Simply Dead

映画の感想文。

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『凶人ドラキュラ』(1966)

『凶人ドラキュラ』
原題:Dracula Prince of Darkness(1966)

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 英ハマーフィルムの「ドラキュラ」シリーズ第3作。世界的ヒットを飛ばした『吸血鬼ドラキュラ』(1958)から8年を経て、再びクリストファー・リーが主役に登板したファン待望の本格的続編だ。監督は第1作ならびに番外編的な第2作『吸血鬼ドラキュラの花嫁』(1960)を手がけたテレンス・フィッシャー。本作以降、リー主演の「ドラキュラ」シリーズは『新ドラキュラ/悪魔の儀式』(1972)までコンスタントに続いていく。

 この映画が公開された1966年と言えば映画業界も低迷期。ハマーも起死回生のヒット企画を模索していた頃だ。それまで続編出演を渋ってきたリーを担ぎ出し、新味のあるストーリー展開を試み、画面サイズもシリーズ初のシネマスコープと頑張ってはみたものの、やはり8年のブランクとモチベーションの低さは作品に表れている。

 本作のドラキュラ伯爵はろくに、というかまったく言葉を発さず、優雅な物腰など見せず、獲物の美女に向かってズダダダッと走ってくる、まるっきりの怪物だ。クローブという忠実な配下がいるからいいようなものの、放っておくと何をしでかすか分からない。配下を自在に操り、自らはケダモノのような存在であり続ける悪の王というのは、トビー・フーパー監督のTVM『死霊伝説』(1979)でも踏襲されていた図式だ。

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 ミステリアスな魅力に溢れた第1作のキャラクター像をかなぐり捨て、本作では大胆なイメージチェンジが行われている。が、それは確信に満ちた変更には見えない。ドラキュラというキャラをどう捉えたらいいものだろうか、という惑いの産物に思える。8年の間に監督や主演俳優たちの中でかくも見事に興味が失われてしまったのかと驚くほど、本作のドラキュラにはキャラクターそのものがない。彼らにとってドラキュラは、こちらの想像以上に「死んでいた」。格好いい見せ場もあるが、やはり部分的な印象でしかなく、出番も少なく物足りない。

 どちらかというと、ドラキュラよりも手下の人物描写の方に力が入っていて、先述のクローブもなかなか不気味だが、同じくドラキュラの魔力に魅入られ、修道院に保護されている狂人ルドヴィグのキャラクターに味がある。とにかく余計なことしかしない奴なのだけど、叱責されるでもなく「いいからいいから、お部屋に戻ろうね」などと優しく看護されている辺りが妙にリアルだった。

 お話は、イギリス人旅行者の男女4人が、何処とも知れない森の中に置き去りにされ、御者のいない馬車をつかまえて乗り込んでみると、辿り着いたのはドラキュラ城だった……という、スラッシャー映画のような設定。フィッシャーの演出は枯れた味が出始めていて、66年という時代性を考えると、かなり古くさい(実際、中途半端な時代なのだけど)。とはいえ終盤に繰り広げられる、馬車によるチェイスシーンから、氷上での対決になだれこむ活劇的呼吸の鮮やかさは、さすがのものだ。それでも全体的に、第1作の快調さは望むべくもない。そもそも横長のスコープ・サイズは明らかにフィッシャーの怪奇演出には不向きで、トリミング版の方がまだ迫力がある気がする。

 演出的・作劇的な苦しさも一目瞭然だが、ピーター・カッシング演じるヘルシング教授の不在というのも、紛れもない痛手だろう。やはりハマーフィルムの『ドラキュラ』は、好敵手がいないと冴えないのだ。

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『レプティリア』(2000)

『レプティリア』
原題:Crocodile(2000)

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 『悪魔の沼』(1976)から24年ぶりに、トビー・フーパー監督が人食いワニの襲撃を描いたパニックスリラー。いや、つくづく快作だと思う。行動に迷いや躊躇が全くないワニの唐突さがいちいち素晴らしい。変にワニ離れした知性を発揮したりもせず、ひたすら力でガンガン押してくる姿勢が頼もしく、やっぱりフーパー作品のモンスターはコレだなぁと思う。ちょっと可愛くもあるし。

 クリーチャーの見せ方も上等だ。デザイン的に不評なのはともかく、襲撃シーンやCGとハリボテを使い分けた見せ方には芸がある。日中では貧相に映らざるを得ないCGワニを、まず闇夜の中に登場させたり、一瞬だけ物凄く俊敏な姿を映したり。構図にも飾り気のない工夫があって面白い。特に凄いのは、やっぱり「ついに出てきたと思ったら、すでに人を食って消えている」という、何もかもすっ飛ばしたワンカット。その衝撃性は、事後に残されたシュールな虚無感とおかしさを含め、出世作『悪魔のいけにえ』(1974)から変わらないフーパーならではの挑発的悪意の産物だ。そんなもん最初に見せられたら、どんなサスペンスも予測しようがない。

 でも観ていて楽しいのは、やっぱりハリボテ。実物大のでっかいワニがバクバク人を喰っている愉快なシーンを見るにつけ、「やっぱりハリボテはいいなぁ」としみじみ感じてしまう。

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 本国ではビデオ公開された『レプティリア』は、映画としては別に最先端でもないけど、決して時代遅れの作品にもなっていない。イマドキのノー天気な青春映画+怪物ホラーというラインはちゃんとクリアしている。

 個人的に、トビー・フーパーは日常的な会話をすごくしっかり描く監督という印象がある。何てことない言葉のやりとりもおざなりにせず、役者の自然な表情や個性を引き出し、活きた台詞を言わせる。軽妙洒脱な会話ではないにしろ、そのやりとりはユーモラスで真実味があり、魅力的だ。絶対につまらないシーンにはしない。

 『ポルターガイスト』(1982)や『スペースインベーダー』(1986)では、ごく普通の中流家庭の団欒を(必要以上に)活写していた。また『悪魔のいけにえ』や『悪魔の沼』、『ダンス・オブ・ザ・デッド』(2005)では、家族が抱える倦怠と確執をやたらリアルな煮詰まった会話で浮彫りにする。中には『スペースバンパイア』(1985)のように全く日常性を欠いた人物しか出てこない作品もあるが、何の変哲もない日常描写にも“生気”を持たせるというスタイルは、常に守り通している。その辺が職人監督としての矜持というか、ホラー以外でも人間描けるよというアピールなのだと思う(いろんなところで無視されまくっているが)。もちろん同時に、そうした丹念な描写は、その後のホラーな展開で日常が破壊され尽すためのお膳立てでもある。

 本作『レプティリア』では、ボンクラどものはしゃぎっぷりを意外なほどきっちり押さえている。役者への演出力という面で、フーパーはもっと評価されて然るべきだと思う。現場でどんなディレクションをしているのか、俳優からはどう思われているのか気になるところだ。

 最近のフーパーは『ツールボックス・マーダー』(2004)もそうだけど、若いホラー映画ファンが大はしゃぎで書いたようなシナリオを、ベテラン監督としてきっちり映画のていに仕上げるという仕事が多い。それはそれで、理想的な行く末という気がする。『レプティリア』後半の展開は、ほとんど『悪魔のいけにえ』で染み付いた自らのパブリックイメージをなぞるかのようで、そんな余裕ぶりにはちょっと驚かされる。レッドネックのカリカチュア描写も手慣れたものだ。

 ちなみにメチャクチャな地元のワニハンターを演じたテレンス・エヴァンスは、『悪魔のいけにえ』のリメイク『テキサス・チェーンソー』(2003)で両足を失ったモンティ叔父さんに扮している。
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『Ruby』(1977)

『Ruby』(1977)

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〈おはなし〉
 1935年、フロリダ。女優ルビー(パイパー・ローリー)は夫ミッキーと共に、沼のほとりで夜のデートを楽しんでいた。そこにギャング団が現れ、突然ミッキーに銃弾の雨を浴びせる。蜂の巣にされた彼の体は沼に沈んだ。ルビーはショックで産気づき、その夜、娘を産み落とした……。

 16年後。ルビーはギャングの世話で沼の近くに屋敷を構え、ドライブインシアターの経営者に収まっていた。実際に切り盛りしているのは、彼女を慕い続けているヴィンス(ステュアート・ホイットマン)という男。あの夜生まれた娘レズリー(ジャニット・ボールドウィン)は、なぜか言葉を発しない陰気な娘に育った。彼女の目は死んだ夫の面影を思い出させ、ルビーを苛立たせるのだった。

 そんな折り、ドライブインシアターの従業員たちが次々と怪死。屋敷の周りに死者の影がちらつき始める。亡き夫の呼ぶ声に応えるかのごとく、美しさを増していくルビー。見かねたヴィンスは、超心理学者のケラー(ロジャー・デイヴィス)を屋敷に招き、母娘を救おうとする。その時、レズリーが死んだ夫の声でルビーに語りかけ始めた……。

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 マリオ・バーヴァ監督の『白い肌に狂う鞭』(1963)と、『エクソシスト』(1973)を混ぜ合わせたようなゴーストストーリー。低予算の小品だが、見どころの多い人気作だ。公開当時は「インディペンデント映画で最も稼いだ作品」として名を馳せたらしいが、1年かそこら後にジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』(1978)が大ヒットし、すぐに王座を譲り渡してしまったとか。

 監督のカーティス・ハリントンは、1940年代に自主映画作家からスタートして、ケネス・アンガー作品に役者として出演したりした後、AIPでB級ジャンル映画の職人監督となった変わり種。スリラーでもSFでも、どの作品にも独特の淫靡なムードが漂い、一風変わったアルチザンとしてカルトな支持を得ている。雑誌「映画秘宝」で友成純一氏がその半生を詳しく書いていたので、そちらも必読。

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 『Ruby』にはハリントンが好むモチーフ……古き良き時代への郷愁(本作では30年代と50年代の二重構造)、過去の栄光に生きる人間のグロテスクな美意識、40年代以前の恐怖映画へのオマージュ、圧倒的な女性支配の構図などが詰め込まれている。監督自身がキャリアを積んできたドライブインシアター文化の全盛期を舞台にしながら、いささか暴力的に時代への「お別れ」を告げているのが、またひねくれ者のロマンティストであるハリントンらしい。時代設定は1951年なのに、上映されているのが『Attack of the 50 foot Woman』(1958)なのはご愛敬。

 血みどろのショックシーンや恐怖シーンには、どこかクラシカルな雰囲気が漂い、味がある。特に印象的なのは、誰もいないドライブインに佇むヒロインのもとに、クラシックカーが近付いてくる場面。また、少女の顔に突然、殺された男と同じ銃創が現れ、血が流れ出すという描写も強烈だ。カッティングも功を奏している。ただし、ハリントン作品のホラー描写はいつも好きな古典映画の模倣なので、突き抜けた表現というのはなく、妙な安心感がつきまとうのが好悪分かれるところかも。

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 ハリントンの映画には常に強烈なカリスマを持つ女性キャラクターが登場する。本作ではパイパー・ローリーがタイトルロールであるルビーを演じ、いかにもハリントン好みの“女王”を見事に体現している。家の中でも派手に着飾り、ギャングの情婦あがりのタフな口調で、狭い世界に君臨する女。前年にブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』(1976)で演じた狂信的な母親役ともイメージが被るが、『Ruby』の方が彼女の魅力をより堪能できる気がする(映画としての良し悪しは別にして)。低い声を活かした芝居の歯切れよさも素晴らしいが、やはり目を奪うのはその美貌。後半、真紅のドレスに身を包んだ彼女の肌の美しさには、思わず息をのむ。ちなみに元女優で歌手という設定なので、主題歌も歌っている。

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 本作は『エクソシスト』の亜流として作られながら、少女よりも母親に目線を向けっぱなしの異色作。とはいえレズリーに扮したジャニット・ボールドウィンの顔のインパクトは凄い。彼女に死霊が憑依し、ルビーを誘惑しようとする場面では、母娘の近親相姦というハリウッドではあまり例を見ないタブーイメージが浮かび上がる。ここでジャニットが見せる表情がなかなか素晴らしい。本作以外では、『ファントム・オブ・パラダイス』(1974)前半のコーラスガールのオーディションに来た女の子の1人として出演(ジェシカ・ハーパーの後ろに並んでいて、ウィリアム・フィンレイに「嘘だと思う?」とか言う女の子がそう)。また、隠れた快作アクション『ブラック・エース』(1972)ではシシー・スペイセクと一緒に全裸で競売にかけられていた。

 ルビーに思いを寄せる世話役的な男ヴィンスを、ベテラン俳優ステュアート・ホイットマンが好演。『ジャッキー・ブラウン』(1997)のロバート・フォスターを思い出すような切ない役どころを味わい深く演じている。ホイットマンと前年に『悪魔の沼』(1976)で共演したクリスティン・シンクレアも出演。本作では『悪魔の沼』での落ち着いたヒロイン役(でもコートの下は裸)とは打って変わって、はすっぱな尻軽女ライラ・ジューンを巧演。見るたび「いい女だなー」と思うのだけど、あまり女優業は続けなかったようだ。残念。

 製作総指揮のスティーヴ・クランツが相当なシブチンだったせいで、ハリントンと製作パートナーのジョージ・エドワーズはかなり苦労したらしい。結末はいかにもB級ホラー的なオチがつくが、ハリントンやP・ローリーによるとそんなシーンを撮った覚えはないそうで、オリジナル版は「もっとしっとりした」エンディングなんだとか。

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『朝の日課』(2005)

『朝の日課』
原題:Les Matines(2005)

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 2006年のフランス映画祭「短編映画特集」で上映された、アニック・ラウル監督のデビュー作。睡眠障害を抱えたティンパニー奏者の男が、居眠りと目覚めを延々繰り返す姿を、テンポ良く、コミカルに、ちょっぴりホラータッチで描いた傑作だ。上映時間16分。主演はアルノー・デプレシャン作品や『ミュンヘン』(2005)などでおなじみの個性派俳優マチュー・アマルリック。ストレスとプレッシャーと堪えがたい眠気に襲われる男の不安と焦燥を、絶妙に演じている。

 今、自分が起きているのか夢を見ているのか、現在なのか過去なのか、時間感覚も掴めないままに、主人公は失態を犯す恐怖に怯え続ける。その姿は滑稽で、哀しく、だんだん身につまされてくる。自分も居眠りしないと仕事できないたちなので、この恐怖感はちょっとリアルだった。主人公がティンパニー奏者で、ラベルの「ボレロ」を演奏中というコミカルな設定は、やはりパトリス・ルコント監督の短編『パトリス・ルコントのボレロ』(1992)へのオマージュなのだろうか。出来は本作の方が数段上だけど。

 映像は非常にシャープで美しく、リズミカルに場面転換を畳みかける演出も快い。アニック・ラウル監督は元々、短編映画の編集者出身らしく、どうりで意識の飛躍を繋いでいく手際が素晴らしい。フラッシュバックを繰り返す複雑な構成を無駄なく見せていく語り口が、実にお見事。デジャヴのように繰り返される台詞も、シンプルでセンスがいい。映画祭で併映された他の短編と比べても、図抜けた作品だった。次回作がとても楽しみだ(でも日本で観られるのかなぁ……)。

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『ギターのレッスン』(2006)

『ギターのレッスン』
原題:La Lecon de guitare(2006)

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 今年のフランス映画祭の「短編映画特集」は、去年に比べてやや物足りない印象だった。『湖・ビーチ』『下り坂でブレーキをかける方法』『白いオオカミ』などの佳作もあったけど全体的に地味な作品が多く、2006年が結構バラエティに富んだラインナップだった分、ちょっと損した感じ。でも、トリを飾ったマルタン・リ監督のデビュー作『ギターのレッスン』は、将来有望なものを感じさせる秀作だった。ちなみに監督の名は英語読みするとマーティン・リット(!)。楽器店のオヤジ役で、映画作家のリュック・ムレを出演させたりしている。

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〈おはなし〉
 寂しい一人暮らしをしている中年男(セルジュ・リアブキン)が、ある日ふと見かけたギター教室の広告。いちばん安いギターを買って向かった先は、普通のアパートの一室だった。講師は自分よりずっと年下の青年(セバスチャン・モラン)。歳の離れた男2人はテーブルを挟んで向かい合い、セルジュ・ゲンズブールの「レティシア(邦題:おかしなタイプライター)」を課題曲にギターのレッスンを始める。部屋には数人の女が出入りし、中年男はいろいろ勘ぐってしまいながら、練習に打ち込むのだった……。

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 約18分の上映時間に映し出されるのは、日常の中にうっすらと漂うペーソスとユーモア。監督は言葉少なに簡潔なカットを重ね、ほのかな感動をもたらすラストに向けて、淡々と心の流れを構築していく。まあ言ってしまえば『Shall we ダンス?』や『スウィング・ガールズ』などとも同じ感動なのだけど、本作はそこに加えたひと工夫が面白い。およそモチベーションの上がらない状況で、どうやって主人公が奮起していくか?

 「青年と住んでいる女の子の名前もレティシア」「そして彼女は泣いていた」……主人公の前には限られた情報しか提示されず、観客も彼の視点でしか事情を推し量ることができない。ストーリーにちょっとした人間心理の観察実験的な要素を織り込む辺り、なかなか巧い。そんな主人公(と観客)のモヤモヤした思いは、ラストでさりげなくも鮮やかに感動へと昇華する。愛の賛歌というかたちで。

 やっぱり、選曲勝ちかな。

 ちなみに「レティシア」原曲はここ↓でダウンロードできます。
http://www.emp3world.com/mp3/83589/Serge%20Gainsbourg/Laetitia
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『逃げろ! いつか戻れ』(2006)

『逃げろ! いつか戻れ』
原題:Pars Vite et Reviens Tard(2006)

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 フランス映画祭2007出品作品。フレッド・ヴァルガスによるベストセラー小説を映画化したミステリー巨編。国際的スケールの大河ロマン作品で知られるレジス・ヴァルニエ監督が、初めて現代のパリを舞台にした刑事ものに挑んでいるのが見どころ。また、ジョゼ・ガルシアとミシェル・セローという新旧の人気喜劇俳優が顔を合わせ、シリアスな演技を披露しているのも本作の売りだ。

 娯楽映画としては映像に見応えがあり、役者も芸達者ばかり揃えているが、いかんせんスジが悪い。そもそも原作自体に致命的な欠陥があるのだと思うけど、推理ミステリーとしてはただのバカミスの部類に入る凡作だった。

 発端部はなかなか面白く、パリにペスト菌をばらまくという大仕掛けで期待を煽るのだけど、中盤からどんどん事件のスケールが小さくなり、ありきたりな因縁話に落ち着いたかと思えば、結局は陳腐な二重オチになったりしてしまう。犯人像はもとより、犯行理由から殺しのからくりまで、見事につまらなくなっていく。ここまでくると、ちょっと大したものだ。

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 途中から刑事が身近な容疑者を探す展開になると、さらにいけない。今時、映画で犯人当てなどというリスキーな題材に挑む人の気が知れない。『Ruby』(1977)のカーティス・ハリントン監督がインタビューで語っていたが、「ミステリーとサスペンスは違う」。ミステリーは最後に真犯人が明らかになるまでいろいろ手練手管を使って頑張らなくてはならないが、そのわりに観客の興味を持続させられない。映画では鬼門のジャンルなのだ。一方、サスペンス(スリラーともいう)というのは緊張感やスリルの積み重ねだから、犯人を途中で明かしても構わない。むしろ観客が余計な気を回さなくて済むから、映画の流れがスムーズになる。似ているようで作り方も楽しみ方も全く違うのだ。

 大別すると、ミステリーは小説向き、スリラーは映像向きのジャンルだと思う。小説であれば、本作のように次々と新事実が明かされるような展開で、読者を飽きさせずページを繰らせることも可能だろう。しかし映画では難しい。観客は短い時間に多大な期待を膨らませながら観ているから、話がスケールダウンもしくは明後日の方向を向いたりすると一気にシラケてしまうのだ。よほど巧くやらないかぎり、この手は成功しない。特にフランス人は計算された物語構築というのに最も向いてない人種という気がする。だから『ギャングスター』『あるいは裏切りという名の犬』のオリヴィエ・マルシャルみたいな人が出てくると、素直に驚いてしまうのだけど。

 と、いったような意識を働かせながらヴァルニエが現場に臨んだとは思えず、仕上がりはごく普通の娯楽大作だ。お仕事と割りきって、原作のつまらなさにも目をつぶった様子。そういえば、ここ最近に観たフランスのベストセラー原作の映画化というと、面白かった記憶がまるでない。本作もやはり、その例に漏れなかった。すっかりおじいちゃんになってしまったミシェル・セローが、こんな企画に付き合って頑張っている姿を見ると、名優も大変だなあと思う。

追記:2008年1月、『サイン・オブ・デス』のタイトルで、アルバトロスからDVD発売。

・Amazon.co.jp
DVD『サイン・オブ・デス』

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『暗黒街の男たち』(2007)

『暗黒街の男たち』
原題:Truands(2007)

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 フランス映画祭2007上映作品。暗黒街で繰り広げられる血なまぐさい「日常」を、過激な描写満載で描いたフランス版『仁義なき戦い』。綿密なリサーチのもとに製作されたというが、明らかに視点が殺伐とした方面に偏っており、全編に仮借ないバイオレンス&セックス描写をぶちまけている。傑作ではないけど、強烈な作品だった。

 パリの裏社会を暴力ざたに明け暮れる地獄として描いたのは、『スパイ・バウンド』(2004)のフレデリック・シェンデルフェール監督。ヤン・ブリオンと共に共同脚本も担当。ちなみに父親は『317小隊』(1964)や『愛と戦火の大地』(1992)などで知られる映画監督ピエール・シェンデルフェールで、本作にはブノワ・マジメル演じる主人公がテレビで『317小隊』を見ている場面も出てくる。

▼主演のフィリップ・コベール(左)とブノワ・マジメル
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 キャストの中で最もインパクトが強いのが、ジャック・ニコルソンみたいな組織のボス、クロードを狂演するフィリップ・コベール。フランス演劇界の重鎮だそうだが、観ている間はそんなこと夢にも思わない。裏切り者の両目を指でえぐり出すわ、トイレで娼婦をバンバンひっぱたきながら犯すわ、捕えた男のケツに角材を突っ込むわ、まさに暴力の権化のような所業のオンパレード。チンコまるだしでもお構いなし。こんな男らしい人も久々に見た気がした(凄くワルい意味で)。あまりに常軌を逸した活躍ぶりに、物語中盤でひとまず退場してしまった時は心底「残念!」と思った。

 今回の映画祭で上映された『石の微笑』(2004)にも主演しているブノワ・マジメルが、腕の立つ若きギャング・フランクを演じ、これまでとは違った渋いムードを醸し出している。オールバックのクールな殺し屋姿は結構ハマッていて、動作も鋭く、なかなかカッコイイ。彼の相棒ジャン=ギィに扮するのが、『あるいは裏切りという名の犬』(2004)の監督でもあるオリヴィエ・マルシャル。元警官だったくせに、役者としてはいぶし銀の犯罪者がこの上なく似合ってしまう人だ。ラスト近くでは凄まじい暴力シーンにも挑んでいる。この他にも主要男性キャストはほぼ全員、寿命が縮まるくらい力演。女も軒並みセックスか暴力のえじきになる。

 クロードの妻を演じているのはベアトリス・ダル。最近はバケモノじみた色っぽさをあまり出さない感じだったが、今回は登場シーンからエロかったので安心した。とはいえ自堕落なギャング妻以上のキャラクターではないのが残念。

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 近年のギャング映画の流行に漏れず、本作では悪党どもの“家庭の悩み”や“生活感”も随所に描かれる。しかし、その行く末は常に苦い。女にも仕事にもクールな主人公フランクだけが、ただ一人「うまいやり方」を知っているように見える。だが、ギャングに平穏な人生などない。町を歩く主人公がふと背後に視線を向ける姿を、シェンデルフェール監督はスローモーションで印象的に映し出す(2度も)。この男は、死ぬまで背後を気にして生きていくしかない。

 映画は変わり行く裏社会の姿を暗示して終わる。円環構造にはなっているが、続編も作れそうだ。今のところ日本での配給会社は未定だそうだが、もし公開されるとしても手付かずで上映できるかどうか。修正なりカットなりされる気がする。とにかく下品なバイオレンスが観たい! という人にはお薦め。

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追記:2008年2月、『裏切りの闇で眠れ』のタイトルで劇場公開決定。もちろんR-18指定。

・Amazon.co.jp
DVD『裏切りの闇で眠れ』

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『PULP』北米で初DVD化!

M・ホッジス監督の傑作『PULP』が北米で初DVD化!

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 『狙撃者/Get Carter』(1971)の名コンビ、マイク・ホッジス監督とマイケル・ケインが続けざまに放った快作『PULP』(1972)の北米版DVDが、1ヶ月後の4月17日、MGM/UAから遂にリリースされます! 音楽はザ・ビートルズのプロデューサーとして有名なジョージ・マーティン(サントラ未発売)。ジャケットもなんかクール!

『PULP』(NTSC・リージョン1)
ランニングタイム:98分
画面サイズ:ヴィスタサイズ
音声:英語(Dolby Digital mono)
字幕:英語、スペイン語
発売日:2007年4月17日

 既発の欧州盤(PAL)と同じく、特に映像特典などはつかない模様。でも一部の人にはグッとお求めやすくなったのではないでしょーか。NTSC・リージョンフリーのデッキがあれば再生可能です。なんたって安いし。

▼Amazon
http://www.amazon.com/Pulp-Michael-Caine/dp/B000MTFDE2

▼DVD fantasium
http://www.fantasium.com/detail.phtml?ID=ACT46272

ちなみに『PULP』の作品解説はこちら↓
http://deadsimple.web.fc2.com/02_05pulp.html

 これで日本盤が出る可能性もちょっぴり出てきたということです! 『悪の紳士録』っていうTV放映題はちょっとアレだけど、この際なんでもいい! 出してくれ!

『ハロルド・ピンター/誰もいない国』(1978)

『ハロルド・ピンター/誰もいない国』
原題:No Man's Land(1978)

 ハロルド・ピンターが自らの代表的戯曲を脚色したTVムービー。日本では日本クラウンからビデオが出ていた(現在は廃盤)。1975年の初演版キャストが引き続き出演し、イギリスを代表する名優2人、ジョン・ギールグッドとラルフ・リチャードソンがそれぞれ怪人物を悠々と演じる。共演のマイケル・キッチンは、マイク・ホッジス監督のTVミニシリーズ『Dandelion Dead』(1992)で主人公を印象的に演じた人。

▼初演版の一場面より、ギールグッドとリチャードソン
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〈おはなし〉
 豪奢な屋敷の居間で酒を酌み交す二人の老人。屋敷の主ハースト(ラルフ・リチャードソン)はすでに酩酊状態。客のスプーナー(ジョン・ギールグッド)は自らを詩人と名乗り、卑屈なのか図々しいのかよく分からない態度で喋り続ける。彼らはその夜、たまたま散歩中に出会い、意気投合したらしい。インテリぶった口調で切目なく語るスプーナーを、ハーストは鬱陶しく思うでもなく追い出すでもなく、やがて這うようにして寝室へ。

 そこに、いかにも育ちの悪そうな二人の男がやってくる。彼らは屋敷の主ハーストが成功した文豪で、その世話役を仰せつかっているといい、スプーナーの身元を問いただす……。

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 ジュリアン・エイミーズの演出(カメラワークとスイッチング)がおっそろしく凡庸なせいで損しているが、魅力的な顔合わせを楽しめる貴重な映像であることには違いない。特にギールグッドのうさんくさいボヘミアン詩人ぶりは絶品。こういう役もできる人だったのか。

 まったく見知らぬ者同士だった二人の老人が、どうやら因縁浅からぬ仲だということが中盤のやりとりで明かされる。が、片やアル中で半ばボケの入った老人、片や口から先に生まれたような詐欺師まがいの詩人。その会話にはなんの信憑性もない。しかし、そこには嘘とも言い切れない複数名の「記憶の合致」が存在する……。ピンターは、ミステリアスで力強い“老人力”というギミックを使って、真偽の定かでない混沌とした状況をきわめてシンプルに現出させる。劇はディテール豊かに饒舌に進みながらも、明確な状況はまったく把握できない。ひと部屋に集う人々は、現実にいながらおぼろげな世界(原題にも重なるような)に身を置く漂流者たちだ。それは観ているこちら側も同じ……。

 ハロルド・ピンターの演劇というと、不条理とかコミュニケーション不全とか現代の不安といった小難しい形容がつきまとうが、確かにそういうテーマを扱っていても、基本的には喜劇の名手だ。それもとてつもなく黒い、たちの悪い笑い。ピンター本人がいたってふざけたオヤジであることは、ジョン・ブアマン監督の映画『テイラー・オブ・パナマ』(2001)の「主人公にしか見えない叔父さん役」で確認できた。この『誰もいない国』も、言ってることがメチャクチャな人たちが繰り広げる『the office』みたいなコメディだと思って観れば取っ付きやすい。実際、近年の再演版ではピンター自身がハースト役をコミカルに演じ、客席に笑いを巻き起こしていたという。

 映像作品としては、舞台公演の記録映像ならもっと面白かったかも、という感じ。

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『悪魔の沼』(1976)

『悪魔の沼』
原題:Eaten Alive(1976)

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 トビー・フーパー監督の初期2作品、『悪魔のいけにえ』(1974)と『悪魔の沼』(1976)が、DVDリリースを前にして劇場公開される。もちろん『いけにえ』は放っておいても熱狂的ファンが駆けつけるだろうが、ここで声を大にして言いたいのは、絶対に見逃してならないのは『悪魔の沼』の方だということ。これまでこの作品は「インディーズで才気を爆発させたフーパー監督の毒が、ハリウッド商業主義の中で薄まってしまった凡作」という評価を受けてきた。はたしてそうだろうか?

▼日本公開時のチラシ
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 ロケ中心のニューシネマ・スタイルが定着した時代に、フーパーは敢えて古典的なスタジオ撮影に立ち返る。オールセット撮影によって作り出された濃密な怪奇映画ムードは、明らかに非凡な才能の産物だ。マリオ・バーヴァ並に強烈な色彩美、深い闇を内包したハイコントラストの照明設計がもたらす人工的映像の禍々しさは、ある意味『いけにえ』とは比較にならない。その上でフーパーは、前作から受け継ぐ新たなホラー映画演出の実践に挑んでいる。メル・ファーラーやネヴィル・ブランドといったベテラン俳優を使い、ムードたっぷりの虚構空間で繰り広げられるのは、どこを切ってもフーパー液がほとばしる「現代」のアメリカン・ノイジー・ホラーだ。

 『悪魔のいけにえ』で特に鮮烈だったのは、レザーフェイスが窓辺に座り、落ち着きなく思案を巡らせるシーンだった。殺伐とした異常性が立ちこめる映画の中で、狂った怪物の日常的時間をこんなにも美しく豊かに切り取ってしまったという、あの衝撃。そんな殺人鬼の狼狽を、フーパーはこの『悪魔の沼』で、よりたっぷりと引き延ばして描いている。たった1日で次々と人を殺す羽目になったオヤジが、所在なさげに室内をうろつく姿をしつこく映すカメラの視線は、およそ通常のサスペンス醸成とは真逆の方面を向いている(俯瞰からのアングルがようやく行きすぎた共感を押しとどめているようだ)。もはや作り手が被害者と殺人者のどちらに肩入れしているか決定的に露呈しており、『いけにえ』以上にフーパー個人の内面を強く感じてしまう。この映画で最も観客の同情を集めるのは他でもない、ネヴィル・ブランド扮する殺人オヤジなのだ。

 また、前作でも顕著だった煮詰まった家族関係の描写は、さらにねちっこく(本筋からも外れる勢いで)描かれる。なんたって険悪な仲の夫婦を演じるのが『いけにえ』唯一の生存者ことマリリン・バーンズと、『ファントム・オブ・パラダイス』(1974)のウィリアム・フィンレイだ。パッと見で「この二人ギリギリだな」と思わせる絶妙なキャスティングである。常に脆弱さを抱えた家族の絆が、キチガイや怪物によってズタズタに蹂躙されるというのは、フーパー作品おなじみのモチーフだ。行方知れずの娘を捜しに来たメル・ファーラーの沈痛な思いも、なんら報われることはない。フーパーが抱き続ける「家族」への懐疑的視線は、公式サイトの監督プロフィール(必読!)でも指摘されている。『いけにえ』や『ファンハウス/惨劇の館』(1981)では、加害者もまた倒錯した血縁関係の業を背負っているのだ。

 異様なキャラクターのオンパレードである本作中で、特に強烈なインパクトを与えるのが、サンバイザーを被った遣り手ババア役のキャロリン・ジョーンズである。この突き抜けたトラッシュ感のリアリティは、他の追随を許さない。どこの素人をつかまえてきたのかと思うかもしれないが、実は『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956)にも出演していたベテラン女優である。唯一まともなヒロインであるクリスティン・シンクレアの美しさも見どころだ。本作以外の出演作だとカーティス・ハリントン監督の『Ruby』(1977)ぐらいしか知らない。

 神経質かつ無骨という独特の手触りをさらにささくれ立たせるのが、フーパーとウェイン・ベルによる電子音楽。これがもう『いけにえ』以上に狂い果てている。もし製作者の要請で『サイコ』まがいのベタなBGMでもつけられていたら、あるいは今より本作もすんなり受け入れられたかもしれない。だがフーパーは全編に、殺人鬼の平穏な日常をかき乱す不安の音色をあしらった。それは良くも悪くも、この映画の個性を決定づける強烈な要素となっている。

 かつての娯楽映画のスタイルと、新たな映画表現をミックスし、ニューシネマの終焉を告げた作品としては、『悪魔の沼』はちょうど『ジョーズ』(1975)と『スター・ウォーズ』(1977)の間に生まれている。その成果はどの映画にも似ておらず、意欲的な実験と前衛性に満ちていたため(額面通りに単なる古典回帰と受け取られたせいもあり)、きわめてマイナーな評価を受けることになった。が、今なら言える。『悪魔の沼』は、隅々までフーパーの高い志が見て取れる作品なのだ。劇場で再見する日が今から待ち遠しい。

▼2007年再公開版『悪魔の沼』ポスタービジュアル。クール!
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『パフューム ある人殺しの物語』(2006)

『パフューム ある人殺しの物語』
原題:Perfume -The Story of A Murderer-(2006)

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 パトリック・ジュースキントのベストセラー小説を、『薔薇の名前』(1986)や『ヒトラー/最期の12日間』(2004)などで知られるドイツのプロデューサー、ベルント・アイヒンガーが映画化した話題作。これがなかなかの出来栄え。悪意とユーモアが等しく滲む風変わりな文芸スリラーとして楽しめるし、プロダクションデザインに金をかけた贅沢な画作りも見応えがある。それでいて商業性もちゃんと備えており、それこそ『薔薇の名前』を想起するくらい、バランスよくまとまっていた。『ヒトラー?』同様、アイヒンガー自身が脚本にも名を連ね、よっぽど手間暇かけて企画を練ったんだなぁというのが画面からも伝わってくる。ドイツ国内の若手監督に国際的規模の大作の現場を経験させてやろうという心意気もあり、いい意味でのプロデューサー主導型映画だった。

▼ダスティン・ホフマンとはしゃぐ製作者アイヒンガー
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 今回、監督に抜擢されたトム・ティクヴァは、予想以上にこなれた演出で、物語の魅力を損なうことなく長尺をもたせている。いくつかの場面ではハッとさせる映像センスも発揮していて、ちょっと感心した。エログロ趣味は極力控え、変態性の部分ではいたってオーソドックスだけれども、おかげで一般受けしやすいスマートな映画に仕上がっている。その上で、物理法則的運命論とでもいうような自分の作家性もそこはかとなく示しているのが偉い。主人公にかかわった人間が物語上の役目を終えた途端にコロコロ死んでいく辺りにそれが顕著だ。単なる雇われ仕事以上に演出がノッているのは、原作との相性がよかったからだろう(その点もプロデューサーの慧眼だ)。

 役者も皆いい。主役に抜擢されたベン・ウィショーは、神の子のようで悪魔でもある特異なキャラクターを巧演。彼に教えを授ける調香師役のダスティン・ホフマンは明らかにその鼻のインパクト(笑)で配役されたと思しいが、のびのびと儲け役を楽しんでいる様子。文芸作品への登板は珍しいだけに、魅力的なキャスティングだ。主人公に魅入られるヒロイン、レイチェル・ハード=ウッドの美しさにも息をのむ。(それにしてもトム・ティクヴァの「赤毛の女」に対するオブセッションを、ここまで大っぴらに見せられるとは思わなかった。軽く赤面モノだ)

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 個人的にいちばん感激してしまったのは、ナレーターがジョン・ハートだったこと。『コレリ大尉のマンドリン』『ドッグヴィル』『マンダレイ』などに続く語り部仕事だが、“小説より奇なる事実”を淡々と語るにはうってつけの声である。

 ヨーロッパ謹製の堂々たる大作が少ない中、こういう毒と風格を両立させた文芸娯楽大作の登場は嬉しい。こういうものこそ劇場で観なければ勿体ないと思う。

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『クローン・シティ/悪夢の無性生殖』(1979)

『クローン・シティ/悪夢の無性生殖』
原題:Parts ; The Clonus Horror(1979)
別題:The Cronus Horror

▼米国盤DVDジャケット
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〈おはなし〉
 厳重な監視の下、人里離れた研究施設内で暮らす若者たち。彼らは時が来れば約束の地アメリカに行けると信じ、健全な肉体を作るため日々トレーニングに励んでいた。実は自分たちが、臓器移植用に育成されたクローン人間であるとも知らず。

 ある日“上級者”の若者リチャード(ティモシー・ドネリー)は、敷地内の川を流れてきた空き缶を拾ったことで、周囲に疑問を抱き始める。そしてついに施設の真の目的を知り、外界へと逃げ出すのだが……。

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 クローンを題材にした低予算SFスリラー。TV『スパイ大作戦』のピーター・グレイヴスや、『博士の異常な愛情』(1964)のキーナン・ウィンが出演している。一部に固定ファンのいるカルトな人気作で、英米ではDVDもリリースされている。だからって隠れた傑作とかいった大袈裟なものではなく、テレビの洋画劇場でたまたま観て「お」と思うぐらいの佳作。笑っちゃうくらい華のない主演俳優(ティモシー・ドネリー)も原因のひとつかも。しかし、冷凍クローン倉庫の不気味なビジュアルや、後半のとことん非情な展開などは、確かにひねた映画好きには魅力的だ。施設から脱走するシーンはイギリスのアニメ映画『Plague Dogs』(1982)を思い出した。

▼日本版ビデオジャケット
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 最近になって、思わぬことからこの映画の知名度が上がってしまった。マイケル・ベイ監督の大コケSF大作『アイランド』(2005)が、本作の基本設定をパクッているとして訴訟事件に発展したのだ。はっきり言って、1ミリたりとも弁解の余地がないほど似ている。まあクローンを題材にした時点で思いつくストーリーなんて大体限られてくると思うんだけど、どうせなら『アイランド』の製作者もしらばっくれるより「リイマジネーションだ!」とか言い切った方がよかった気がする。

 ちなみに登場するプロジェクト名が「CLONUS」というのだけど、ロフトプラスワンの常連客が聞くと名物メニューの「苦労ナス」にしか聞こえない。ホントにこれが語源だったら凄い(たぶん違う)。
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『ドリームガールズ』(2006)

『ドリームガールズ』
原題:Dreamgirls(2006)

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 傑作。見事な編集技が冴え渡るオープニングシーンから完ペキに圧倒された。以降、有無を言わさぬテンションで130分を一気に駆け抜ける。途中でダレるかな、普通になっちゃうかな、と思うところでも一切停滞する気配を見せないのだ。誰が見ても素晴らしいジェニファー・ハドソンの、熱唱絶唱また熱唱を繰り返す決してテンションの下がらない演技が、この映画のスタイルそのものを体現している。

 キャラクター描写に余計な時間を割かない語り口にも驚かされた。冒頭からこんなに歯切れよく展開する映画も近年珍しいだろう。スピーディだが節度もある(スコセッシの映画とは違う)。すでに25年前にブロードウェイでヒットした舞台劇がもとになっているのも理由のひとつだろうが、「余計なことをしなくても、彼女たちが登場すれば観客は引っ張れる」という思い切りと自信が映画を活性化させているのだ。ある欠落をものともしない勢いというのは、傑作の条件なのではないかという思いをまた強くした。

 嬉しいのは本作が「音楽映画」ではなく、ちゃんと「ミュージカル映画」になっていたこと。最近は『Ray/レイ』(2004)や『ウォーク・ザ・ライン』(2005)など、人気ミュージシャンの伝記映画が流行しているが、『ドリームガールズ』はそれらの音楽映画と本格ミュージカルのデリケートな融合と言える。もちろんその微妙なバランスを理解する演出力あってこその話だが、ビル・コンドンは意外にも本作で見違えんばかりの達者ぶりを発揮してみせた。

 ホラー/スリラー畑から出てきて、秀作『ゴッドandモンスター』(1998)で頭角を現し、『愛についてのキンゼイ・レポート』(2004)では「巧いけど地味なところに落ち着くのかな」と思っていたら、今回いきなり化けた。監督業の合間に脚本を手掛けた映画版『シカゴ』(2002)が結局は舞台中継映像でしかなかったことで、コンドンとしては「そうじゃねえだろ!」という苛立ちがあったのかもしれない。優れたミュージカルのパフォーマンスをいかにして映画に捕らえるか。今まで暖めてきた興奮まじりの夢想を全てぶつけている感が『ドリームガールズ』にはある。コンドンはゲイなので、60?70年代の派手なファッションを過剰に描きそうな予感もあったが、わりと時代の捉え方が爽やかなのも好感が持てた。

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 フグちゃんことジェニファー・ハドソンは登場シーンから“スペシャル”だ。自分でもそれを分かっているという役柄に見事になりきっているので、観客は一目で彼女に惹きつけられてしまう(普段からそういう自信たっぷりの女=ディーヴァでいるよう、監督から注文があったとか)。彼女を見る驚きだけで映画が終わっていく。もちろんビヨンセもいい。“美しすぎてつまらない女”を涙ぐましいほどストレートに熱演している。エディ・マーフィも、アニカ・ノニ・ローズも、キース・ロビンソンも、ダニー・グローヴァーもみんないい。唯一、スカした芝居のジェイミー・フォックスが周りの芸達者たちに食われまくっているくらいだ。ジョン・リスゴウの特別出演にも笑った。

 誰がどう見てもモータウン・レコーズの年代記だがあくまでフィクションとして物語が進むため、ファンタジーにも越境できる自由さが快い。最近の例だと『ブギーナイツ』(1997)に近いと思う。また、特に明確に主人公を立てているわけではなく、登場人物みんなに花を持たせているのが偉い。原作のよさもあるだろうが、映画用脚色の巧さも特筆すべきだ。そんな演者を立てる心意気はエンディングの“カーテンコール”でさらにダメ押し的に爆発する。これが本当にかっこいい! いやあ泣いた。やっぱドラムロール流れたら泣くしかないよ!!

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『King of the Ants』(2003)

『King of the Ants』(2003)

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〈おはなし〉
 冴えない毎日を送っている青年ショーン(クリス・L・マッケンナ)。彼はある日、バイト先で出会った中年の大男デューク(ジョージ・ウェント)に気に入られ、不動産実業家のレイ(ダニエル・ボールドウィン)を紹介される。ある男の動向を監視するよう頼まれたショーンは、スパイ気取りでさっそく尾行を開始。しかし所詮はずさんな素人探偵。終いには監視相手の美人妻スーザン(カリ・ウーラー)に一目惚れする始末。

 ある夜、ショーンのもとに泥酔したレイが現れ、大金と引き換えに男の殺害を依頼する。うまく乗せられ、引っ込みがつかなくなったショーンは、覚悟を決めて男の家に乗り込み、奮闘の末になんとかトドメを刺した。

 ところが、レイは約束の金を払わなかったばかりか、砂漠の小屋にショーンを監禁。デュークたちに毎日ゴルフクラブでぶっ叩かれるうち、彼は狂った肉塊と化していく。だが本当の悪夢はこれからだった……。

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 ステュアート・ゴードン作品の主人公は、常に最悪の選択をする。異界の扉を開けるとか、死の壁を超越するといったタブーを侵した挙げ句、世界の条理は崩壊し、悪あがきの末に罪のない女子供が死んだりする。それを大真面目なブラック・コメディとして撮るのがゴードンだ。極限状況にあって「人間どこまで鈍するか」を描いてきた彼の真骨頂と呼べるのが、本作『King of Ants』である。

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 『King of Ants』はバイオレンス満載の犯罪スリラーであり、虐げられた男の復讐劇でもあり、派手なクライマックスが見せ場のB級アクションとしての体裁も守っているが、基本的にはいつもと同じシュールなオフビート・コメディだ。ポイントは主人公がとんでもないボンクラ野郎であること。小粒だが、未公開がもったいない佳作である。

 前半はどこにでもいる平凡な青年がふとしたことから散々な目に遭い続ける『DAGON』(2001)のような作品と見せかけて、だんだんと違う様相を呈してくる。壮絶な拷問によって愚鈍さを研ぎ澄まされた(あるいは殴られ過ぎて余計バカになっちゃった)主人公は、周囲にことごとく災渦をもたらす「超人」として蘇るのである。こう書くと黒沢清監督の映画みたいだが、実際そうなのだ。

 後半の展開はカタルシス満点の復讐劇に見えるが、実際はかなりねじれた暴力喜劇で、非常に面白い。自らの罪を清々しく忘れて暴れまわる青年は、贖罪とか宿命とか悲劇的帰結といった映画的モラルなぞに回収されたりはしない。彼が着ているTシャツの柄も素晴らしくバカでよろしい。いかにも痛快アクション映画の大団円といったラストの大爆発は、ぞんざいな装置の仕掛け方といい、ゴードンの悪意と適当さがダイレクトに出ていて感動してしまった。これは快作である。優れた冗談としてよく出来ている。

 主役の新人俳優クリス・L・マッケンナは、全裸の拷問シーンやエレファント・マン状態に膨れ上がった頭部メイクなど、過酷な試練にも前向きに取り組んでいて偉い。脇を固めるキャストはB級的になかなか豪華で、『ヴァンパイア/最後の聖戦』(1998)のダニエル・ボールドウィンや『スパイダー・パニック!』(2002)のカリ・ウーラー、『ガン・ホー』(1986)のジョージ・ウェントや『マッドマックス2』(1981)のヴァーノン・ウェルズ、さらに『リストラ・マン』(1999)のロン・リヴィングストンといった陽の当たらない名優たちが集結している。中でもやはりヒロイン役のカリ・ウーラーが魅力的だ。劇中では激しい濡れ場に挑むほか、とんでもない姿に変身したりする。

 元々は、デューク役のジョージ・ウェントがイギリスでTVコメディ番組を企画していた時、作家でTV俳優のチャーリー・ヒグソンが持ち込んできた「およそTV向きでない」小説がオリジナル。その内容に惚れ込んだウェントが、映画スタジオ各社に持ち込んでは「ダークすぎる」と断られまくった末、旧知のゴードン監督の元に預けたのだとか。いわば雇われ仕事だが、仕上がりは相当にゴードン色濃厚だ。

 低予算で作られた小品だが、それでも特殊メイクに凝ったり、出さなくてもいいクリーチャーなどを出したりするのがステュアート・ゴードンらしさだ。本作のような犯罪スリラーでも、人体損壊部分のメイクは一貫してシュールなホラー感覚で作っているのも楽しい。やたら発色を強くしたスーパー16mmのブローアップ映像は、カラフルな白日夢の趣き(ややデジタルくさいが)。日本でもDVDが出ないもんだろうか。

追記:2007年10月3日に、ジェネオンエンタテインメントから『キング・オブ・バイオレンス』のタイトルでめでたく国内リリース!

・Amazon.co.jp
『キング・オブ・バイオレンス』DVD

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