Simply Dead

映画の感想文。

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『どろろ』(2007)

『どろろ』(2007)

 俳優・妻夫木聡は悩んでいた。かの傑作マンガの映画化『どろろ』の主役に抜擢されたはいいものの、CGでは観客を納得させうる百鬼丸のアクションが作れない。考えあぐねた末、彼はひとつの決断を下す。本当に両腕を切り落としてしまおう! あとでまたくっつければいいのだ。そんな神業を可能にするのは、この世でただ一人……天才外科医、ブラック・ジャック!

 ……という併映短編をなぜ手塚眞監督で作らないのかと酒の席で知人と話していたのだけど、実際の本編も冗談みたいな代物だった。本当、情けなくて涙が出てきた。

 大小さまざまな問題はあるが、いちばん酷いのは『どろろ』でこれが描きたい! という熱情がまるっぽ欠けていることだ(まあ、あったとしても的外れ)。逆に言うと、テレビ局主導のあれもできないこれもできない制約だらけの制作条件でも、原作にさしたる思い入れもないスタッフだからこそ、何らこだわりなく作れたのだろう。もし『どろろ』映像化のモチベーションを強く持つ者なら、条件を知った時点で降りているはずだ。

 だが映画は作られてしまった。

 まず驚くのは舞台が日本じゃなかったこと。そういうのは独自の世界観を映像化できる人しかやっちゃいけないことであって、『スター・ウォーズ』の出来損ないみたいなセットをいけしゃあしゃあと見せて「異世界でござい」もないもんである。同様に、原作ファンを間違いなく激怒に至らせるのは、百鬼丸の体を作るシーン。バカバカしさを狙ったにしても、あまりに想像力に欠けているし、ギャグとしてもお寒い限り。時代劇なのに透明チューブや水槽を平気で使うなんざ、ただの手抜きだ(どうせ別世界だからとかなんとか言い訳するつもりなんだろう)。

 そして殺人的にセンスのないCG。クリーチャーの造形は言うに及ばず、動きのタイミングからフレーム内でのアクション設計から、何から何までダサい。スピードでごまかしている感が強いのは、現場で実写撮影班と連携できていない証拠だ。「CG妖怪が画面手前に向かって逃げてくる」っていう百年前のセンスを何度も繰り返すのも耐え難い。飛び抜けておかしいのは、蛾のバケモノ(土屋アンナ)が本性を現すくだりだろう。食われた子どもの霊が発光して妖怪にしがみつき、逃げるのを阻止するという画のアホくささはちょっと凄まじい。

 脚本も演出も、形ばかりのメッセージ性を押しつけながら、乱世で弱者が生きることの苛烈さも、アウトサイダーの哀しみも映像としてまるで描こうとしない。ただ台詞で説明するのみ。『どろろ』のような原作を、役者を使って肉体化するということは、そういうハードな部分にもきちんと迫るべきじゃないのか。実写だからこそできることを、作り手はむざむざ放棄してしまっている。ひいては、百鬼丸と妖怪のバトルをかっこよく撮ってやろうという気概さえもないのだ。「アクション演出はチン・シウトンの領域だったから口出しできなかった」という言い分もあろう。確かにそこだけ香港映画になっている。日本のマンガを自由な解釈で強引に映画化した時の香港映画そっくりだ。でもこれ日本映画なんだけど……。

 最後なんて、やっと父子の凄絶な闘いが繰り広げられるのかと思えば、野っ原にみんな集まって家族会議みたいになっちゃうし。しかもまず話し合いで何とかしようとするという、篠田正浩の『梟の城』みたいな腑抜けたクライマックス。そんな家庭事情とは関係ない部外者のどろろでさえ、虐げられた者の怒りはどこへやら、他人んちの心配するだけ。村滅ぼされてんだろ、お前。

 そんな散々な映画だが、瑛太くんの「父さんオレだよ!」ってセリフで爆笑しそうになったので、そこだけはオススメ。絶対その後「アオヌマシズマだよ!」って続くんだと思った。

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『マリー・アントワネット』(2006)

『マリー・アントワネット』
原題:Marie Antoinette(2006)

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「ねえパパ、どうすれば一人前の映画監督になれるの?」
「そうだねえ……王国を作れば本物だよ」

 というわけで、とりあえず王国への第一歩としてベルサイユ宮殿に乗り込んだソフィア・コッポラ初の大作。TVアニメ版『ベルサイユのばら』を熱中して観た身としては、見逃すわけにいかない(まあ仕事だったけど)。

 夢みたいな映画だった。アメリカに住んでる普通の女の子が、たまたまマリー・アントワネットになった夢を見ているような映画。何しろ演じているのがキルスティン・ダンストなのだから、リアルな史劇とは絶対に思えないし、「逆にリアル」とかも有り得ない。実際、ヒロインが目覚めるシーンから映画は始まる。つまり起きたら自分がマリー・アントワネットになっていたのだ。きっとホンモノもそういう心境だったんじゃないの? というのが監督の主張であろう。

 ヒロインが台詞を暗記したような口ぶりでしか喋れないのは、きっと歴史の授業の課題図書で読んだことだから。口うるさい教育係のノアイユ伯爵夫人は、現実では学校の生活指導員とかなんだろう。お目付け役のメルシー伯爵は、心配性のお父さん。ルイ16世はクラスにいる変わった男の子(天才マックス?)で、フェルゼンはさしずめ気になるジョックスか雑誌で見たイケメンモデル。

 映画には終始、地に足のつかない浮遊感が漂う。悲しい終わりを予期しているかのような、他人事のような現実感のなさ。その感触は面白かった。カメラは女の子の感覚的なリアリティにはべったり寄り添うが、ヒロインの目に入らないことは全然映さない。時代背景とか革命への動きとかは皆無。

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 一時の華やかな夢が終る時、映画も終わる。本当の悲劇は、彼女の夢が最後に覚めなかったことだと思うが、さすがに斬り落とされた首までは見せてくれない。しかし、ラストカットの寂寥感は、この映画のすべてを象徴していると思う。キュートでポップでゴージャスなガーリー・ムービー(なんだその言葉)を期待した観客は、全編に漂うもの寂しさに戸惑うだろう。

 いわゆる「悲劇の王妃を普通のティーンエイジャーとして描く」というアプローチとも違って、本作はもっとメタな映画に仕上がっている。その図式は、キルスティン・ダンストがマリー・アントワネットを演じている(そして、ソフィア・コッポラがベルサイユ宮殿でマリー・アントワネットの映画を撮っている)という現実の非現実感に重なるものだ。

 だから映画としては結構、面白いと思う。音楽の使い方も、目新しくはないけど効果的(たまに本当にバカなんじゃないかと思う選曲もあって笑った)。まあ何度も言うけど史劇として観るものではまったくないし、予告編とか見た時点で、そんなこと期待して観に来る人はまずいないと思うけど。

 ただ、アントワネットが別邸に移る後半辺りから、眠気を誘うシーンを連続させてしまうのが難点。やっぱりそこで巧く畳み掛けられてこそ一人前の……とか、アニメ『ベルばら』の見事な演出を知っているだけに、つい文句を言いたくなってしまう。首飾り事件までバッサリ切っておいて123分というのは長すぎる。

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 出演者の中では、メルシー役のスティーヴ・クーガンがよかった。儲け役だし。アーシア・アルジェント演じるマダム・デュバリーは、やりすぎ。観る前まではぴったりだと思ってたけど。たった1カット出演で全て持っていくマチュー・アマルリックが地味に凄かった。

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『10番街の殺人』(1971)

『10番街の殺人』
原題:10 Rillington Place(1971)

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 リリントンプレイス10番地! 少女マンガに出てきそうなメルヘンチックな地名だが、実際はロンドンの煤けた下町で、とある変態殺人鬼が8人あまりの女性を葬った場所(赤ん坊も含む)。これはその事件の映画化で、監督はハリウッドの職人演出家リチャード・フライシャー。あらゆるタイプの娯楽映画を手がけた才人だが、本作や『絞殺魔』(1968)などの実録サイコスリラーでは特に優れた手腕を発揮している。

 元警官でアパート管理人のジョン・クリスティは、頭痛などに悩む女性たちに医師を装って声をかけ、ガスを吸わせて眠らせた後、絞殺。死体は弄んだ後、裏庭に埋めた。ある時、クリスティ氏は上階に間借りしていた若夫婦が、妊娠問題でモメているのに目をつける。彼は夫妻に堕胎を持ちかけ、手術と称して妻ベリルを殺害。帰宅した夫ティムが妻の死を知り動転していると、「このままだと君の罪になるから身を隠せ」と諭し、彼を追い出す。その隙に、彼らの幼い娘も殺害。しばらく後にティムは逃走先で自首するが、状況証拠とクリスティの証言から、妻子殺しの犯人にされてしまう。無学で虚言癖のあったティムの反論は却下され、あっさり絞首刑に。その後、クリスティ氏は自分の妻も殺し、さらに数人を手にかけた。が、ひょんなことから自宅に隠していた死体が見つかり、逮捕。ティムの無実が証明されたのは死刑執行から12年後の事だった。

 迫真の演技でクリスティ氏に扮したのは、大作監督としても知られる名優リチャード・アッテンボロー。顔も体も丸くて人なつっこそうなイメージだが、一見穏やかに見えてどこか気味の悪い男を、本当に気味悪く演じていて出色。さすがは性格俳優の宝庫イギリスといった感じ。自身もこうした心理犯罪領域には造詣が深いのか、出演作『雨の午後の降霊祭』(1964)では製作も手がけたり、サイコスリラーの名品『マジック』(1977)を監督したりしている。

 そして若き日のジョン・ハートが、まんまと身代わりにされてしまう不幸な青年ティム役を好演。学がないためいい職に就けず、でも口からデマカセばかり言って大物ぶってしまう、ダメ男の滑稽さが絶妙。前半の軽佻浮薄ぶりにも舌を巻くが、為す術なく処刑されていく後半のボー然とした表情も素晴らしい。特に、取調室での魂が抜けきった姿は、ちょっと人間業とは思えない演技だ(本当に死体のように動かない!)。

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 アッテンボローとハートという2人の芸達者を見ているだけでも本作は楽しいが、いかんせん地味なせいか、『いつも心に太陽を』(1966)の人気女優ジュディ・ギースンが魅力的な若妻ベリルを演じている。可愛い若奥様という感じと共に、なかなかリアルに世帯疲れを滲ませていて印象的。

 フライシャー監督は実際の犯行現場にロケし、殺人者と被害者の肖像をひたすら淡々と映していく。『絞殺魔』のように、めくるめく映像テクニックを駆使して犯人の心理に迫ったりもしない。ボストン絞殺魔のデサルヴォ容疑者とは異なり、ある意味、本作のクリスティ氏は「正気で」殺人を繰り返していたからでもあるだろう。とにかく、ただそこで起きたことを率直に伝えていくだけ、というストイックな態度を貫いている。余計な事は一切しない。かすかにブラックユーモア的な感覚が漂うが、それは現実の事件そのものの残酷なおかしみでもある。不運な男があれよあれよと死刑台へと送られるくだりは、特に秀逸。熟練の演出力に裏打ちされた、とてつもなく簡潔で濃密な傑作だ。

 枯れたと言えばあまりに枯れた作風だが、フライシャーは優雅に枯れている。それが極まったのが本作であり、『スパイクス・ギャング』(1974)であろう。モノクロームに限りなく近い色調は、ブリティッシュ・カラーノワールとでも呼びたい渋さ。監督本人はブルックリンの生まれだが、イギリスの陰湿な空気感をパーフェクトに捉えており、息苦しさ満点の世界が見事に視覚化されている。

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『エレクション2』(2006)

『エレクション2』
原題:黒社會以和爲貴(2006)
英語題:Election2

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 劇場で『エレクション』を観たその日に、結局ガマンできず香港盤DVDを購入。観たらこれまた「絶対にスクリーンで観直さねば!」と思わせるシャープな快作だった。

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〈おはなし〉
 前作から2年後。和連勝会の幹部ジミー(ルイス・クー)は中国本土に進出し、ビジネスマンとして大きな取引を動かしていた。そんな折、香港では再び会長選挙の時期となり、幹部連からは信望も厚く商才にも秀でたジミーを推す声が高まる。しかし、彼自身は会長職に興味を持てないでいた。そこで現会長のロク(サイモン・ヤム)はしきたりを破り、自らの再選をもくろむのだった。

 だが、ジミーはのっぴきならない事情から、次期会長に立候補することに。全力でそれを阻止しようとするロク。非情な戦いの火蓋が再び切って落とされた……。

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 『エレクション2』はルイス・クーの映画である。1作目には彼演ずるジミーが経済学の授業を受けているシーンが出てきたが、それは本作に至る重要な伏線だった(単なるインテリヤクザとして再登場するわけではないのだ)。望まぬ地位のために命がけの戦いを強いられる苦渋を、ルイス・クーは見事に演じきっている。最も感情的に揺れる役ながら、最後までキャラクターがブレないのは、不敵な面構えを崩さない抑制のきいた演技の賜物。ニック・チョン演じるジェットとの微妙な絆を描いた部分も切なくていい。

 ロクを演じるサイモン・ヤムは、権力に執着する男の静かな狂気をここでも怪演。ジョニー・トー作品における「物言わぬ凶暴性」といえばこの人、みたいな存在感になってしまった。前作のラストで完璧にトラウマを植え付けられた彼の息子のその後も描かれる。

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 1作目では対照的な男同士の対立が組織内にうねりを生んでいく様をテキパキと描いたが、今回はいかにしてジミーとロクの対立構図が出来上がっていくかを丹念なサスペンスで積み上げていく。その図式が完成してしまえば、あとは一気呵成。生きるか死ぬかしか答えがないことを分かっている両者は、迷いなく非情な殺し合いへと雪崩れ込む。得票のための駆け引きなどはすっ飛ばされ、血で血を洗う戦いを突き進めるより他にない。ヤケクソ気味のバイオレンスは前作を凌ぐ凄惨さだ(ワンちゃん大活躍)。

 平行して、大陸に進出したジミーが中国公安に翻弄される姿を通し、返還後の香港で結社が直面せざるをえない変容を突きつける。そこには『デッドポイント/黒社会捜査線』(1998)や『PTU』(2003)で本土から来た犯罪者たちを不可解な怪物として描いてきたトー監督の“大陸嫌い”の一面が窺えた。

 黒社会を取り巻く状況の変化が描かれる『エレクション2』では、ルック自体1作目とは若干異なる。相変わらず素晴らしい闇(ノワール)が描かれる一方、明るい昼間のシーンも多く映し出される。白昼の下の緊迫感というのは、これまでのジョニー・トー作品のトレードマークといえる演出であった。本作でも突発的な暴力を描く際、トーはいつもの得意技を復活させている。それらの緊迫した見せ場以外にも、本作には均質な光にさらされた場面が多い。黒社会が闇の中だけにとどまる時代が終り、公的な場にも進出していく混沌を示しているようにも見える。

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 あまりに深く美しい緑の中で、主人公の人生が皮肉な展開を迎えるクライマックスは絶品だ。権力に呑まれた者が必ず「山の上に登る」という約束事も、ジョニー・トー監督ならではの美しいシンプリシティ。この場面だけでも劇場の大画面で再見したいという興奮に駆られた。

 新たに加わった出演者の中では、金でジミーに雇われる助っ人ヤクザ役のマーク・チェンがいい。渋い中年の凄味をきかせながら、ずっと追加料金のことしか言わない(笑)という意外な和みキャラを好演。鉈を手に激しい立ち回りも見せてくれる。アンディ・オンはほとんど出た意味があるのかないのか分からない悲惨な末路で思わず呆然。また、前作で“不動の恰幅”を示したウォン・ティンラム翁が、今回かなり悲惨な目に遭うので、ファンはハンカチのご用意を。

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 ただ、映画としてすっきりした分、1作目にあったコクのようなものが減ったように感じた(これもやはり何度も重ねて観ねばなるまい)。それは演出スタイルの変化以外にも、編集・音楽スタッフが前作と異なるからかもしれない。パトリック・タムがおそらく監督作『父子』(2006)の作業で編集から外れ、入れ替わりに『父子』組からロバート・エリス=ゲイガーが音楽に参加している。

 副題の「以和爲貴(和をもって貴しとなす)」は、孔子の『論語』からの引用。聖徳太子の憲法十七條・第一条として知っている人も多いかもしれない。原文ではその後、「先王之道斯爲美(だからこそ先王の行いも美しかった)」と続くそうで、これはジョニー・トー流のアイロニカルな嘆きだろう。


※追記:2010年『エレクション?死の報復?』のタイトルでDVD発売。

・Amazon.co.jp
DVD『エレクション?死の報復?』

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『エレクション』(2005)

『エレクション』
原題:黒社會(2005)
英語題:Election

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 去年の東京フィルメックスで初めて観た後、封切2日目にテアトル新宿で再見。もう観たい人はみんな映画祭か公開初日か輸入DVDで観てしまったのか、客席の寂しさが気になった。

 『エレクション』は2度目の方が面白い。噛み締めるほどに、素晴らしさの伝わる映画だ。正直、初見の時は「こういう映画だったのか」という驚きと、人物関係を追い掛けるので精一杯だった。当初、この作品はジョニー・トー監督渾身の一大プロジェクトであり、香港黒社会の成立過程まで遡って描かれる一大叙事詩になる(かも)と伝えられていたので、こんなにタイトで簡潔な内容になるとは思ってなかったのだ。

 映画は香港最大の組織「和連勝会」で行われる会長選挙を巡って起こる、ほんの数日間のいざこざを中心に構成されている。登場人物は多いものの、主軸となるのは「組織のトップの象徴である“龍頭棍”の奪い合い」という、とてもシンプルなものだ。2度目の観賞ではどんな映画かも分かっていたし、キャラの配置も飲み込めていた分、作り込まれたビジュアルや構成の妙をじっくり楽しむことができた(単純に言えば、よくできた映画であることがよく分かった)。だからなるべく2回以上は観た方がいい。もちろん熱心なファンは黙って劇場へ日参するだろうけれど……何しろ続編『エレクション2/黒社會以和為貴』は現在、まったくの公開未定。これが当たらなければ劇場では観られないかもしれないのだ。

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 本作はジョニー・トーのノワール美学の集大成と言っていい。ほとんど全てのカットに、濃淡さまざまな陰影があしらわれている。ナイトシーンはもちろん、昼間だろうと室内だろうと、例外はない。場合によっては役者の顔さえ映さない徹底ぶりだ。しかし、その闇は次第にとてつもなく味わい深いものとなってくる。2度目に観る時など、細部までデザインされた闇の美しさにただただ酔いしれるばかりだ。それを彩るルオ・ダーの甘美な音楽もまた素晴らしい。

 無駄な描写を廃し、言葉少なに緊張感を保ちながら、私情を差し挟まず物語を映していくトー監督。その語り口は本作でさらにシンプルに、ドライに研ぎ澄まされている。意表を突くユーモアセンスも相変わらず、タチが悪い(笑)。スタイリッシュとかクールとかいった形容も超越した、無常観を湛えたその視線には、もはやクリント・イーストウッドにも近いものを感じた。あとでパンフレットを読んだら「ジャン=ピエール・メルヴィルを思わせる」と書いてあって、それも「なるほど」と思った。

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 佇まいだけで見せきるキャスティングは、今回も完璧。中でも、狂犬ヤクザのディーを怪演するレオン・カーファイがひときわ強烈な魅力を放っていた。前作『柔道龍虎榜』(2004)とは正反対のハイテンションな芝居で、これまでの物静かなイメージを完璧に払拭している。実はこの人こそジョニー・トーの最終兵器なのでは……と思わせるキレっぷりは、ファンならずとも必見である。対する“静かなる男”サイモン・ヤムの怖さと威圧感も素晴らしかった。その他、ルイス・クー、ニック・チョンら若手メンバーの好演も印象に残るが、特筆すべきは常連俳優のウォン・ティンラム。大変な巨体をキュートに揺らしながら、組織の長老タンを軽やかに演じる。殺気みなぎる本作にあって最高の癒しオーラを漂わせ、これまででいちばんいい役ではないかと思わせた。

 『エレクション』では、これまでジョニー・トー節とか形容されてきたガンアクションを一切封じ、ひたすら斬る・殴る・絞めるといった肉体的な暴力描写を徹底させている。香港のヤクザは銃を使わない、というのが地元のリアリティだそうで、ひたすら経済的かつ近接的なやり方で全てを解決する。地味だが怖い。特にクライマックスの凄絶なバイオレンスは、ちょっと夢に見そうなほどだ(対抗できるのは黒沢清監督の『カリスマ』ぐらいだろう)。より凄惨で殺伐とした恐怖をギャング映画定番の見せ場に用意しながら、その残酷描写がパク・チャヌク作品のように映画的快感として機能しないところは、現実の暴力を知るジョニー・トーの誠実さか、それとも筋金入りの底意地の悪さか?

 とにかく、早くスクリーンで続きが観たい!

・Amazon.co.jp
『エレクション』DVD

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『ラッキーナンバー7』(2006)

『ラッキーナンバー7』
原題:Lucky Number Slevin(2006)

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 随所にトリックを仕掛け、観客の先読みを許さないピカレスク・スリラー。前半は軽妙さと非情さが入り混じるユーモアミステリ・タッチだが、監督が『ギャングスター・ナンバー1』(2000)のポール・マクギガンなので最後まで洒脱な感じでは終わらない。後半はかなり血生臭い復讐譚と化す。監督の本領が発揮されているのはやはりその部分だろうが、それまでの楽しさが失われてしまうのは惜しい。美術的にも、凝った壁の模様などは面白いが、プロダクションのスケールは『ギャングスター・ナンバー1』に比べて落ちた気がする(出演者のギャラだけで使い果たした?)。

 シナリオは神経質なまでに伏線と目くらましを施すことに腐心しており、過剰なまでにネタ振りやフラッシュバックを繰り返す。そうすると観客はどうなるか……どうでもよくなるのだ。それを防ぐためにも、もっと早めに主人公を登場させるべきだった。どんでん返しに凝るあまり、ゲーム全体の進め方をしくじった感は否めない。

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 とはいえキャストの豪華さだけでも、本作は十分に魅力的。やっぱりジョシュ・ハートネットはいい。『ブラック・ダリア』(2006)に続いて、ここでも達者な好演を見せている。ちょっぴり抜けた普通の青年と思わせて実は……という役柄は『殺人狂時代』(1968)の仲代達矢を連想させるが、見た目も演技も当然グッと爽やか。黒目ばっかりの眼と、寝ぐせアタマが母性本能をくすぐる? この映画ではそんな彼の好青年ぽいイメージを巧く利用している。驚くべきはルーシー・リューの可愛さ! 今までこんなにキュートな彼女を見たことがあったろうか、と思うくらい。まるでエド・マクベインの『ダウンタウン』に出てくる女の子みたいだ(まあ思ったほどは面白くない小説だったけど)。まあ個人的に『チャーリーズ・エンジェル』でもあの3人の中ではいちばんマシだと思ってたぐらいだから、他の人がどう感じるかは知らない。

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 一方、悪党どもに魅力がないのは致命的。敵対しあう組織のボスに扮したモーガン・フリーマンとベン・キングスレーは、部屋に閉じこもっているだけでほとんど凄みを見せずに終わってしまう。そのため、あっち行って会話、こっち行って会話の繰り返しになる前半は、かなり眠かった。ラストの死にざま勝負では当然のごとくキングスレーに軍配が上がる。ブルース・ウィリスの存在感はもうミステリアスというより気色悪い。『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)でガンプの親友になる黒人兵を演じたミケルティ・ウィリアムソンが、またしても変な顔で笑いを取る役で出演。

 Slevinという奇妙な言葉を含んだ原題がなかなかそそるが、さほど意味のある使われ方をしていなかったのが残念。ビデオで観れば拾い物かも。

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『マカオ』(1952)

『マカオ』
原題:Macao(1952)

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 ジェーン・ラッセルとロバート・ミッチャムが共演した、オリエンタルムード溢れる娯楽作。制作はハワード・ヒューズ率いるRKOピクチャーズで、監督は『モロッコ』(1930)のジョゼフ・フォン・スタンバーグ(しかし撮影中に途中降板し、ニコラス・レイがその後を引き継いだとか)。

 楽園と地獄の顔を持つ町マカオへ向かう船上で出会った、謎めいたクラブ歌手の美女と、ハンサムな流れ者。ふたりはそれぞれ悪玉・善玉を相手に立ち回りながら惹かれ合って行く。セットなどに予算はかかっているが、仕上がりはライト級ノワールといった小品で、尺も80分とコンパクト。楽しむべきはラッセルとミッチャムの艶っぽいやりとりであり、見事な美術とライティングで再現された異国情緒。もちろんメインキャストの出演場面はマカオでロケ撮影などしておらず、全てスタジオ撮影とスクリーンプロセスで賄われている(合間の実景は別班撮り)。

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 ダイアログはいちいち捻ってあって面白いが、おはなし自体は大したことない、というかサスペンス的にはかなり手抜きな印象。悪役に魅力がないのがなんとも惜しい。つまらないアメリカ人に設定するより、どうせなら外国人俳優に演じさせればよかったのに。マカオの現地人は大体、クルピエか老人か殺し屋しか出てこない。

 さほど面白い筋とも言えないのについ見入ってしまったのは、ロバート・ミッチャムのキャラクターが魅力的だったから。若い頃のミッチャムはなんとなくボーッとした呑気な感じがあって、実はキレ者なのか、本当にちょっとナイーブ(うぶ)なのか分からない。特筆すべきは後者の要素。喜劇以外でそういう味を醸し出すのはわりと難しいが、本作のミッチャムは良い意味でハンパな人間味がよく出ていた。

 当時の全アメリカ男性を悩殺したジェーン・ラッセルの美貌は、本作でも過剰にスパークしている。顔立ちのせいか、ガタイのしっかりしたイメージがあるけど、フルショットで映るとあまりのスタイルの良さに驚愕してしまう。ブラが透けて見える黒のシースルードレスなど、豊富なワードローブの着せ替えも目に楽しい。

 夜の波止場で繰り広げられる主人公と殺し屋の追っかけシーンは、かなりノワールムード濃厚な名シーンだ。どこがスタンバーグでどこがニコラス・レイなのか、といった演出の違いは、ちょっと勉強不足なものでよく分からない。しかし、ラッセルとミッチャムがホテルの部屋で喧嘩する場面で、鬼気迫る面持ちのラッセルが扇風機を手にじりじりとミッチャムを追いつめる(そして枕が切り裂かれて羽毛が舞い散る)というような描写を、スタンバーグがやるかなあ? とは思った。

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『狼獣たちの熱い日』(1983)

『狼獣たちの熱い日』
原題:Canicule(1983)
英語題:Dog Day

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 狼獣と書いて「けだもの」と読ませる、フランス製の異常性愛サスペンス+クライムアクション。原題・英語題ともに「猛暑」という意味で、舞台は片田舎にある一軒の農家。そこで繰り広げられる狂った人間関係がこの映画のメインストーリーだ。

 セックス中毒気味の粗暴な主人、憎悪と欲求不満を溜めこんだ若妻、ギャング退治を夢見る悪ガキ、色情狂の中年女、その相手をさせられる黒人農夫、施設送りを異常に脅える老女……そんな爛れた地獄の家へ不運にも迷い込んだ老練なる銀行強盗リー・マーヴィンは、不思議の国にやって来たアリスのごとく異常な人々に翻弄され、悪夢から覚めることなく最低の格好でくたばる。最高じゃないか。

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 原作はジャン・ヴォートランの小説。本名はジャン・エルマンといい、この作品では共同脚本にも名を連ねている。映画好きには『さらば友よ』(1970)の監督として馴染みが深いだろう。監督業に見切りを付けて小説家ジャン・ヴォートランとして再出発してからは、集合団地を舞台にしたストレンジな群像劇ノワール『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』『鏡の中のブラッディ・マリー』といった異色の傑作群を発表。映画的な語り口のうまさと辛辣なユーモアで、低所得者階級のコミュニティに潜在する異常心理を描き、“ネオ・ポラール”と呼ばれる暗黒小説の新たな潮流を生みだした。余談になるが、僕がハンドルネームに使っている「グランバダ」という言葉も、前掲した2作の文中に出てくるデタラメなフレーズ。邦訳は少ないが、今のところ手軽に読めるのは『グルーム』(新潮文庫)。これも掛け値なしの傑作である。

 社会派イヴ・ボワッセが監督を務めた『狼獣たちの熱い日』は、ヴォートラン作品のエッセンスをかなり近いところまで映像化しようと試みた佳作だ。共同脚本・台詞を担当したのは、他の作品でもヴォートランと組むことの多かったベテラン脚本家のミシェル・オディアール。演出がやや平板で(日本版ビデオが英語吹替だから尚更かも)、フランシス・レイの音楽もダサいが、先の読めない無茶苦茶なストーリーだけでもカルト映画の資格充分。後半、あれよあれよと死体の山が築かれ、いいとこなしの老ギャングが無駄な抵抗を試みる辺りはかなり意地が悪くて面白い。

 しかも変態だらけの家族を演じるのが『夜よ、さようなら』(1979)のミュウ=ミュウに『ブリキの太鼓』(1979)のダヴィッド・ベネント、『私のように美しい娘』(1972)のベルナデット・ラフォンといった錚々たるキャスト。ミュウ=ミュウはクールな眼差しでヴォートラン世界のヒロインを見事に体現している。こまっしゃくれたガキを演じるダヴィッド・ベネントもイメージぴったり。

 中でもハリウッドの犯罪暴力映画の生ける伝説=リー・マーヴィンの起用は、本作のキーポイントだ。フランス人が抱く米国文化への浅はかな憧れを好んでモチーフにするヴォートランにとっては、望外の喜びだったに違いない。できるだけ“Cruel and Unusual”な死に様を用意しなければ、礼を欠くというものだ。広大な農場を走るスーツ姿のマーヴィンといえば、マイケル・リッチー監督の快作『ブラック・エース』(1972)の追跡シーンが否応なしに思い出される。

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 映画はあと一歩、俗を突き詰めた果ての聖性みたいな部分まで辿り着ければ完璧だったが、アクションスリラーとして作られている手前、なかなか難しいところ。筋運びがよすぎるきらいもあり、特にピンクのキャディラックを乗り回し、アフリカ行きを夢見るセックス奴隷の黒人農夫ドゥドゥのシーンが少ないのが残念(いかにもヴォートランらしいキャラなのに!)。知らない人にヴォートランの魅力を伝えるには、やや物足りない仕上がりではある。しかし、トンデモ映画とか一面的な評価で片付けてはいけない作品であることは間違いない。

 1985年に作られた『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』の映画化は、なんとミュージカルなんだとか。出来はともかく一度は観ておきたい。

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『強制尋問』(2004)

『強制尋問』
原題:Strip Search(2004)

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 社会派シドニー・ルメット監督の『グロリア』(1999)以来となる長編作品。アメリカのケーブルテレビ局HBOで制作・放映され、日本でもCSとBSでオンエアされた。前作『グロリア』の出来がアレだったので、もはや死んだものと思っていたが(失礼)、直球タイトルを持つ本作では久々に野心的な演出に取り組んでいる。

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〈おはなし〉
 北京。一人のアメリカ人女子大生(マギー・ギレンホール)が、友人たちと食事中に突然、逮捕されてしまう。連れてこられたのは蒸し暑い取調室。嫌疑の内容も分からず、弁護士も呼ばれないまま、当局の男(ケン・レオン)による執拗な尋問が始まった。

 ニューヨーク。一人のアラブ系青年(ブルーノ・ラストラ)が、通学途中に友人たちの目の前でいきなり逮捕される。ビルの一室に拘留された彼は、女性取調官(グレン・クロース)の執拗な尋問に晒されることに。

 アイオワ。高校生のジェリー(トム・ギリー)は、姉が中国で逮捕されたことを知り、愕然とする。ジェリーは手を尽して姉の現況を知ろうとするが、どこへ問い合わせても埒が明かない。「君の姉さんは今やチェス世界戦の駒のひとつだ。国が得策だと判断しないかぎり、彼女は助けられない」……

 憔悴しきった被疑者に、取調官は「服を脱げ」と言い放つ。ストリップサーチだ、と。

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 9.11以降、米国内でテロの容疑者として拘留された人間は700人強。そのうち70%以上が問答無用で国外退去に処せられ、中には4人のアメリカ国民もいた。その事実を踏まえ、本作では2つの国で逮捕された2人の若者が、非人道的な尋問を受ける姿を、カットバックで冷徹に映していく。「正反対に見える両国も、やっていることは変わらない」ということを、ルメットと製作・脚本のトム・フォンタナはこれ以上なくシンプルなやり方で映し出す。「世界の安全を守る」という言葉のもとに、人間の自由と尊厳を破壊するマニュアル作業が平然と行われる様子を、アメリカ人にも容易に感情移入しやすく描いてみせる挑発的な作品だ。

 2つの場所で展開するやりとりは、一言一句まったく同じ台詞で進んでいく。ただ男女の演じるパートと、セットが違うだけ。一見、演劇的な要素が強い趣向だが、それらを差異化していくのは、役者の芝居付けも含めたルメットの映像演出である。さすがに『十二人の怒れる男』『エクウス』『デストラップ ―死の罠―』など舞台劇の映像化を得意としただけあって、限定的な設定下での演出はお手の物だ。見事なカメラワークと編集で見せきってしまう。

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 台詞が一言一句違わないということは、やっていくうちにどうしても無理が生じてくる。だがそれも俳優陣の力演でカバーしており、逆にトリッキーな妙味としている部分もある(たとえば「どうして彼女と別れた? 愛していたのに」という台詞も、それぞれ男性と女性相手に繰り返されるわけだ)。取り調べる側を演じた2人の芸達者……グレン・クロースとケン・レオンの怪演が圧倒的だ。特に、ケン・レオンは細かい動作にも意識の行き届いた奇怪な芝居で目を奪う。最近では『イカとクジラ』(2005)に校内カウンセラーの役で出ていたが、何か異様な緊張感を与える人だ。

 対して、理不尽な屈辱を受ける若者たちの憔悴ぶりもリアリティ充分。題名通り、全裸での検査シーンもちゃんとある。マギー・ギレンホールはビニール手袋で裸体をまさぐられ、ブルーノ・ラストラはグレン・クロースの好色な視線になめ回される。両者とも、この役を引き受けた時の覚悟はいかばかりのものだったか。日本放映版にはしっかりボカシが入れられ、そんな彼らの勇気もぼやけてしまった。

 本国アメリカではかなり厳しく検閲され、120分あったファーストカットが55分に短縮されたとか(日本放映版は90分)。試みとしてはさほど目新しくはないものの、商業ベースの作品としてはかなり挑戦的なフィルムに仕上がっている。あくまで小品だが、いかにもルメットらしい、ストラクチャーで見せていく硬質の社会派作品を久々に見せてもらった気がした。

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『エル・ゾンビIII 死霊船大虐殺』(1975)

『エル・ゾンビIII 死霊船大虐殺』
原題:La Noche del Maldito
英語題:Ghost Galleon(1975)

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 スペインのアマンド・デ・オッソリオ監督による“ブラインドデッド”シリーズの第3作。盲目のミイラとなった騎士団が現代に蘇り、人々を血祭りにあげる。最近、日本でもDVDが発売されたが、その前に買ってあった北米盤で観た。

 今回の舞台は海の上。わりと凝った(というか回り回った)ストーリー展開で、今村昌平の映画みたいな欲まみれの男女グループが幽霊船に乗り込み、待ち構えていたブラインドデッドたちの餌食となる。なんら感情移入を許さないキャラクター描写は好悪の分かれるところだろうが、最も人間的な感情を持ち合わせた人物が最も酷い目に遭うという作劇の姿勢は明確で、いっそ清々しい。

 ドラマとして面白く見せようという努力もあるし、幽霊船とブラインドデッドの組み合わせも非常に不気味な効果を醸し出している。襲撃シーンが意外と少ないのは物足りないが、その分ひとつの場面が執拗に描かれる。レズビアンの恋人を助けに来た女性モデル(バルバラ・レイ)が殺されるシーンがそれだ。

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 襲い来る死者たちは逃げようと思えば逃げられるほどスローだが、被害者は恐怖のあまり這うようにしか動けない。このシリーズにおいて緩慢さはスリルと同義語であり、オッソリオは「それこそ人間のリアリティである」とでも言いたげだ。鋭い骨の指先に捕えられた哀れなブロンド美女は、ゆっくりと引きずられ、ゆっくりと解体され、ゆっくりと貪り喰われる。ロメロ・ゾンビに勝るとも劣らないえげつなさで、スキモノの心を捕える名場面だ。スローなムード演出の果てに歯止めの利かない残虐描写が待ち受けているのがオッソリオ演出の真骨頂である。きっと、台の上に縛られた007の股間にレーザー光線が迫ってきても、オッソリオならジェームズ・ボンドが真っ二つになるまでカメラを回すだろう。

 どうもシリーズ中では最も人気のない1本らしいが、個人的には結構好き。何より画が魅力的だ。霧深い夜の海、朽ちた甲板の上を髑髏騎士団が歩み寄ってくるビジュアルは、ジョン・カーペンターの秀作『ザ・フォッグ』(1979)にそのまま受け継がれている。たとえクライマックスで業火に呑み込まれる幽霊船のミニチュアがあまりにチャチくても、その後に待ち受ける鬼のようなエンディングが溜飲を下げさせてくれる。こちらも最高のビジュアルだ。

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『プラダを着た悪魔』(2006)

『プラダを着た悪魔』
原題:The Devil Wears Prada(2006)

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 KT・タンストールのヒットチューン「Suddenly I See」が流れる中、デキる女とデキない女(主人公)の出勤風景をカットバックで対比していくオープニングが、まず見事。歌詞の意味は「突然気が付いたの/私がなりたい姿ってコレなんだ、って」。タンストールはパティ・スミスのファンで、彼女のポスターを見ながらこの曲を思い付いたのだとか。その後のストーリー展開も意味深に示唆する、秀逸な選曲です。

 監督は人気テレビドラマ『SEX AND THE CITY』のエピソード演出などを手掛けていたデイヴィッド・フランケル。負けず嫌いの魅力的なヒロイン、アンドレアのパワフルな活躍をきびきびと快調に描いていきます。ハイテンポな語り口はテレビっぽくもあるんでしょうが、筋運びのうまさには単純に舌を巻きます。

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 大きな目と口がマンガみたいに可愛いアン・ハサウェイが、今回ついに大人の女優としての代表作に巡りあったのもファンとしては嬉しいかぎり。彼女の愛らしさとコミカルな味なくして、映画版『プラダを着た悪魔』はここまで観客の愛を勝ち取る作品にはならなかったでしょう。スタイルもいいのでファッショナブルな格好をしても断然サマになります。意外と大きな胸はウィークポイントになるのかな、と思ったけど、さほど気になりませんでした。まあ、冒頭で見せるダサめの着こなしでも十分キュートだと思ってしまいましたが。仕事が過酷になるにつれて目の下にうっすらと浮かぶ隈がリアル。

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 メリル・ストリープは文句なしのハマり役(グレン・クローズならギャグになっちゃうけど)。鉄の心臓を持った女の迫力を、抑えた演技で見事に体現していました。忘れてならないのが、アシスタント役をコミカルに熱演するエミリー・ブラント。こういう「イヤミだけど憎めない、ちょっと悪い子なキャラクター」というのは貴重です。

▼本作最大の収穫? エミリー・ブラント
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 サポーティングロールに徹した男性陣の配役も見どころ。優秀なファッション・ディレクターに扮したスタンリー・トゥッチは、主人公をさりげなく導いていく儲け役。相変わらずうまい、そして相変わらず『セサミストリート』のカウント伯爵っぽい。アンドレアと惹かれ合うエッセイストを演じた色男は、ジョージ・A・ロメロ監督の『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005)で主演を務めたサイモン・ベイカー。パンフレットのプロフィールには「ラ」の字も「デ」の字もなかったですが(笑)。

 自分も一応、編集の仕事に携わっているので、そういう意味でも楽しめました。他人事とは思えない部分……ある特定のジャンルへの理解とリスペクトなしにはやっていけない仕事だし、最初から自分の得意分野だったわけでもなく、ふと油断すると「苦手意識」が頭をもたげてしまいがち……とか言ってるうちは話にならないほど甘いんでしょう。この映画がファッション誌業界の実態を赤裸々に暴露しながら、痛烈な批判には欠けているのも、そうした「仕事」への相対しかたを至極マジメに描いた作品だからです。

 雑誌というのは編集者・ライター・カメラマン・デザイナー・印刷屋さんなど、様々なスタッフが集まって作られるもので、ハリウッド映画もまたそれぞれの職人たちの技能を結集して作られます。映画版『プラダを着た悪魔』は、まさにそんなプロの仕事のアンサンブルが活きた秀作。雑誌でも映画でも、各スタッフの力が最大限にまで発揮されることは少ないけど、稀にそうした仕事に出会えたときは、参加する方も観る方も嬉しいものです。

 でも、さすがに「ハリー・ポッター」最新作の原稿を出版前に入手して、さらに製本まで……というくだりは無理があると思いました(笑)。

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『A Dirty Shame』(2004)

『A Dirty Shame』(2004)

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 最高。円熟期に入って久しいジョン・ウォーターズ監督作品だからハズレはないと思っていたが、予想以上の傑作だった!

※以下文中、下品な表現がありますのでご注意ください。

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M・ホッジス作品のサウンドトラック

 久々にマイク・ホッジス関連の話題を書きます。本サイト「deadsimple」では書きそびれていたサウンドトラックについて。現在、Amazon.co.jpで購入できるのは次の3枚。

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『狙撃者』by ロイ・バッド
サウンドトラック(UK盤)

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『フラッシュ・ゴードン』by クイーン
サウンドトラック(日本盤)

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『オーメン2/ダミアン』by ジェリー・ゴールドスミスI
サウンドトラック(US盤)

 言わずと知れた名盤揃い。『狙撃者』(1971)はタイトルテーマ曲も最高ですが、映画の内容に沿って作られた歌モノのクオリティも素晴らしい! 劇中ではラジオやレコードプレイヤーから流れる効果音的な使い方を守ってますが、歌詞の内容は主人公カーターの行動や心理をシンプルに表していて、芸が細かいです。

 逆に『フラッシュ・ゴードン』(1980)のサントラは、誰もが耳にしたことがあるキョーレツラッパのツーレツな主題歌の他、同様に気合の入ったスコアにも才気を感じとれる作品。濃いクイーン・ファンなら必携の一枚です。

 ホッジス自身がポスプロにまったく参加していない『オーメン2/ダミアン』(1978)を入れるのは反則という気もしますが、なにぶん数が少ないもので……。文句なしの傑作ですし。

▼『ブラザー・ハート』サウンドトラック
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 サイモン・フィッシャー・ターナーが手掛けた『ブラザー・ハート』(2003)のサウンドトラックは、WEB上からのダウンロードという形式のみで限定リリースされた模様。
http://www.mute.com/releases/viewRelease.jsp?id=36071

▼ビル・コンティ『死にゆく者への祈り』サントラ盤(ブートレグ)
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 ジャック・ヒギンズ原作の『死にゆく者への祈り』(1987)は、納品後にプロデューサーが勝手に再編集を施し、当初つけられていたジョン・スコットの音楽も全てビル・コンティ作曲のスコアに差し換えたという経緯があります。公開版の音楽はいかにも哀切なアイリッシュロマンという感じで、良くも悪くもベタですが、個人的には好きな作品。こちらは海賊盤のみでリリースされています。

▼『死にゆく者への祈り』オリジナル版スコアを収録した『ウィンター・ピープル』サウンドトラックCD
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 一方、削除されてしまったジョン・スコット版『死にゆく者への祈り』のスコアは、同じくスコットが手掛けた映画『ウィンター・ピープル』(1989)のサウンドトラックCDになぜか収録されています。オクラ入りになったバージョンの方が正規リリースされているというのもヘンな話ですが……。現在は両方とも廃盤で、入手は困難。

 『電子頭脳人間』(1974)は全編、グレン・グールド演奏のJ・S・バッハ「ゴールドベルク変奏曲25番」が流れているだけなので、こちらをどうぞ。
「バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1955年モノラル録音)」
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 ザ・ビートルズのプロデューサーとして知られるジョージ・マーティンが作曲した『PULP』(1972)がCD化されていないのは、本当にもったいない話。商品価値もあると思うし、スコア自体もかなりキャッチーな出来なので、なんとかならんかなあと思います。公開当時、「Theme from "PULP"」「Love Theme from "PULP"」の2曲を収録したレコードは発売されたらしいですが。マイケル・ケイン扮する娯楽小説作家によるモノローグも凄く面白いので、『狙撃者』のサントラみたいに劇中の台詞も入れてくれたら最高です。欲しいなぁ……。

 それ以外の作品は残念ながら未音源化。ホッジスは音楽においても徹底してシンプリシティを求める監督ですから、後期の作品になればなるほど、サントラ盤のみで売るのは難しいのかも。実際かたちになったら名盤になると思うんですが……ジョン・スコット作曲の『ブラック・レインボウ』(1989)と、サイモン・フィッシャー・ターナー作曲の『ルール・オブ・デス/カジノの死角』(1998)辺りは特に、スコアだけじっくり聴き込んでみたい逸品。あと『モロン』(1985)の主題歌とかも結構好きなんですよね……。

『The Body Beneath』(1970)

『The Body Beneath』(1970)

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 N.Y.アンダーグラウンド・スプラッタ映画の巨星、アンディ・ミリガン監督作品。現代に生きる吸血鬼を主人公に、ミリガン好みの「血族」というモチーフを絡めたモダンホラーだ。トラッシュマウンテン・ビデオから発売された『アンディ・ミリガンのガストリーワンズ』(1969)のDVDに予告編が収録されていて、面白そうだったので輸入盤で観てみた。

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〈おはなし〉
 フォード神父(ギャヴィン・リード)の正体は、何世紀も生き永らえてきた吸血鬼である。彼は近々開かれる一族の会合に備え、配下の傴僂男や不死者の娘たちを使い、フォードの名を受け継ぐ3人の女を誘拐。その目的は血液の備蓄、晩餐会のメインディッシュ、そして子孫を宿らせる子宮を得るためだ。邪魔者は容赦なく殺す!

 吸血鬼に囚われた恋人スーザン(ジャッキー・スカーヴェリス)を救い出そうと、ポール青年(リッチモンド・ロス)は屋敷に潜入。だが、彼女ともども密室に閉じ込められてしまう。やがて夜が訪れ、吸血鬼たちの宴が始まった……。

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 ロケ地はイギリス。えげつない描写は控え目で、ゴシック的なムードを強調したかったらしく、殺人シーンも省略気味。「もう用済みだから殺っといて」みたいなことを口頭で指示するだけのパターンが多いので、スプラッタ好きの人は拍子抜けするかも。血族というテーマも有効利用しないまま、気が変わったように全員殺してしまうデタラメぶりには唖然とする(でもちゃんとオチはある)。

 しかし、顔を緑色に塗ったアンデッド3人娘や、おなじみ傴僂男など、本作にはキャッチーなキャラクターが豊富に登場。特に3人娘のキャラがよくて、そのまま立っていれば凄く不気味なんだけど、犠牲者を捕える場面でやたら大仰にクロロフォルムの大瓶を持って迫ったりする間抜けさが可愛い(その前の場面では催眠術も使ってたはずだけど……)。嫌ったらしい聖職者をカリカチュアしたような吸血神父のキャラといい、全体に漂うコミカルな雰囲気は捨てがたい。

 前半はちょっと眠いが、中盤でブルータルなショックシーンが畳み掛けられると、「あーこれよこれ」となる。インパクトの瞬間、カメラまで暴力的にぶん回すセンスは何度観ても凄い。神父の横で無愛想な妻が黙々と編み物をしているので、一体何かと思えば、編み棒でメイドの両目をズブリ!というシーンの伏線だったりする。この辺の“工夫”はちょっと常人に真似できない。

 稚拙な映像の作りと、舞台出身の俳優たちによる妙にしっかりした芝居のギャップもまた、ミリガン作品ならでは。主人公の吸血神父がよく喋る普通のおっさんなので迫力も何もないが、演じるギャヴィン・リードは鬱陶しい長台詞もしっかりこなし、間を持たせている。

 クライマックスの吸血鬼一族が勢揃いする宴の場面では、お手製のドレスを着せたエキストラを大量投入。センスはさておき、とりあえず見た目には華やかで幻想的ムード溢れる画を作っている。生臭く殺伐としたセックス&バイオレンスの“ミリガン味”を求めると地味かもしれないが、わりと楽しめる作品。珍しくドリーで回り込んだりするカメラワークもちょっぴりプロっぽくて、なんとなくピート・ウォーカーの映画を思い出した。

・DVD Fantasium
『The Body Beneath』DVD(US盤)

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『ギャングスター』(2002)

『ギャングスター』
原題:Gangsters(2002)

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〈おはなし〉
 パリ。一人の犯罪者と娼婦が逮捕される。捕まった男フランク(リシャール・アンコニナ)は、先夜に発生したストリップクラブでの銃撃強盗事件の重要証人と目されていた。修羅場と化した現場からは8千万フラン相当のダイヤが消え、その在拠を知るのは恐らくフランクただ一人。

 フランクは潜入捜査官である。運悪くダイヤ強奪に巻き込まれてしまったが、店を出た直後にダイヤを横取りしようとした覆面の武装集団こそ、フランクの追い求める標的だった――裏社会の情報をギャングに流す汚職警官たちである。実行犯は無情に射殺されたが、攻防の末、ダイヤはフランクの手元に残された。

 共に捕まった恋人ニーナ(アンヌ・パリロー)共々、彼らはその正体を明かすことができない。執拗な取り調べを受けながら、フランクは真犯人追及の機会を探るが――。

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 快作『あるいは裏切りという名の犬』(2004)を放ったオリヴィエ・マルシャル監督の長編デビュー作。こちらも警察組織内の腐敗をテーマに、巧妙な語り口で魅せる出色のハードボイルド・サスペンスだ。スケール面では落ちるが、完成度は高い逸品である。

 映画の大部分は警察署内が舞台だが、回想や室外のシーンなどを要所要所に挟み、停滞させずにテンポよく見せきっている。ミステリーを仕掛けていく筋運びも抜群に上手い。捜査する側の刑事たちが逆に取り調べ相手から捜査される、というトリッキーな構図も、殊更に強調せずにさりげなく浮かび上がらせていく。タイトで節度ある演出が快い。

 構造的にはトリッキーだったり、映画的なこだわりも強いが、それ以上に登場人物のキャラクター描写に力が入れられているから、濃密なドラマとしてもバランスが成立している。それぞれにキャラの立った刑事たちの荒んだ面構えがまた素晴らしい。ほとんどチンピラと見分けのつかない若手から、ヤクザのボスにも見える渋いベテランまで、顔の揃え方が天才的だ。『あるいは裏切りという名の犬』でティティを演じたフランシス・ルノーも、粗暴な刑事をそれらしく演じている。

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 主演のリシャール・アンコニナは、『シックス・パック』(2000)でもベテラン刑事を演じていたが、個人的には80年代ネオノワールの佳作『チャオ・パンタン』(1983)のイメージが強い。本作ではどこにも寄る辺のない複雑なキャラクターを好演。ヒロインのアンヌ・パリローも、過酷な生き様を自らに課した女を寡黙に力強く演じ、男くさい映画の中で凛とした存在感を放っている。同じ取り調べ室でも『ニキータ』(1990)の不良娘ぶりとは大違いだ。

 『あるいは裏切りという名の犬』を観た人なら嬉しくなるような台詞……「ヴリンクスの事件を覚えてるか?」……も、序盤に出てくるので、お見逃しなく。

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『硫黄島からの手紙』(2006)

『硫黄島からの手紙』
原題:Letters from Iwo Jima(2006)

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 クリント・イーストウッド監督による“硫黄島2部作”の日本編。米軍に予想外の苦戦を強いた、日本軍のゲリラ的戦略と熾烈な攻防をリアルに再現した作品なのかと思っていたら、役者の芝居を見せる淡々とした映画だった。戦闘シーンはごく僅かに抑えられ、摺鉢山の陥落も劇的なものではない。ロバート・アルドリッチ監督の『燃える戦場』(1970)のように、好敵手として日本軍を描くことは、この映画の眼目ではなかった。確かにアメリカの観客は次々と父親たちを撃ち倒していく日本人の活躍を見たいと思わないだろう。日本人のイメージを逆に害することになるのを避けた、という気遣いにも思える(あとで『父親たちの星条旗』を観て「こっちでスプラッタ描写はやりきってるからか」とも思ったが)。

 アクション的な見どころには乏しいが、軍人や一兵卒の心境を丹念に描いた映画としては、近頃の邦画の何倍も見応えがある。欧米の観客には顔の判別もつかないような日本兵たちの人生を、イーストウッドがこれほどまで真摯にじっくりと眼差しを向けていることに、素直に感動してしまう。

 その視線に応える役者たちの中では、落ちこぼれ兵士を演じた二宮和也が断トツでいい。『鉄コン筋クリート』のクロ役を見ても思ったが、ものすごくうまい。ふてぶてしさすら感じるほどの自然体で映画の中に存在し、キーの高い声にはユーモラスな味もある(妻帯者のパン職人にしては幼く見えすぎな気もするが)。その軽妙さや今風の滑舌は、考証的な正否を求める人には受け入れ難いかもしれない。しかし個人的には、まさかクリント・イーストウッドの映画で、日本人のこんな芝居が見られるとは! という驚きがあった。多分とんでもないクソ度胸の持ち主なんだろう。

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 最も驚嘆すべきは、この映画が日本人のメンタリティを多くの部分で的確に描き出している点だ。過去のどんなアメリカ映画よりも理解の仕方が深く、不自然さを排除している(そもそも不明瞭な台詞がほとんどないのが凄い)。脚本を手掛けたアイリス・ヤマシタの功績も大きいだろう。中には憲兵と特高警察がゴッチャになってたりするチョンボもあるにはあるが、それでもこのレベルの高さはただ事ではない。はたして何人のアメリカ人が、アジア人しか出てこない全編字幕の戦争ドラマを観るというのか? というところから考えても、企画が成立したこと自体が驚きだ。

 本作を「今年の邦画ベスト1」と評する人も多いが、それも失礼な話だろう。プロダクションのスケールの違いもさることながら、カメラワークや編集の発想が根本から違う。やはり日本映画では有り得ない作品になっている。

 構成は『父親たちの星条旗』に比べてずっと分かりやすくされている。各登場人物のフラッシュバックも多く出てくるが、『父親たちの星条旗』の幻惑的なそれとは異なり、ストレートな回想シーン以上のものではない。そのシンプリシティが美しい。イーストウッドらしい私情を挟まない冷静さは、センチメンタリズムの抑制というかたちでうまく働いている。

 『硫黄島からの手紙』は、イーストウッドが日本に宛てて送る最後の手紙だ。《戦場という極限状況においても、人間性は生じうる。今度の映画ではそれを描きたかった》と監督が語っているのをテレビで見たことがある。本作は弧高のアメリカ人の目から“敵兵”と呼ばれた人々の人間性を穏やかに理解しようとした好編だ。映画としての面白さは『父親たちの星条旗』に譲るが、まずは必見の秀作と言える。

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『父親たちの星条旗』(2006)

『父親たちの星条旗』
原題:Flags of Our Fathers(2006)

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 クリント・イーストウッド監督による“硫黄島2部作”のアメリカ編。公開順とは逆に、日本軍側のドラマを描いた『硫黄島からの手紙』を先に観ていたせいか、こちらの方が遥かに映画として充実して見えた。戦争映画には不可欠な派手な戦闘シーンと、盛大に血肉が散らばる残酷描写がふんだんにありつつ、有名な摺鉢山頂上の写真をめぐる知られざる真実が、謎解き仕立てで淡々と綴られていく。幾つもの時制を行き来するストーリー構成で観客の興味を巧みに引っ張りながら、テクニカルなあざとさは感じさせない。少し不親切なくらいの語り口が、かえって画面への集中力を静かに高めていく。

 図らずもキャンペーンに利用される若い兵士たちの戸惑いや苦悩を切々と映し出すイーストウッドの演出は、声高でない哀しみと優しさを湛え、彼らへの共感を真摯に素朴に試みている(ただし、同情はまったくしない)。なぜ兵士たちが過酷な戦場で戦い抜くことができたか、ラストで穏やかに語られる結論は、イーストウッドらしく「大義」からは掛け離れた、等身大の真情だ。同じ戦争映画でも、日本人のメンタリティを考えるとこうはいかない。

 物語の中心を担う3人の兵士たちの“誰でもある”無名性は、この映画の肝だ。彼らの個性が際立たない分、観客は身を乗り出して兵士たちの行く末を見届けようとする。演じる俳優たちは、その実、いずれも無名ではない。ライアン・フィリップといえば『ゴスフォード・パーク』『誘拐犯』(共に2000)などの話題作にいくつも出ている若手スターだし、アダム・ビーチは戦争大作『ウィンドトーカーズ』(2002)に実質主演している。子役出身のジェシー・ブラッドフォードは、『チアーズ!』(2000)のボーイフレンド役や『ハッピー・エンディング』(2005)の破綻した映画青年役で強烈な印象を残した。そんな彼らが本作で演じているのは、一見して人となりが分かるような若者たちだ。要するに「ぴったりのハマリ役」を最小限の芝居で演じている。勘のいい役者にとっては、キャスティングされた時点で演技指導が終わっているようなものだ。演出やカメラワークも、過度な演技を要求しない。ジェイミー・ベルやバリー・ペッパー、メラニー・リンスキーにいたるまで、本作の出演者全員に同じことが言える。

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 全アメリカ国民の士気を高揚させた一枚のシンボリックな写真を、「戦争の残虐性を正当化するために必要なもの」だったとさらりと語る率直さには、やはりアメリカを客観的に見続けてきたイーストウッド独自の視点を感じる。マカロニ西部劇のスターとしてヨーロッパでは名声を得ながら、アメリカではしばらく映画が公開されず、故国を遠くに見ていた時期があったことも影響していると思う。イーストウッドは常に冷徹さを欠かさずアメリカを見つめてきた。『父親たちの星条旗』は、イーストウッドだからこそできた率直な戦争回顧となっている。

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『あるいは裏切りという名の犬』(2004)

『あるいは裏切りという名の犬』
原題:36 Quai des Orfeveres(2004)

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 邦題成立の過程を想像して読み解けば、正しくは『オルフェーブル河岸36番地、あるいは裏切りという名の犬』と呼ぶべきだろう。パリ警視庁の所在地を指す原題から数字を取り除けば“Quai des Orfeveres”、つまりアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の名作『犯罪河岸』(1947)のタイトルとなる。警察組織を描いた映画であると共に、ノワールの伝統を踏まえた作品であることが自動的に連想できる仕掛けだ。

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 実際、映画は「傑作」と呼ぶほかない完成度だが、異色なのはそれがフランス映画らしからぬ硬派なエンターテインメントとして完成している点である。緻密なストーリー構成、語り口の淀みなさ、的確なモンタージュで魅せる堂々たる映像演出は、良質の香港ノワールやハリウッド製の犯罪サスペンスを思わせる堅実さだ。目の前にあるのは、寒々しいパリの路上に立ち尽くすコートの中年男たち、という最高のノワール・ヴィジョンなのだが。その間口の広さで、ノワールという限定的な映画ジャンルの範疇はおろか、フランス映画の固定イメージをも超えている。

 とにかく巧い。巧すぎる。オリヴィエ・マルシャルという監督、一体どんなキャリアを持った人なのかと思ったら、元警察官なのだという。やはり映画は職業映画人の手から取り上げた方がいいのではないか(特にフランスは)、という軽い落ち込みすら誘う演出力だ。俳優としても味がある(本作では元犯罪者の哀愁を漂わせる年老いたヒモの役で登場)。ずるい。

▼監督のオリヴィエ・マルシャル
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 もちろんダイレクトに観客の目を奪うのは、善悪の彼岸で対峙する男たちである。ダニエル・オートゥイユに、ジェラール・ドパルデュー。どこを映しても絵になる2人だ。特に、権力を熱望するあまり人の道から外れていく警視ドパルデューの孤独な佗まいが素晴らしい。寡黙にして悪辣な男を、迫力を漂わせながら静かに演じ、単なる憎まれ役以上の破滅的な魅力を湛えている。ウィスキーを一瓶飲み干し、銃を片手に巨体を揺らしながら歩いていく姿は圧巻だ。一方、オートゥイユもやはり抑制の利いた、繊細に計算された演技で魅せる。『ヒート』(1995)あるいは『トカレフ』(1994)を想起させる彼らの対決を見るだけで、映画を観る幸福は約束されている。

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 脇を固める役者たちの顔触れも素晴らしい。文字通り、男も女もイイ顔が揃っている。イタリア生まれの美人女優ヴァレリア・ゴリノがヒロインとして第一線に帰ってきたのが個人的に嬉しかった。『ホット・ショット』(1991)から13年!

 演出はフランス映画離れしているが、さすがに美術・衣装・撮影などでは、随所にフランス映画の底力が発揮されている。音楽はハリウッド仕様というか、ひたすら全編に鳴り続けてノワール世界への感情移入を助ける役目を果たす。ややうるさいくらいだが、それが作品の普遍性を高めているのは事実だ。

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2006年に面白かったもの

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2006年に観た新作映画のなかで、とりわけ圧倒されたのは次の6本。

『カーズ』
『デビルズ・リジェクト』
『トゥモロー・ワールド』
『父子』
『鉄コン筋クリート』
『あるいは裏切りという名の犬』

 『カーズ』は本当にコレデモカというくらい泣かされた傑作。失われつつあるアメリカン・スピリットへの愛をストレートに謡った、珠玉の米国映画という感じがしました。『デビルズ・リジェクト』も同様の名作。こちらは苛烈な暴力の衝突をもって反骨と自由を叫ぶニューシネマ。見事に表裏をなす2本だと思います。

 『トゥモロー・ワールド』は、希望の映画である前に、どこまでも為す術のない絶望の映画。非力な一般市民の視点から、戦場を駆け抜ける緊迫感を手加減抜きに描き、そのために駆使された映像技術も鮮烈でした。世界中のほとんどの女性が活力を失った終末感というのも新鮮で、様々な地獄絵図を想像させてくれました。いちばんの不満があるとすればラストで、ジョン・セイルズ監督の『最果ての地』(1999)みたいに終わった方がよかった気がします。そうすれば最後まで、観客に希望を委ねることができたような。

 『鉄コン筋クリート』は、原作に対する作り手の熱狂と愛情が、エンターテインメントとして結実した秀作。絵的な面白さも文句なし。ちゃんと観終わった後に浄化作用があり、シンプルで素直な映画として残りました。蒼井優の演技も素晴らしかったです。

 パトリック・タム監督の復帰作『父子』で何より圧倒的だったのは、様式の徹底。ドラマはドラマティックに撮ってナンボちゃうんけ!という監督の叱咤が聞こえてくるようでした。「ドキュメンタリー・タッチの無作為な演出」とか「自然な演技」とかいった言葉が霧と消え去るパワフルさに満ちた力作。

 『あるいは裏切りという名の犬』は、実は元日に観たんですが、ものすごく面白かったのでここに入れてしまいます。一見すると伝統的なノワール風ながら、フランス映画らしさすら感じさせないほど緻密なストーリー構成と堂々たる演出で見せきる、骨太のエンターテインメント。なんか凄かったです。

 その他、面白かった作品は以下の通り。

『グエムル ―漢江の怪物―』
『叫』
『忘れえぬ想い』
『ブラック・ダリア』
『ミュンヘン』
『ハッスル&フロウ』
『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』
『ハッピー・エンディング』
『プルートで朝食を』
『ディセント』
『硫黄島からの手紙』
『時をかける少女』
『パニック・フライト』
『ヒルズ・ハヴ・アイズ』
『朝の日課(Les Matines)』
『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』
『マスターズ・オブ・ホラー/世界の終り』
『インサイド・マン』
『スキャナー・ダークリー』
『エレクション』
『キス・キス,バン・バン』
『ホステル』
『レディ・イン・ザ・ウォーター』
『イカとクジラ』

 とりあえずこんなところで。06年公開の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』『夜よ、こんにちは』『西瓜』『柔道龍虎榜』『マクダル パイナップルパン王子』も傑作でしたが、観たのは前年なので外しました。上半期はマイク・ホッジス研究にかまけていた上、サイトを作るのに没頭していたので、ほとんど映画を観てません。新作以外では、金沢二十一世紀美術館の鈴木則文監督特集で『ドカベン』を観たことが印象深いです。また行きたいなぁ、金沢。

 映画ではないですが、平山夢明さんの短編小説集『独白するユニバーサル横メルカトル』があまりに素晴らしく、酔わされました。豊かなボキャブラリーで繰られる文体が何しろ魅力的。切れ味鋭い凄絶な残酷描写には読者の脳髄をキックする快楽があり、モラル的にもひたすら正しく、タガの外れたユーモアで存分に愉しませてくれる、最高に甘美で楽しい一冊でした。滝本誠さんのノワール映画評論『渋く、薄汚れ』も大好きな本。2007年はもっと読書したいです。

 では、今年もよろしくお願いします。

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