アルトマンと比較され、二番煎じと批判されることもあったという。だが、『ロサンゼルス・それぞれの愛』はまぎれもなくアラン・ルドルフの映画だ。自身の求める世界観を貫き、きっちりとオリジナルな作品に仕上げている。決定的に違うのは、アルトマンはこんなに臆面もなくロマンティックな映画は撮らないということ。

 個人的にアラン・ルドルフ監督の作風は昔から好きで、特に『トラブル・イン・マインド』(1985)『堕ちた恋人たちへ』(1992)『アフターグロウ』(1997)の3本は心の映画だったりする。ベルトラン・ブリエが好きなのもアラン・ルドルフに似てるからだ、と断言できるほど好き。その魅力は……やっぱり、臆面のなさだと思う。それは本作でも存分に開花している。

 後年、ルドルフはファンタジックな飛躍とツイストのきいた笑いを用いて、作品に軽快さと奥行きを与えていく。だが『ロサンゼルス・それぞれの愛』の時点では、せいぜいシシー・スペイセク扮するメイドがいきなり上半身裸で掃除をし始めたりするぐらいで、シュールな素ッ頓狂さには乏しい。特に、ジェラルディン・チャップリンが怪演する“憂鬱なスクリューボール・ヒロイン”カレンの人物造形は、ルドルフの趣味とアルトマンからの影響が重苦しく組み合わさった、本作のバランスを象徴するキャラクターだ。

 手放しで誉められる傑作ではないとは思うが、ファンとしてはやっと観ることができて非常に嬉しかったし、ルドルフのよさが随所に表れていて面白かった。やっぱり俳優の扱い方が巧い。中でもキース・キャラダイン、ハーヴェイ・カイテル、ジェラルディン・チャップリンの演技が出色。かつてドン・シーゲルと結婚していたベテラン美人女優ヴィヴェカ・リンドフォースの存在感も強烈だった。『エクソシスト3』(1990)の殺人看護婦といえばピンとくる人もいるだろう。

▼野心溢れるヤンエグに扮するハーヴェイ・カイテル。若い
welcome_to_la_03.jpg

 この作品も、音楽の権利問題で引っ掛かっているのか、アメリカでも大昔にビデオが出たっきりで、DVD化されていない。最近、国内のネット配信テレビ「エンタミレル」で観られると知って、わざわざこの1本を観るためだけに加入した。まあ、そこまで頑張って観る映画かどうかは、その人の思い入れの度合いによる……。

【“『ロサンゼルス・それぞれの愛』(1976)”の続きを読む】
スポンサーサイト

『わが心のジミー・ディーン』(1982)

『わが心のジミー・ディーン』
原題:Come Back to the 5 & Dime, Jimmy Dean, Jimmy Dean(1982)

comebackjimmydean_poster01.jpg

 やばい。傑作。今回のPFFアルトマン特集で観た中で、いちばん凄い映画だった。終映後、思わず放心してしまうほど素晴らしかった。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
〈おはなし〉
 1975年、テキサス州マッカーシー。20年ぶりに再会することになったジェームズ・ディーン・ファンクラブの面々が、なじみの安物雑貨店に集まってくる。今もこの店で働くシシー(シェール)、億万長者と結婚したステラ・メイ(キャシー・ベイツ)、7人目の子を宿しているエドナ・ルイーズ(マータ・ヘフリン)、そして愛するディーンに人生を捧げたファンクラブのリーダー的存在のモナ(サンディ・デニス)。昔から雑貨店を切り盛りする老女フアニータ(スーディ・ボンド)と共に、4人は再会を喜び、在りし日の記憶を思い起こす。「彼」に夢中だった高校時代、会員みんなで記念写真を撮った夜、かつてファンクラブにいた美しい少年ジョー(マーク・パットン)のこと……。

 20年前、モナはジェームズ・ディーンの出演作『ジャイアンツ』にエキストラとして参加し、そのロケ地で「彼」の子を授かった。生まれた男の子はジミー・ディーンと名付けられたが、モナは彼を人前から隠すように育てた……。

 そして現在。それぞれの人生を歩んできた4人の前に、都会風の女ジョアンナ(カレン・ブラック)が現れる。彼女はどうやらファンクラブの元会員だったらしい。その正体とは……?

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 原題にある“5 & Dime”とは、ファイブ(5セント)とダイム(10セント)硬貨で大体の買い物ができるような、昔からある安物雑貨店のこと。映画はその雑貨店を舞台に、現在[1975年]と過去[1955年]、ふたつの時代を行き来する。

 店内の壁には大きな鏡があり、過去を映すシーンは鏡の向こうで展開する。つまり、一種のマジックミラーを挟んで、全く同じふたつのセットが作られているのだ(向こう側の照明をつけると鏡が透けて見える)。過去の記憶という、人間の脳内で曖昧なフィルターのかかった領域を、アルトマンはまさに鏡を通した虚像として映し出す。このアイディアがとても映画的で興奮した。撮影のピエール・ミニョーによる凝りに凝ったカメラワークも素晴らしい。舞台では奥行きや視点、照明設計の問題で、ここまでテクニカルに見せ方を徹底することはできないだろう。

 「映り込みや鏡像というもの、実像を破壊して異なる様々なレイヤーを現実に与える映像に、私は常に魅了される」と、アルトマンは様々な場で公言してきた。この『わが心のジミー・ディーン』では、その独自のセオリーが最もシンプルに、秀逸なかたちで実践され、素晴らしい成果をあげている。演劇の映像化だから、結局は人物をカメラで追い掛けるだけだろう、というこちらの先入観を完璧に打ち壊してくれた。

comebackjimmydean_poster02.jpg

 原作はエド・グラツィクによる戯曲。舞台版の演出もアルトマンが務め、キャストメンバーも全く同じだという。『雨にぬれた舗道』(1968)以来のアルトマン作品登板となるサンディ・デニス。これが本格的女優活動の幕開けとなったシェール。まだブレイク前ながら実力は折り紙付きだったキャシー・ベイツ。アルトマンの小品ラブコメディ『パーフェクト・カップル/おかしな大恋愛』(1980)でヒロインを演じた、ヴァン・ヘフリンの姪マータ・ヘフリン。『ナッシュビル』(1976)にも出演した70年代を代表する女優、カレン・ブラック。そして、ベテラン脇役のスーディ・ボンド。それぞれ見事なテキサス訛りを操り、堂に入った芸達者ぶりを見せてくれる。ふたつの時代の年齢差を演じ分けるという難しい課題もしっかりこなしている。シェールの歯切れいい台詞回し、キャシー・ベイツの傍若無人な迫力、カレン・ブラックの存在感と安定した演技力は、見ていて気持ちいい。

 だが本作の見どころは、なんと言ってもサンディ・デニスの演技に尽きる。他人にも自分にも嘘をつき続けてきた女性の表情を、夢見るような風情で演じる様は、まさに凄絶。彼女の演技を見てしまうと、ジュリアン・ムーアの芝居なんて3倍ダビングに思えるほどだ。正直『雨にぬれた舗道』よりも凄い。終盤にいたっては、その表情を見ているだけで涙が出てきた。“アルトマン女優”の真打ちはこの人だったのか、と思い知らされ、打ちのめされた。

 彼女は『イメージズ』(1972)のヒロインにも考えられていたことがあったという。もちろんスザンナ・ヨークも素晴らしかったが、デニス主演の『イメージズ』も全くの別物として観てみたかった。閑話休題。

 どんでん返しを畳みかける物語はちょっとやりすぎな感じもするが、幻惑的な語り口と、女優陣の演技で、120分間をひたすら面白く見せきってしまう。演劇と映画、どちらの愉しさも濃密に溶け合った傑作である。今まで未公開だったのが信じられない。

【“『わが心のジミー・ディーン』(1982)”の続きを読む】

『ベティ・フィッシャー』(2001)

『ベティ・フィッシャー』
原題:Betty Fisher et autres histoires(2001)
英語題:Alias Betty

Betty_Fisher_poster.jpg

 ルース・レンデルの長編小説「身代りの樹」を、フランスのクロード・ミレール監督が映画化した群像スリラー。前からずっと観たかった作品で、たまたま「シネマナウ」というサイトで配信されているのを知り、字幕つきで観ることができた。

 日本でクロード・ミレールの代表作というと『なまいきシャルロット』(1985)とかになるのだろうけど、本当はサスペンスの名手でもある。長編デビュー作『一番うまい歩き方』(1976)から傑作『ニコラ』(1998)まで、日常に生まれる歪みや緊張感を焙り出すのが凄く巧い。本作もまた、ミレールの繊細な心理描写に基づくサスペンス演出に溢れ、およそ10人ものドラマが交錯するシナリオを、歯切れのいい語り口で捌ききる秀作だ。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

〈おはなし〉
 冬。作家として成功したベティ(サンドリーヌ・キベルラン)は、幼い息子ジョゼフと二人で、郊外の町に暮らしている。そこへ、外国に住む母マルゴ(ニコール・ガルシア)が持病の検査のために泊まりに来た。かつてベティは、発作を起こして精神不安定に陥ったマルゴに殺されかけた過去があった。

 そんな時、ジョゼフが2階の窓から転落。病院に運ばれるが、そのまま息を引き取ってしまう。ショックでその場にくずおれるベティ。

 病院の廊下に倒れたベティをしげしげと見つめる、ジョゼフとよく似た少年がいた。彼の名はジョゼ(アレクシス・シャトゥリアン)。手首の怪我を看てもらうため、母の恋人である黒人青年フランソワ(リュック・メルヴィル)に付き添われて病院に来ていた。彼の体には至るところに虐待の痕があったが、フランソワも医者もそれを知らない。

 ジョゼの母カロル(マティルド・セニエ)は、カフェでウェイトレスをしている。多情で野心に満ちた彼女は、常に男たちの目を引き、やがて金持ちのギャングとつるみ始める。フランソワとの仲も急速に冷えていった。

 3週間後――失意に暮れるベティの世話をする母マルゴは、どこか嬉々としている。ベティにはそれが疎ましい。そんな時、マルゴは知人から預かってきたという少年を家に連れて帰ってくる。ジョゼだった……。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 映画は「ベティの物語」「フランソワの物語」「ジョゼの物語」など幾つも章立てされ、入れ替わり立ち代わり各キャラクターのドラマが映し出されていく。そこに登場するのは、誰もが身勝手だったり嫉妬深かったり冷酷だったりする「ろくでもない」人間ばかり。他人の子を誘拐してきたり、我が子を傷付けたり、元妻を脅迫したり。主人公ベティも、狂った母親が身代わりに連れてきた少年にいつしか愛着を抱き始め、かりそめの幸福へと逃避する。

betty_fisher_01.jpg

 誰が見ても破綻が約束された愚行へと突き進むアウトサイダー達。はたしてベティ・フィッシャーの行く末は……意外や、実に痛快な結末を迎えるのだった。細い糸で微かに繋がれていたそれぞれのドラマが一気に収束していくラストの展開は、それまでの痛ましさや寒々しさが霧散するカタルシスをもたらす。空港を舞台にしたクライマックスの高揚感は、なかなか類を見ない。「それでいいの!?」と思わせつつ、つい笑みがこぼれてしまうエンディングもいい。観客はそこで「そうか、これってクリスマスの話だったんだ」と思い出す仕掛け。

 様々なかたちで愛を失い、迷走する人々の物語を、ミレールはサスペンスフルな犯罪映画タッチで、軽いユーモアも加味して手際よく描いていく。緊張感と冷気を湛えた映像も見事だ。笑いの部分を一手に担う、ケチなパスポート偽造屋アレックスに扮するエドゥアール・ベアが儲け役。『ダニエラという女』(2005)でもそうだったが、男前のくせにものすごく情けない表情をするのが巧い。情緒不安定の母親マルゴを演じるニコール・ガルシアの演技も素晴らしかった。

▼左がアレックス役のエドゥアール・ベア
betty_fisher_02.jpg

 『ニコラ』ほどの完成度には達しないまでも、十分に面白い快作である。パソコン画面でしか観れないのは勿体ない。ちなみに現在公開中のクロード・シャブロル監督作品『石の微笑』(2004)も同じくレンデル原作で、こちらもかなりの秀作。

【“『ベティ・フィッシャー』(2001)”の続きを読む】

『BIRD★SHT バード・シット』(1970)

『BIRD★SHT バード・シット』
原題:Brewster McCloud(1970)

brewster_mccloud_poster.jpg

 問答無用の大傑作。作家として絶頂期を迎えたロバート・アルトマンの才気の奔りが全編にひしひしと感じられ、観ていて最高に甘美な気持ちになれる映画。そのバカバカしい狂騒の空虚さも含めて、いとおしい。

 初めて輸入ビデオで観た時の感動は忘れられない。何より衝撃的だったのはラストだ。これまでさんざん勝手な遊びを繰り広げ、随所にミステリアスな要素をちりばめながら、何も回収しない! 物語の主題たる「我らが主人公ブルースター・マクラウドがいかにして人力飛行に挑み、そして墜落したか」を描くことのみ大事であって、後に残るのはフィナーレだけだ。

映画って、
映画って終わっちゃえば終わるんだ、と
そのとき知った。

 どんなに多くの謎を物語に残そうと、どんなに映画を無責任な面白さで満たそうと、約束されたラストを迎えれば映画は必ず終わる。それは「ストーリーの整合性」や「正しい映画の在り方」といった戯言に拘泥しない、アルトマンの強烈な提示だった。描くべきことは描けたのだから、それ以外のことは忘れて結構。その真理に辿りついてしまった作家に、もはや「行き詰まる」などということは有り得ない。

 アルトマンはそんな締めくくり方で、観客全員を「もうサーカスは終わりだよ」と言われて涙ぐむ子供たちに変えてしまう。

 それでもなお、映画は虚構の産物だ、とは言い切らない念の入りよう! 他の出演者たちがサーカス団員の扮装をして、いかにもフェリーニっぽい「映画=虚構」のラストを演じている中、哀れなイカロス……主人公バッド・コートだけは「本当に」死んでいる。アルトマンの映画は、決して観客が胸を撫で下ろせないようにできている。遺作となった『今宵、フィッツジェラルド劇場で』(2006)の不穏に笑えるラストもそうだった。

 そして先日、スクリーンでの再会叶った『BIRD★SHT』は、相変わらず全てがひたすら面白く、そして今度は、何もかもが納得できる映画だった。回収するべき未消化な要素なんてどこにもない。謎なんてどこにもないじゃないか。

 素晴らしい映画だと思う。大好き。

brewster_mccloud_02.jpg

 本作で女優デビューを飾ったシェリー・デュヴァルの初々しい可愛らしさときたらどうだ! 守護天使にして死の使いであるサリー・ケラーマンはまるで女神のよう。主演のバッド・コートはそんな母性的慈愛に見守られるのがよく似合う……『雨にぬれた舖道』(1969)のマイケル・バーンズにも重なる、アルトマン好みのしたたかさと無垢な愚かさを備えた少年性のイコンだ。洒落者の腕利き刑事マイケル・マーフィと真面目な巡査ジョン・シャックが見せる凸凹コンビぶりも絶妙。もちろん鳥類学者に扮したルネ・オーベルジョノワの怪演も忘れちゃいけない。幕間に鳥類の講義をぶちながらだんだん鳥化していくという難役(笑)を見事にこなしている。

 こんなにおちゃらけた映画なのに、クライマックスの飛行シーンは結構凄い。撮影はベテランのラマー・ボーレンと、新人ジョーダン・クローネンウェスが共同で担当。後年、クローネンウェスは『ブレードランナー』(1982)の撮影監督を手がけ、その名を馳せる。

brewster_mccloud_poster02.jpg

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
〈おはなし〉
 テキサス州ヒューストンの観光名所アストロドーム。そこに隠れ住む青年、ブルースター・マクラウド(バッド・コート)は、いつの日か自分で作った人工翼で空を飛ぶことを夢見ていた。彼は、背中に翼を切られたような傷跡のある女ルイーズ(サリー・ケラーマン)の協力で、着々と計画を進めていく。後に残るのは、意地悪な邪魔者たちの死体の山と、鳥のフン。

 不可解な連続殺人事件を捜査するため、サンフランシスコから腕利き刑事シャフト(マイケル・マーフィ)が乗り込んでくる。しかし解決の糸口はなかなか掴めない。そんな中、シャフトは遺体に必ず付着している鳥のフンに目をつけるが……。

 ある時、ブルースターはドームの案内係として働く、ちょっと風変わりな女の子スザンヌ(シェリー・デュヴァル)と親密な仲に。その時から、ブルースターの運命は少しずつ変わり始めた。

brewster_mccloud_01.jpg

【“『BIRD★SHT バード・シット』(1970)”の続きを読む】

『雨にぬれた舗道』(1969)

『雨にぬれた舗道』
原題:That Cold Day in The Park(1969)

colddayinthepark_vhs.jpg

〈おはなし〉
 秋のヴァンクーヴァー。高級アパートに暮らす32歳の独身女性フランシス(サンディ・デニス)は、ある雨の日、公園のベンチに座ってずぶ濡れになっている少年(マイケル・バーンズ)の姿を目に留める。彼女は少年を自宅に招き入れ、濡れた体を拭き、風呂に入れてやる。彼は一言も喋らなかったが、耳は聞こえるようだった。フランシスは一方的に少年に語りかけ、彼をベッドに寝かせ、部屋に鍵をかけた。朝になると食事を用意し、甲斐がいしく世話を焼いた。

 ところが少年はしばらくして部屋の窓からあっさり出ていく。自宅に帰ると、姉(スザンヌ・ベントン)と恋人がセックスの真っ最中。荒れた生活環境で育った少年は、唖でもなんでもなく、いつまででも黙っていられる「特技」の持ち主だった。少年は姉たちのベッドに潜り込み、ここ数日の顛末を語る。「今まであんな人に会ったことないよ……とにかくよく喋るんだ」

 翌朝、フランシスは少年が部屋を去ったことを知る。また灰色の孤独な日常が始まる……。その時、少年が部屋に戻ってきた。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 ロバート・アルトマン監督が『M★A★S★H』(1970)で名を馳せる前に手がけた、スリラータッチのシリアスドラマ。様々な抑圧を抱えて生きる孤独な三十代女性と、行き場をなくした少年が出逢い、残酷なすれちがいの末、衝撃的なラストを迎えるまでを描く。

 静かに狂気を孕んでいくヒロイン、サンディ・デニスの鬼気迫る演技が何しろ圧巻。スターらしい華はないが、品のいい美しさがキャラクターに一役買っている。特に素晴らしいのは、暗闇の中、寝ている少年に自分の孤独な心情を吐露する場面だ。自分に言い寄ってくる年輩の男への不満をこぼしながら、「あなたがセックスしたい時は言ってね……私と寝たいなら自由にしていいの……あなたの好きなように……お願い、抱いて」と言って、ベッドに忍び寄る。このシーンは観ていて本当に胸が締め付けられる(オチがまた残酷)。当初はエリザベス・テイラーが想定されていたという役を、サンディ・デニスは最低限の感情表現で、切々と、だが強烈に演じきっている。時折、動きがダンスのように機械的になる瞬間があって、ゾクッとさせられた。

 演出はファーストシーンから十分うまいが、後のアルトマンらしさはあまり感じられない。だがそのうち、窓の外から覗き見るようなカメラアングルや、エキストラの台詞をSEのように聞かせる演出が表れ始めると、「おお、これはまさしく!」と思わずにはいられない。特にヒロインが産婦人科に行くシーンの撮影設計が秀逸。半地下階にある病院の待合室を、上にある採光窓から覗くように捉え、ヒロインの動きに合わせてドリー移動する。同室で待つ若い母親たちの歓談に耐えきれなくなった彼女は、部屋の隣にあるトイレに移動するが、ここでカメラも隣室へついていくのだ。TVから映画に乗り込んだばかりのアルトマンの才気がうかがえる、スリリングな名演出だ。

 大部分が深い闇に包まれたルックも、アルトマンにとっては「映画にしかできない素晴らしい利点のひとつ」だったのだろう。とにかく、暗い。ここまで思いっきり画面の暗い映画も、当時としては珍しかったと思う。撮影は同年『イージー・ライダー』(1969)も手がけたラズロ・コヴァックス。陰鬱さを通り越して硬質なサスペンスを生む闇、ひたすらシャープなカメラワークが凄い。型破りな映画作りに対応できるコヴァックスとの出会いは、アルトマンにとって幸運だっただろう。サンディ・デニスの特徴的な口元だけに光を当てる演出も印象的。

 映画がある種のピークに達するのは、ヒロインが少年に娼婦をあてがうため、夜の街に出てポン引きを訪ねる場面。ロケ撮影と思しき、薄汚い地下のダイナーが舞台となるのだが、その怪しい空気感が無茶苦茶リアルなのだ。店内の明度といい、すすけた内装といい、エキストラの存在感といい、凄まじい生々しさ。ここまでリアルな感触は後のアルトマン作品でも見当たらないほどだ。ちなみにヒロインをポン引きに紹介する男を演じているのは、常連俳優のマイケル・マーフィである。

 といって、暗鬱なばかりの映画ではない。ヒロインと少年の交流や、少年とその姉が泡風呂の中でじゃれ合う場面など、息抜きも多くある。終盤は確かにホラーだが、全体には安易なジャンル分けを許さない、繊細で叙情的な人間ドラマだ。

▼日本版の原作文庫本
ameninuretahodou_book.jpg

 しかし、この内容から翌年の『M★A★S★H』へ、さらに『BIRD★SHT』へと振り切っていく作風の転換は、今考えると凄いものがある。現在開催中のPFFの特集「はじめましてアルトマン」でも、ぜひ上映してほしかった。この『雨にぬれた舗道』は本国ではDVD化されておらず、日本でも観るチャンスがほとんどない(僕はリパブリック社から出ていたVHSをたまたま入手して観た)。紀伊国屋書店さんあたりが頑張ってくれないかなぁ……。

【“『雨にぬれた舗道』(1969)”の続きを読む】

『ダニエラという女』(2005)

『ダニエラという女』
原題:Combien tu M'aimes?(2005)
英語題:How Much Do You Love Me?

combientumaimes_poster.jpg

 ベルトラン・ブリエは変わった。愛と性を赤裸々に描く作家というポジションは一貫しているが、昔はもっと暗くて深刻でシュールで、正直ちょっと気取っていた。『料理は冷たくして』(1979)とか、『メルシー・ラ・ヴィ』(1991)とか。でも年輪を重ねて、より明るく楽天的な面を晒け出すようになったと思う。かつてジョルジュ・ロートネル監督の傑作ノワール・ラブコメ『狼どもの報酬』(1972)の原案・脚本を手がけていた頃みたいに。

 ベタであること、陳腐であることをいとわず、娼婦とダメ男しか出てこない「愛の悲喜劇」を描く。紋切り大いに結構、その代わり徹底してやるよ、という姿勢が快い。妻のアヌーク・グランベールに主演させた『私の男』(1995)も、これ以上ないほど率直な〈娼婦=女性〉賛美の内容で、「これ女の人が観たらどう思うのかなぁ」と余計な心配をしたほどだった。はっきり言ってかなり好きな映画だけど。その思い切りのよさは、絶頂期のケン・ラッセルに近いものがある。

combientumaimes_03.jpg

 本作『ダニエラという女』もまた、ベタベタな導入から入ってそのまま率直に愛を語りきってしまう秀逸なラブコメディだ。「ひとりの平凡な男が、大金を使って美しい娼婦を妻にしようとする」という、陳腐にもほどがあるプロットに、まだ語り尽されていない領域を見出すブリエの大胆さが凄い。娼婦役にモニカ・ベルッチを起用し、さらにバカバカしい寓話性を強調させている。

 モニカ・ベルッチという、綺麗だけど中身は空っぽなグラマー女優のイデアというかクリシェみたいな存在を、ブリエは彼女自身のパロディとしてひたすら魅力的に撮る。彼女がこんなにイメージ通りに美しく撮られ、なおかつ「可愛い女」を見事に演じた作品もないのではないか。よりグラマラスになってきたイタリア人らしい肢体も、当然、惜しげなく晒している。濡れ場も美しく、印象的。

combientumaimes_02.jpg

 マゾヒスティックな男女の駆け引きをコミカルに描くブリエの演出には、もはや迷いというものを感じない。どんどん余計なものが削ぎ落とされていって、茶目っ気が残るような作家は個人的に好きだ。ただし、これも男から見て「夢みたいな話」であって、女の人がどう感じるかは知らない。おとぎ話として、結構いいお話だと思うんだけど。やっぱ怒る人は怒る気もする。映画自体は、ブリエらしい幻想的な映像美とテンポのいい筋運びで、最後まで面白く見せきる。カメラの遊びもふんだんで、レンズのフォーカス演出が見事。音楽の使い方もバカバカしくて楽しい。

 平凡な中年男を演じるベルナール・カンパンがいい。少年のまま中年になってしまったような感じが、母性本能をくすぐりそう。ブリエ作品の常連ジェラール・ドパルデューの余裕綽々な怪演も楽しかった。他にも、欲求不満の隣人役ファリダ・ラウアジを始め、多彩な芸達者が脇を固めている。

combientumaimes_sara.jpg

 中盤に出てくる若い娼婦を演じたサラ・フォレスティエがなかなか可愛い。『パフューム/ある人殺しの物語』(2006)では最初に殺される赤毛の女を演じていたが、かなり印象が違う。

・Amazon.co.jp
『ダニエラという女』DVD

【“『ダニエラという女』(2005)”の続きを読む】

『遺体安置室 死霊のめざめ』(2005)

『遺体安置室 死霊のめざめ』
原題:Mortuary(2005)

mortuary_poster.jpg

〈おはなし〉
 あたし、ジェイミー。ママとお兄ちゃんと3人でこの町に引っ越してきたの。ママはソーギヤなのよ。知ってる? 死んだ人をキレイにする人のこと。引っ越し先のおうちはお墓のド真ん中で、地下には遺体処理室があるわ。怖いかって? あたしは慣れっこ。でもお兄ちゃんは不満たらたらみたいね。地元のダイナーでさっそく不良から“モーチュアリー・ボーイ”だなんて呼ばれてイジメられたんじゃ無理ないわ。

 でもでも、この家ったら少し変なの。お母さんが地下室で怪我した時からかな? 妙な噂も多いわ。墓地には肝試しに来る子たちが毎晩ふぁっくしてタイヘンだとか(意味がよく分からないけど)、昔この家に住んでいた葬儀屋夫婦が奇形児の息子に殺されたとか。あたしもクローゼットの中に怖い人影を見たけど、誰も信じてくれなかった。

 そしたら、あの不良たちが墓地で消えたの。そして数日後、口からヘンな黒いものを垂らしながら帰ってきて……。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 というわけで、トビー・フーパー監督の新作である。シナリオは『レプティリア』(2000)、『ツールボックス・マーダー』(2003)の脚本家チームが続投しているが、今度こそフーパーから「君達に才能があるのは分かった。次は“俺の映画”を書いてくれ……家族の話だ」とニラミを利かされた感が強く漂っている。

mortuary01.jpg

 前半の丹念な積み重ねに比べると、後半はややつまらない。『ツールボックス?』とまるで同じ展開もあったり、『恐怖のいけにえ』(1980)っぽいキャラクターと土地に巣食う魔の存在をうまく絡め切れていなかったり。そのあたりを強引な力で押しきってやろうというノリは『マングラー』(1995)に似ている。だがいかんせんこちらはVシネ級の低予算映画。正直あと10分長ければなぁ、という感じだった。絵に描いたようなホラー映画オチも、フーパー独特の「ハッピーエンドでもバッドエンドでもない、ただ衝撃的なシメ」が好きな人にとっては物足りないかも。

 しかし、これはこれでなかなかの佳作。相変わらず台詞のユーモアとリアリティにはフーパーらしさを感じる。コミカルなシーンもふんだんに交えながら、本気を出すところではやっぱり怖い。死体が突然起き上がるショックシーンは、リビングデッドが発する“奇声”も併せて『スペース・バンパイア』(1985)を思い出させた。このオッサン、一貫してセオリーが変わってない! と空恐ろしくも嬉しくなる場面だ。『マスターズ・オブ・ホラー』で突如発現したチャカチャカした編集もないので、安心して観られる。

mortuary02.jpg

 実質的な主役である長男役のダン・バードが好演。彼はリメイク版の『死霊伝説/セーラムズ・ロット』(2004)で主人公と行動を共にする少年を演じていた。話題作『ヒルズ・ハヴ・アイズ』(2006)にも出演している。あと、ヒロインの顔が死体っぽかった。

・Amazon.co.jp
『遺体安置室 死霊のめざめ』DVD


【“『遺体安置室 死霊のめざめ』(2005)”の続きを読む】

『秒速5センチメートル』(2007)

『秒速5センチメートル』(2007)

 厚顔無恥というのはこのことだなぁ、と半ば感心しながら観た。映画は三部構成のオムニバスになっていて、特に第1話の「桜花抄」が凄い。本当にスゴイ。

 小学校卒業と共に遠くへ引っ越してしまった好きな女の子に会うため、男の子が初めてのおつかいじゃなかった初めての遠出をする話。一人で旅をする不安や、電車が遅れて約束した時間に辿り着けない焦りや絶望を、丹念なディテール描写を積み重ねて描いていく。が、丹念に描いているようでもうひとつ突っ込んだリアリティがない。靴が濡れて気持ち悪いとか、乗り馴れないディーゼルカーの段差につまづくとか、肉体感覚がまるでないのだ。何か、頭のなかで考えただけの域にとどまっている感が濃厚にある。まあ、そこまではいい。

 夜中になってやっと田舎の駅に着いたら、女の子がちゃんと待っている。普通ならここで、「彼女はもういなかった」よりも悪い展開を思い浮かべるだろう。女の子の家にこっそり泊まろうとして、親に見つかって叱られるとか、なんか凄く気まずい話になるのかな? と思うと、そうはならない。もはや「捏造された記憶」としか思えない展開になっていく。そうか、妄想オチか! もう絶対そうなると信じて疑わなかった。というか、そうでなければ、いい歳をした作家が人様に見せる作品として、本当にどうかと思う。

 でも、映画は別の意味で悪い方向へ、ストレートに流れていく。

 雪の降る夜、ふたりは物置に隠れて夜を明かす。そのまま寄り添って何事もなく朝が来る。なんだこれは。その前の、小学生時代の回想シーンでも、「僕たちはたった2人で世界と戦っていた」みたいなことをサラリと言ってのける激安テイストにノックダウンさせられてしまうのだけど、後半の比ではない。もう憤死級。双方の親御さんは警察に行方不明届けを出したりして大変だろう。でも当然そんな場面は描かれない。だって世界には2人だけしかいないのだから。アホか。夢オチでないのなら、せめて「そのままヤッちゃった」ぐらいの展開が欲しかった。

 第2話「コスモナウト」は、別の女の子の視点から見た軽い失恋話で、まあこれも綺麗事の範疇から出ない作品ではあるが、1話のとんでもない内容に比べたらずっと好感の持てる出来。季節感や背景の描き込みも、こちらの方が優れている。リアリティのある生活描写を狙っているようで、四人家族なのにシチューの鍋が小さすぎるとか、細かいチョンボは多々ある。でも、わりと平気で観ていられた。宇宙開発のモチーフが控えめにアクセントとして使われているのも効いている。

 ところが第3話「秒速5センチメートル」になると、1話のこっぱずかしい作者の思い入れが再びぶり返してくる。さらに、後半は山崎まさよしの「One more time, one more chance」がまるまる1曲流れ、好きなようにPV作ってみました、という想像を絶する展開。それは映画の作り方としてあまりにズルい。1?2時間の作品のテーマ曲に使うならいざ知らず、たかだか10分くらいの短編にフルコーラス流しておいて、曲と違う題名を付けるなんて。これだけ音楽におんぶにだっこの作品なのに、何か倫理に外れてやしないか?

 3話には、1話の少女とその家族が出てくるが、「あの時は帰ってこなくて本当に心配したわよ」の一言もない。なぜだ。作劇としてそれはおかしい。

 美術の描き込みや繊細な演出には、確かに並々ならぬこだわりを感じる。だが作家としての視点があまりに幼稚で、狭量だ。淡い初恋の終焉や、思い通りにいかない人生を描いているからって、深みのあるドラマになっているかといえば全然そんなことはない。誰がどう見ても、頭で考えただけの「ひとりで作った映画」になっている。こんな甘い甘いお菓子みたいな他人の妄想夢物語を誰が喜んで観るんだ? と思ったら結構ヒットしているらしいので、みんな相当逞しいワンダーの持ち主なんだなあ、といたく感じ入った次第。

【“『秒速5センチメートル』(2007)”の続きを読む】

『転校生 さよなら あなた』(2007)

『転校生 さよなら あなた』(2007)

tenkousei07_poster.jpg

 凄かった。想像をはるかに凌ぐ映画だった。もしほんの少しでも多感な時期に大林映画のお世話になったと思うなら、絶対に見逃してはならない。素直に傑作と呼べないほど衝撃的で、旧作とはまた違う深みを持った必見作だ。

 大林宣彦監督の代表作であり、最高傑作である『転校生』(1982)。そのリメイクが大林監督自身によって作られたと聞いて、やんなきゃいいのに……なんて落胆を覚える仕上がりを想像したなら、それは完全な間違いである。

 まず、観客はおなじみの「A MOVIE」のタイトルに感傷を覚える間もなく、次の瞬間にはひたすら生命力溢れる大林演出に振り回されることになる。ダイナミックかつ大胆なカメラワーク、畳み掛けられる膨大な台詞、めまぐるしいカッティング……おそらく日本中のどこを探しても、この若々しさに勝てる現役監督はいまい、という恐ろしい確信に襲われる。

 少年少女から活き活きとした演技を引き出す演出手腕も、全く衰えていない。ヒロイン・斉藤一美(=カズオ)を演じる蓮佛美沙子の表情が何しろ魅力的で、手足の長い現代っ子のスレンダーな身体をもてあますような動作がとても目に楽しい。ボーイッシュな台詞回しも自然でキュート。萌える! というか、今や男と女が入れ替わらなくとも、こういうヒロインの造形は全然アリだ。むしろ女の子が強くて男の子がナヨナヨしてる構図の方が普通にリアルだろう。それでも今回の映画を観ると、原作のシンプルなアイディアが持つおかしさが、いまだに失われていないことが分かる。

tenkousei07_00.jpg

 斉藤一夫(=カズミ)役の森田直幸も巧演。クラシック好きでピアノも弾けるガサツな男子という、若干ムチャクチャなキャラクターを、冒頭10分で鮮やかに印象付ける。韓国映画『バンジージャンプする』(2001)のようなオリジナル展開では、男同士のキスシーンまで披露! 旧作でも感じることだが、『転校生』でカズミを演じる男の子は、演技プランが間違ってるんじゃないか? と思われてしまうのでちょっと損だ。それだけ蓮佛美沙子も小林聡美も、最初から男の子っぽさを魅力的に備えているからなのだけど。

 主演のふたりをサポートするバイプレイヤーの顔ぶれも見どころ。清水美砂ってこんなにいい女優になってたのか! とか、田口トモロヲの異物感は健在だなぁ、とかいろいろ楽しませてくれる。けど、いちばんグッと来たのは旅役者に扮した宍戸錠と山田辰夫の競演。ふたりが放つニューロティックな香気が、意外なほど素晴らしい。あと、斉藤健一の本名で出演している芸人ヒロシが儲け役。あれを演技と呼んでいいかは微妙だけど、ファンは必ず観に行くように。

 撮影監督・加藤雄大のエネルギッシュな仕事ぶりも凄まじい。全カットにわたって極端に傾いだ構図は、つい最近観たハル・ハートリー監督の『Fay Grim』(2006)を思い出させた。画的にも相当似ているが、新しいスタイルに挑戦せずにはいられない映画作家の前のめりな勢いという点では、大林監督の方が勝っている。

 前半は、観ていて本気で「これは本当にひょっとして、2000年代の新たな青春映画の金字塔になるかも!」と思った。ストレートなリメイクとしてはいちばんの成功作じゃないか、と。ところが映画は後半、思いもよらない展開へと傾いていく。監督が今この作品をリメイクした理由は、そこで明らかになる。

〈以下、ネタバレ〉

【“『転校生 さよなら あなた』(2007)”の続きを読む】

『バベル』(2006)

『バベル』
原題:Babel(2006)

babel.jpg

 ノーパンが豊かな映画的スリルを醸成することを思い出させてくれた点で、本作『バベル』は映画史にひとつ貢献したと言えよう。怒れる発情女子高生がニラミを利かせながら、チャラ男の視線をイン・ハー・ブッシュへと招き入れる挑発と不安。ティント・ブラス作品や『氷の微笑』とは異なる、ちくりと痛い青春映画としての魅力的ノーパン描写。しかし、本作ではそのシチュエーションをサスペンスとして最後まで活かしきってくれない。平山夢明先生の『東京伝説』シリーズばりに、ノーパンならではの凄惨な悲劇などには見舞われてくれないのだ。そうすればノーパン映画史に屹立する傑作となっただろうに。確かに、本作のタイトルは『バベル』だった。

 そもそも『バベル』というタイトル自体が目くらましである。本作は“言語の違い”を主軸に、互いに理解し合えず悲劇を生んでいく人類の根源的な悲しみを大小様々なスケールで描いた作品、ではない。置いてけぼりにされる子供たちについての物語だ。コミュニケーションの絶望的な壁は、迷える子供たちと迷える大人たちの間に存在する。それを「バベル」と言い切るのはいささか残酷だが、単にミスリード以上の意味はないと思いたい。作者もラストに型通りの希望を託していることだし。

 デビュー作『アモーレス・ペロス』(1999)から連鎖的悲劇を描いてきたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督と脚本家ギジェルモ・アリアガのコンビだが、新作を観るたびに『アモーレス・ペロス』のパワーが懐かしくなる。本作もプロダクション・スケールこそ格段に上がっているが、イニャリトゥ=アリアガ作品としては目新しいところのない1本だ。しかし、入り組んだストーリーを“深みなく”快調に見せていく語り口は、悪くない。掘り下げの浅さも意図的なものだろう。キックのある話が観たい客としてはいささかつまらないが。

 出演者の中では、モロッコの少年2人の父親と、メキシコ人の乳母がよかった。特に後者を演じたアドリアナ・バラザこそ、助演女優賞にふさわしい名演技だと思う。もちろん孤独なノーパン少女を演じた菊池凛子も頑張っていたとは思うが、彼女には負ける。役所広司に至っては、あれっぽっちの出番と芝居でビリングが4番目というのは、いかになんでもおかしい。

・Amazon.co.jp
『バベル』スタンダード・エディションDVD
『バベル』プレミアム・エディションDVD

【“『バベル』(2006)”の続きを読む】

『御巣鷹山』(2005)

『御巣鷹山』(2005)

osutaka_poster.jpg

 傑作だった。想像以上に映画の醍醐味というものを味わわせてもらった。何たってこれはもう、まるっきり小林正樹監督の『切腹』(1962)じゃないか。ストーリーの構造、キャラクター配置、時にはカメラワークまで、見事に踏襲されている。家族の絆、運命のいたずら、悲劇、復讐、反体制・反権力といったモチーフも同じ(それは渡邊文樹作品のトレードマークでもある)。もちろん本作が扱うテーマは国家の陰謀であり、ぞんざいにジャンル分けするならポリティカル・スリラーなのだけど、作りは『切腹』である、という点にいたく感動してしまった。

 この人はやっぱり、映画に取り憑かれている。

 作品を重ねるごとにフィクションと現実の垣根を越え、互いに肉薄していくように見えて、実はどんどん「映画の興奮」を伝える力を研ぎ澄まし、映画作家として成熟しているように思えてならない。それは誰もが傑作と認める完璧なフィルムを作るという意味ではない。ローバジェットの荒々しく観づらい映像で、たまにおそろしく気のない演出やタガの外れた展開も交えつつ、得体の知れないパワーで観客の心臓を持っていってしまう。作品イメージのセンセーショナルな禍々しさを裏切るほどに、『御巣鷹山』は純度の高い映画の醍醐味、興奮が脈打っている。個人的には前作『腹腹時計』(1999)をも上回っているように思えた。

 今、「怨念に満ちた映像」というものを作り得る映画監督が、日本にどれだけいるだろうか。ほとんど勝新のような中曽根総理の前で、主人公が過去の因縁を滔々と語る一連の場面は、もはや小林正樹ミーツ中川信夫(あるいは山本迪夫)と呼びたいおどろおどろしさで、嬉しくなってしまう。たなびくというより湧き上がるスモーク、怪奇映画ライクな照明、人物の懐に切り込むかのような大胆なカメラ移動、そして役者の演技。何もかもが過剰。このケレンがいいのだ。何より主人公・渡邊“復讐するは我にあり”文樹のかっこよさときたらどうだ! ナルシシズムという言葉には「身の程知らず」といった意味も含まれていると思うが、渡邊監督は円熟味と気迫を増した役者・渡邊文樹の存在を得て、純粋に狂喜しているようだ。

 そして、音。はっきりさせておかなければならないが、映画というのは、放っておけば画と音はバラバラのままである。現場では別々の媒体(フィルムと磁気テープ)で録り、カチンコを目印に両者をシンクロさせて編集し、ダビングでSEをミックスした後、ひとつのフィルムにまとめるのだ。しかし『御巣鷹山』は予算の都合上、16mmフィルムと音響テープを別々に再生し、映写技師を務める渡邊監督自身がその場でミックスするという、異例の上映形態をとっている。もちろんシンクロしないので音はどんどんずれていく。監督も上映前の口上で「お聞き苦しいかとは思いますが……」と丁寧にことわるので、観る前には客もそれなりの心の準備をする。ところが、そこで聞こえてきた音は「合わせても合わせてもずれてしまう音」などではなかった。その映画は、はなから画と音を合わすつもりなど毛頭ない、破天荒きわまる前衛音響ライヴだったのだ。台詞と口パクが盛大にずれるのは当たり前。それどころか役者が明らかに喋っていない箇所にも平然とアフレコ音声を被せている。しかも声優の演技は画面に映っている素人俳優よりもずっとしっかりしてるし。合うわきゃないのだ。でも、それがとてつもなく面白くて、胸のすく思いだった。もしこれをちゃんとダビングして35mmプリントのかたちにまとめたところで、ちぐはぐな印象は変わらないだろう。この上映形態だからこそスリリングな面白さを感じることができるのである。仕方なくやっているのではない、確信犯なのだ。

 映画は、放っておけば画と音はバラバラのままである。なら放っておけ。自由になれる。大学の頃に映画の録音・ダビング作業を担当していたこともあるので言うが、音作りはどんなに苦労してもキリがない。「不自然じゃなく聞こえる」ために苦心惨憺し、その成果は決して評価されない。だがいくら神経質にこだわったところで限界はあるし、むしろ積極的に「こだわりたくない」ときもある。渡邊監督は『御巣鷹山』でアクロバティックに映画を解体してみせた。暗闇のなかで映写機とレコーダーを操作しながら、ライヴで自分の映画を作り上げる。さながら腕利きのスナイパーが解体されたライフルを瞬時に組み立てるような作業を、毎回やってのけているのだ。ぜひ言っておきたいが、あれで半分以上はきっちり画と音を合わせられるのは本当に凄い。何度となく絶妙のタイミングと呼べる瞬間があった。感服せずにいられようか。

 クライマックスの木刀チャンバラには、ついていけない人もいると聞く。だけど渡辺監督はそれを「真剣が使えないから観客のイマジネーションでカバーしてもらう」といった頼りない技法で描いてはいない。あくまで木刀同士で討ち合い、おびただしい血が流れる。これは「怨念のあまり木刀で人が斬れるようになった男」の話ではないか。そんなワンダーを許す、もとい言ってねじ伏せるだけの自由さと迫力が溢れていた。

【“『御巣鷹山』(2005)”の続きを読む】

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。