Simply Dead

映画の感想文。

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『トゥモロー・ワールド』(2006)

『トゥモロー・ワールド』
原題:Children of Men(2006)

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 映画にできることって何だろう。端的に言うと、“現実にないシチュエーションを視覚化し、それを通して、社会の諸問題や世界に内在する真実をメタフォリカルに描く”ことだ。しかし、その目標を極限まで達成する作品は稀である。

 それにしても、ここ最近の実録戦記映画の濫造ぶりはどうしたことだろう? イマジネーションこそ映画の最大の武器であったはずが、いつしか“架空の設定”は真実を語る術とみなされなくなってしまった。史実に即さなくとも、過去には『まぼろしの市街戦』や『アンダーグラウンド』など、優れたアイディアの傑作はあったのに(つい最近『トンマッコルへようこそ』という発想だけは秀逸な作品があったが、演出センスが凡庸なおかげでひどく損をしていた)。

 戦場を、人類の不和を、未来への絶望を、つまり現実を描こうとしたとき、アルフォンソ・キュアロン監督は架空の世界を選んだ。そこでなら「奇跡」が起こせるからだ。そして同時に並々ならぬ努力で、その世界を「現実」として構築した。戦う術を持たない市民の視点から、いつ頭を撃ち抜かれて死ぬかもしれない戦場を、凄まじい緊張感をもって描きだした。ハンドヘルド・カメラによる映像は、圧巻の一言に尽きる。それが単なるヴィジュアル・サーカスに堕していないのは、そのテクニックが「銃を突きつけられ殺される恐怖」「戦場を逃げまどう恐怖」を描くために駆使されているからだ。技術など二の次でしかない。

 これが映画の仕事だと思う。

 また、舞台がイギリスというのも巧い。世界が破滅に瀕していても「大英帝国は不滅なり!」とか言い張っている高慢さは本作最大のギャグだ。これがそのままアメリカだと、スタジオから「洒落にならない」とストップをかけられてしまうだろうが。

 主演のクライヴ・オーウェンがいい。この人でなければ出せない諦観、ナイーヴな弱さがあってこそ、本作のドラマはリアルな実感を持ち得た。あそこまでいろいろあったにも関わらず、最後に「何て日だ(What a day.)」の一言で済ませてしまう、シニカルだが人間味のある態度を、これほど絶妙に表現できる役者はそういない。

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 個人的には、マイク・ホッジス監督作品の2大スター……『ルール・オブ・デス/カジノの死角』『ブラザー・ハート』のC・オーウェンと、『狙撃者』『PULP』のマイケル・ケインが共演を果たしたという点でも見応えがあった。両者の役柄は、年齢差を越えて親友同士として付き合う、かつてのアウトサイダーたち。まるでホッジス作品のバックステージを見るような錯覚を覚えたりして、感慨深いものがあった。閑話休題。

 今の世界に伝えるべきことを真っ向から伝える。『トゥモロー・ワールド』にはその気概がある。もし映画に使命とか存在意義とかいったものがあるなら、この作品は稀有にもそこに達しているのではないか。

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『幸福』(2006)

『幸福』(2006)

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 東京フィルメックス2006上映作品。最初は観るつもりじゃなかったけど、知り合いがスタッフに参加しているというので観に行った。そしたら意外にも、肩の力を抜いて観られるコメディだったので、結構楽しめた。

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〈おはなし〉
 北海道・勇払。白夜の季節が訪れた頃、見知らぬ男(石橋凌)が町に流れつく。公園で行き倒れていた彼を拾ったのは、やはり町に来たばかりの女(桜井明美)。彼女は男を自分のアパートに連れ込み、無理やり繋ぎ止めようとする。

 女は場末のスナックに勤めているが、客は「心凍らせて」をカラオケで熱唱しにくる常連の男(香川照之)くらい。やる気のないマスター(村上淳)は気にもしない。

 男には、この町に来た目的があった。女には、この町に逃げてきた理由があった。奇妙で穏やかな時間が流れていくが、町にはやがて、再び夜が訪れる……。

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 登場人物の妙な歩き方や、言葉の繰り返しや微妙なイントネーションを重視した台詞、香川照之のヘタクソなカラオケなど、細かなクスグリがいっぱいあって飽きない。何よりシンプルなのがいい。小林政広監督の映画はいつも何か余計なことが起きて無用の腹立ちを抱えることになる、というイメージを勝手に持っていたのだけど、今回はまったくと言っていいほどそれがなかった。オーソドックスで当たり前な音楽付けはちょっとつまらない気がしたけど、それが映画を観やすくしているのは事実。

 閑散としたロケーション、安っぽいスナックやアパートの一室など、ストイックな画作りもどこかユーモラスな効果を生んでいる。白夜の町という舞台設定も面白い。もちろんノルウェーの傑作『不眠症』(1997)のごとく「昼ばかり」というシュールなヴィジュアルが登場人物たちの不安定な精神状態をそのまま表してもいる。加えて、何時になってもドアを開ければ太陽の光が入ってくるスナック、というムードもヘッタクレもない状況もかなり可笑しい。それこそブレッソンの『白夜』(1971)並みに、緊迫感と背中合わせのトボケたユーモアを醸し出している、と言ったら言い過ぎか。

 今のところ配給も何も決まってないらしいが、かなり一般向けの開かれた映画だと思うので、埋もれさせておくには惜しい。

追記:2008年9月、劇場公開。

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『天使の影』(1976)

『天使の影』
原題:Schatten der Engel(1976)

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 東京フィルメックス2006上映作品。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの戯曲を映像化した、ダニエル・シュミット監督の長編第3作。両者の強烈な作風が水と油とはならず、互いに刺激し合うかたちで融合した傑作である。

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〈おはなし〉
 娼婦リリー(イングリット・カーフェン)はその日も寒空の下、街頭に立っていた。ひとりも捕まらずに部屋へ戻れば、粗暴なヒモのラウール(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー)に尻を蹴飛ばされ、再び路地へと舞い戻る。そこに現れたユダヤ人の大物ギャング(クラウス・レーヴィッチュ)に目を付けられたリリーは、彼に囲われることに……。

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 ファスビンダーは自ら共同脚本・台詞を手がけ、嫉妬深いヒモ役で出演もしている。饒舌に畳み掛けられる演劇的な台詞が、映画内に流れる時間を加速させ、およそシュミット作品らしからぬ展開を見ることができる。しかし、フィルムの質感、場面の空気感は紛れもなくシュミットのものだ。作品中の時間感覚を徹底的にコントロールするシュミットにとって、この映画はかなりの異色作と言えるが、代わりにあるのがファスビンダーのパワーである。

 とにかく台詞のボリュームが凄まじい。映画的な推敲は省かれ、ケレンに満ちた戯曲の台詞がそのまま活かされている。メロドラマでありつつ、型通りの悲劇のカタルシスなどは排除され、手を汚した者は裁かれもしない。ひたすら念入りに絶望を提示するラストは、いかにもファスビンダーらしい。そんな強靱な負のパワーに満ちたドラマが、シュミットの重く毒気を帯びた演出によって、さらに過剰さを増していく様は、圧巻の一言に尽きる。

 この作品でもやはり、闇が素晴らしい。撮影監督レナート・ベルタとシュミットが創り出す濃厚な闇と色彩には中毒性がある。「暗いとディテールが潰れて……」などと甘っちょろい事をほざく映像派気取りはシュミットの映画を観てから死んでくれと言いたくなるぐらい、闇への信服が徹底しているのだ。透徹とか純粋とかいった種類ではない、オペラティックな闇。これはやはりテレビのモニター等では解像しえないレベルの仕事で、今回フィルムで観ることができて本当に良かったと思う。

▼主演のイングリット・カーフェン(中央)
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 薄幸の娼婦を演じるイングリット・カーフェンはまさに「妖しの美」で観る者を圧倒する。後半、死へと近づくほどに、彼女の表情は虚ろな安息を得て、さらに淫靡な魅力を増していく。登場人物のほぼ全員にそういった妖気や退廃が漂っているのだが、特にインパクトが強いのはギャングの子分“グノーム(小鬼)”役のジャン=クロード・ドレフュス。最近ではジャン=ピエール・ジュネ作品の常連俳優としておなじみだが、本作ではホモセクシュアルな匂いを漂わせるスキンヘッドの大男をいやらしく演じており、外見的には悪魔の使いにしか見えない。

▼ジャン=クロード・ドレフュス(左)とクラウス・レーヴィッチュ(右)
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『Sue』(1997)

『Sue』
仏語題:Sue, Perdue Dans Manhattan(1997)

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 『Fiona』(1998)『ファストフード ファストウーマン』(2000)『ブリジット』(2002)と続く、アモス・コレック監督と女優アンナ・トムソンによるコラボレーションの記念すべき1本目。コレック監督は“Nicole”という企画の準備中、オーディションでトムソンと出会い、その魅力の虜となった。そして彼女を主演に想定して素早く書き上げられたのが、本作『Sue』のシナリオ。この作品には、コレックがトムソンと初めて逢った時に得たインスピレーションが、ダイレクトに反映されている。

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〈おはなし〉
 冬。ニューヨークで独り暮らしをしている女性スー(アンナ・トムソン)は、現在求職中。このままでは家賃が払えず、アパートの部屋も追い出されてしまう。たまたま知り合ったローラ(ターニー・ウェルチ)という女をルームメイトに招いてみるが、強盗はするわ見知らぬ男は連れ込むわ、共同生活はすぐに破綻。親切なバーテン(トレイシー・エリス・ロス)に助けを申し出られても、他人の優しさに慣れないスーは、それを断ってしまう。孤独と街の冷たさが、彼女の心身を蝕んでいく。

 そんな時、以前ダイナーで知り合ったベン(マシュー・パワーズ)と再会したスーは、彼と恋仲に。仕事も決まり、多少の波風はあっても、物事がうまく行き始めたかのように思えた。しかし……。

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 どうしようもなくアンバランスで、様々なアンビバレンツを抱えた“スー”というキャラクターを、アンナ・トムソンは唯一無二の存在感で演じる。聖母にも娼婦にも見え、慈しみと深い絶望を湛えた女性。愛すること、癒すことは彼女にとって救いだが、外からの愛には応えられない。それは監督から見たトムソン自身の印象でもある。

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 都会に暮らす女性の孤独を見つめた映画ではあるが、コレック作品独特の人をくったユーモアが全編に漂い、陰鬱に感じさせない。公園で会った見知らぬ初老の男に「胸を見せてほしい」と乞われたスーが、飲み物を買ってきてくれたお礼に豊かなバストを見せてあげたり(これは監督が実際に目撃した光景だそうだ)、変人とも思えるヒロインの行動が、突飛なおかしさを誘う。それは主演女優トムソン自身の「この人だったらやりそうな気がする」という持ち味によるところも大きい。彼女の浮き世離れしたキャラクターが作品にオフビートな色合いを与え、ラストシーンの悲しみも独特なものにしている。

▼ドイツ盤DVDのジャケット
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 アンナ・トムソン(現在はアンナ・レヴィン名義で活動)はとにかく不思議な女優だ。波乱の人生を歩んできたことを否定もしないし、またそれが佇まいとしてそのまま出てしまう。そんな愁いも含めた複雑な内面が、儚い美しさとして放たれているのが不思議。やたらスリムで手足が長くて胸だけが大きな体型も、美しくてヘン。コレック作品以外で印象的だったのは、クリント・イーストウッド監督の『許されざる者』(1992)で演じた顔を切られる娼婦、そして『トゥルー・ロマンス』(1994)の冒頭に登場するこれまた娼婦。『バッド・ボーイズ』(1995)も映画の内容はからっきしだが、彼女が出ていたことだけは覚えている。美人ではないがどこか印象に残る人で、気にはなっていた。その頃と現在とでは、印象どころか顔の形がまったく違う。最近ではC・S・リー監督の5時間を超す大作『American Widow』(2007年完成予定)に出演しているとか。

▼『トゥルー・ロマンス』のA・トムソン
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 主人公スーの前に現れる偶然の登場人物たちにも、個性的な顔ぶれが揃っている。チンピラ気質の女ローラを怪演しているのは、ラクウェル・ウェルチの娘ターニー・ウェルチ。その恋人役として、『ディナーラッシュ』(2000)で注目される前のエドアルド・バレリーニが出演している。スーと恋仲になるベンを好演するマシュー・パワーズは、続く『Fiona』と『ブリジット』にも出演。親切なバーテンのリンダを演じたトレイシー・エリス・ロスは、ダイアナ・ロスの娘。『マペット・ムービー』(1979)などで印象深い名脇役オースティン・ペンドルトンの妙演も見どころだ。まったくの低予算自主映画だったため、共演者のほとんどはトムソンの伝手で集められ、ほぼノーギャラだったとか。

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 イスラエル出身のコレック監督はもともと作家で、映画学校で学んだことも助監督経験もない。だからカットつなぎがいつも微妙に不自然なのだが、独特のリズムとリアリティがあり、それが作風になっている。『Sue』では特に予算とスケジュールの関係上、手早く撮ることがテーマだったため、ほとんど即興で1テイクOKを目標に撮り進められたという。なんでも『ウーマン・イン・ニューヨーク』(1986)という映画の撮影中、主演のハンナ・シグラから「ファスビンダーはそんなにテイクを重ねなかったわ」と言われたのが大きかったらしい。

 この作品がトロント映画祭で高く評価され、ベルリン国際映画祭で受賞したため、トムソンもコレックも人生が一変したという。特にヨーロッパでは人気があり、フランスやドイツではDVDボックスも発売されている(しかしアメリカでは『Sue』も『ブリジット』もDVD化されていない)。とても面白い映画だと思うので、日本未公開はもったいない。一時期、配給会社のラインナップには入っていたのだけど……。

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『ドゥー・ユー・ライク・ヒッチコック?』(2005)

『ドゥー・ユー・ライク・ヒッチコック?』
原題:Ti Piace Hitchcock?
英語題:Do You Like Hitchcock?(2005)

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 ダリオ・アルジェント監督の新作が、12月の発売より一足先にレンタル版でお目見え。また大変なことになってなきゃいいけど、と思いながら見始めたら、そこそこ面白かった。笑っちゃうぐらいの捻りのなさもよかった。

 でもすっごい地味。『デス・サイト』(2004)よりもさらに地味。劇場映画じゃなくてTV向け作品だから尚更なのだけど(クライマックスであからさまにビデオ処理が入ったりする)。しかし個人的には、ひたすら下品に派手に徹して、作風を見失った感のある『マスターズ・オブ・ホラー/愛しのジェニファー』(2005)よりは、ずっと好感が持てた。こっちも話のシンプルさのわりに、女の裸と流血量は多めなのだけど。

 映画全体にまぶしてあるヒッチコックのパロディは別にどうでもよくて、「それほど好きじゃねえんだな」という感じ。むしろ見どころは、ここまで枯れた境地に達してもまだオリジナルな演出を試みようとしている部分。本作で言うなら、足をくじいた主人公エリオ・ジェルマーノが屈強な男に追われ、土砂降りの中を逃げていく場面がちょっと凄い。苦痛に泣き叫びながら、なかなかエンジンのかからないスクーターで雨の中をノロノロと進み、途中ですっ転んだりする。追跡者の方もゼーハー言ってて全然追いつかない。それを延々と映し出すしつこさがアルジェントらしい。ちょっと類を見ないサスペンスだと思った。

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『遥かなる戦場』(1968)

『遥かなる戦場』
原題:The Charge of the Light Brigade(1968)

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 1850年代のクリミア戦争を背景に、貴族階級が支配する英国軍の姿を通して、イギリス上流社会を批判した戦争大作。監督は“ブリティッシュ・ニューシネマ”の雄として世に出たトニー・リチャードソン。軽騎兵連隊がロシア軍と正面からぶつかり合い、壮絶に玉砕した“エクレバの戦い”を、無能な軍上層部がしでかした愚行として描いている。エロール・フリン主演の『進め龍騎兵』(1936)など、数回映画化されたこともある有名な史実だが、リチャードソンは露骨に批判的な視点からリメイクしている。

 支配階級に翻弄されるバカバカしさを、詩情も色彩美もスペクタクルも恋愛ドラマも盛り込んで、全力を懸けて描きのめす。「巨費を投じたゴージャスな上流階級批判」というのがすでにバカバカしさ満点だが、とりあえずそのパワーには感心してしまう。

 軍上層部の辛辣な描写には特に力が入っていて、ほとんどバカの集団扱い。それをトレヴァー・ハワードやジョン・ギールグッドといった錚々たる名優たちが絶妙に演じている。その下で兵士としての誇りをメタメタにされていく主人公を、デイヴィッド・ヘミングスが熱演。東宝戦争大作でいう黒沢年男みたいなポジション。監督夫人のヴァネッサ・レッドグレイヴも出演している。

 映画の途中で、当時の風刺画を模したアニメーションが挟まるのが面白い。英国は勇ましいライオンに、ロシアを鈍重な熊に見立て、戦争賛成に傾く世相や、世界情勢などを分かりやすく見せてくれる。細かい線画がディゾルブ処理(?)か何かでスローに動くのだが、描き込みがあまりに凄すぎて圧倒されてしまう(気のきいた動きの飛躍もなく、ガッチリ描いているので余計に気が遠くなる)。このパートを手がけたのは、『ロジャー・ラビット』(1988)の作画監督や「アニメーターズ・サバイバルキット」の著者として知られるリチャード・ウィリアムズ。

 脚本には、監督と同じくイギリスの“怒れる若者”世代を代表する劇作家で、マイク・ホッジス監督の『狙撃者』(1971)にも出演しているジョン・オズボーンが、ノークレジットで参加しているとか。どうせ風刺的にやるならリチャード・レスターのように洒落た感じがあってもよかった気もするが、ストレートに出来ている分、「なんで作ったのかよく分からない」闇雲なパワーと大作感はよく出ている。

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『The Pyjama Girl Case』(1977)

『The Pyjama Girl Case』
原題:La Ragazza dal pigiama giallo
英語別題:The Girl in the Yellow Pyjama(1977)

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 オーストラリアでも、ブラック・ダリア事件を思わせる猟奇殺人事件が1934年に起きている。オーブリーという州境の町で、半分焼けただれた若い女性の惨死体が発見されたのだ。遺体は激しく損傷していたため身元は分からず、マスコミは彼女の着ていた衣服からそれを「黄色いパジャマの女事件」として大々的に報道した(詳細は後述)。

 本作はその事件をもとに、舞台を70年代のシドニーに移して描いた“ジャッロ”映画=イタリア製の猟奇スリラー。まさしくジャッロ(イタリア語で黄色)をミステリーの中心にあしらってはいるが、ジャンルの中では相当の異色作と言える。監督・脚本はフラヴィオ・モゲリーニ。元は美術監督で、『アッカトーネ』(1961)や『黄金の眼』(1968)などを手がけている。

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〈おはなし〉
 ある日、海岸で発見された若い女の無惨な焼死体。彼女は複数の男に輪姦された上、ピストルで喉を撃ち抜かれ、頭を割られた後、火にかけられていた。身元を証明する手掛りはなく、捜査は難航。警察は彼女の死体をガラスケースに入れて公開し、情報を得ようとするが……。

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 映画は引退した老刑事トンプスン(レイ・ミランド)の地道な捜査劇を描きつつ、平行して、若く奔放な女性グレンダ(ダリラ・ディ・ラッザーロ)をめぐる人間関係を綴っていく。最初は時制的なトリックで惑わせるが、勘がよければすぐ気付く。

 『悪魔のはらわた』(1973)などに出演している美人女優ダリラ・ディ・ラッザーロが、自由にしか生きられないヒロインを魅力的に演じ上げている。彼女のクールな美貌が存分に楽しめる、という意味でも愛好家必見の作品だ(ただし、切ない余韻は覚悟の上で)。

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 「すでに終わってしまった、どうにもならない悲劇を淡々と追い続けている」という諦観が全編に漂い、切なくはあるが、同情的ではない。イタリア映画らしいドギツさもありながら、どこか醒めている。オーストラリアの明るい情景がなおさらそう感じさせるのだろう。題名からポップな印象のジャッロ作品を想像してしまうと、やや取っ付きにくい内容だと思うが、独特のムードがあり、忘れがたい映画ではある。アンニュイな歌声の主題歌も印象的。

 映画の舞台はシドニー。ドラマの背景として、移民の国オーストラリア、放埒なライフスタイルが許されている自由都市シドニーの側面が切り取られている。一方で印象的に映し出されるのは、イタリア移民アントニオの孤独だ(ミケーレ・プラシドが好演)。終盤、それが映画のもうひとつの主題だったことが明らかにされる。

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『ブラック・ダリア』(2006)

『ブラック・ダリア』
原題:Black Dahlia(2006)

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 傑作。映像の質感、語り口の鮮やかさが何しろ素晴らしい。ブライアン・デ・パルマ流のノワール作法にひたすら胸打たれた。『L.A.コンフィデンシャル』(1997)にはついぞ見られなかった“品”が、画面に満ち溢れている。

 デ・パルマによる美しきクラシックへの堂々たる回帰。今、これほど流行りの撮影・編集テクニックに毒されていない映画を探すのは難しいだろう(スピルバーグやスコセッシだって自分の作りだした新技法に酔いっぱなしだ)。これまでは主にサスペンス/スリラーへ傾倒してきた監督が初めて見せたノワールへの愛は、こちらの想像以上に深く、完璧だった。撮影監督ヴィルモス・ジグモンドによる、シックな艶を湛えた映像が絶大な効果を上げている。デジタル処理による色彩調整の賜物だそうだ。「技術は表現のためにある」という言葉の意味がちゃんと分かっている仕事である。

 主人公のボイスオーバーを軸としたスピーディーな筋運びも素晴らしい。特に前半は、まさにエルロイ文体よろしく突進する勢いでキャラクター配置が語られ、一瞬たりともテンションが落ちない。むしろサービス的に“デ・パルマ演出”を披露する中盤のクライマックスで停滞が感じられるほどだ。その語り口の手際よさは、アーロン・エッカート演じる刑事ブライチャードのキャラクターをも物語から振り落としてしまうが、語り部たる若き刑事バッキーを演じるジョシュ・ハートネットの魅力が、それを補って余りある。こいつがこれほど映画スターとして屹立した作品は今まで無かった。ボイスオーバーが巧い役者はそれだけで信頼できる。

▼“ブラック・ダリア”を演じるミア・カーシュナー
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 その他の役者陣の中では、やはりミア・カーシュナー扮するエリザベス・ショートの存在感に尽きる。死体、そしてフィルムというかたちでしか彼女は登場しないわけだが、このスクリーンテストフィルムから発散する香気が(前提として漂う、死の腐臭とも相まって)あまりに壮絶なのだ。最初はいかにも面倒くさそうに、やがて鼻息荒くハリウッドの重役を画面外で演じているのは、監督のデ・パルマ自身であり、ほとんど2人の即興によってこの場面は撮影されたという。据え置きのカメラが監督の欲情をむき出しで伝えるかのようであり、まさに門外不出のプライベート・フィルムの趣。監督×女優の関係をこれほど濃密に煮詰めたデ・パルマ・フィルムが存在しただろうか、と思えるくらいの映像になっているのだ。カーシュナーにとっても、制服ストリッパーを演じたセラピー映画の傑作『エキゾチカ』(1994)と並ぶ代表作になったのではあるまいか。また彼女は、ヒットシリーズ『24 twenty four』でもテロリスト役として登場しており、L.A.破壊(神話と街と)に一役買っている。

▼若い頃のモデル写真がこんなんばっか、というのもエリザベス・ショートっぽい
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 フィオナ・ショウのトチ狂った演技もグレイト。彼女の出演作の中では『ブッチャー・ボーイ』(1998)と並んでいい。k.d.ラングの出演シーンも笑ったが、選曲はもう少し泥臭いものにしてほしかった。

 過去のデ・パルマ作品に比べると見せ場が少ないとか地味といった評価も多いが、仕上がりを観れば遥かに成熟していることは一目瞭然だ。様々に制約のある状況で一点豪華主義的にクライマックスだけに力を注ぐより、映画全体を底上げしたのだと見る方が正しい。言うなれば全編にデ・パルマ監督の成熟した美学が行き届いた作品なのだ。こんな贅沢なことはない。

 ブラック・ダリア嬢の切り裂かれた口許を借りて「もう巨匠と呼んでくれてもいいよ」と微笑んでいるような作品であり、デ・パルマをまだヤンチャ坊主か何かと思っている人々に対するお別れのようにも見える傑作。

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『レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006)

『レディ・イン・ザ・ウォーター』
原題:Lady in the Water(2006)

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 「人にはそれぞれ、語るに足る物語がある」。または、「誰にでも一冊は小説が書ける」。ありふれた決まり文句だ。しかし、現実は違う。

 すでにあなたは“ある物語”に登場し、その役割を終えたかもしれない。あるいは、これから出番がくるのかも……。

 もし自分が“ある物語”の登場人物で、これまでの一生がその“物語”の一部であることに気付いてしまったら? M・ナイト・シャマランが描き続けてきたのは、そうした「汝、物語と共に在り」というおはなしだ。そのことを主人公に気付かせるとき、語り手(シャマラン)の立場も危うくしかねない揺らぎが生じる。そして、シャマラン自身はそれを愉しんでいる。

 そのスタイルをはっきりと打ち出したのは『アンブレイカブル』(2000)だった。警備員のおっさんが実は不死身のヒーローだった、という話である以上に、己の“物語”を知ったことでその幕開けを受け入れざるを得ない男の悲劇を描いていた。自分の「特性」に気付いて新たな人生の使命を得る、というのは『シックス・センス』(1999)のラストも同じだが、より強く“物語”を意識させたのは『アンブレイカブル』の方だった。

 あらかじめ用意された“物語”は、『サイン』(2002)にも『ヴィレッジ』(2004)にも登場する。死に瀕した妻や、村の年配者たちの姿を通し、フィクションの中であるにも関わらず「“物語”を司るもの」(つまり作者のシャマラン自身)の存在を強烈にアピールしてきた。伏線などという生易しいものではない。その危うい綱渡りを愉しむ感覚は、どんどん先鋭化していった。本作『レディ・イン・ザ・ウォーター』では、ついに主人公の前に「ストーリーという名の妖精」が現れるのである。

 この映画は様々な意味で「極まった」作品だと言えるだろう。疑惑を積み上げるサスペンス演出を捨て、有り体な人間描写も省き、“物語”に没入していく人々を、何のてらいもなく見せていく。そしてさらに、「自分は“その物語”の登場人物ではなかった」ことを気付かせるという未踏のドラマ展開にまで挑んでいるのだ。これは結構、残酷な展開だと思う。

 だが、シャマランは優しい。弱者への強靱なシンパシーは今回も健在だ。あらゆる人には役割を。物語にはハッピーエンドを。クライマックスでは、これまでの作品と同様に泣かされてしまった。

 ただ残念なことに『レディ・イン・ザ・ウォーター』は傑作とは言えない。住人たちは割り切りが良すぎて、みんなが“物語”に参加できるチャンスを待っていたことについて、もう少し説得力が欲しかった。彼らが“物語”に没入できる素養をもっとディテール豊かに見せられていたら、とは素直に思う。それに、やっぱり撮影がよくない。どうした、クリストファー・ドイル。

 主人公に昔話を通訳して伝える韓国系ギャル(シンディ・チャン)が強烈な存在感を放っているが、観ている間「ひょっとしてコイツが全ての世界を創り上げているのか?」と思ってしまった(それですらなかった、というのも衝撃だったけど)。

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『ホステル』(2005)

『ホステル』
原題:Hostel(2005)

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 「近年最も過激で強烈なホラー映画」と騒がれているイーライ・ロス監督の問題作が、ついに日本公開。どんな内容なのかといえば、非常にシンプルでタイトな構成のスリラーに仕上がっていて、そこが意外でもあり、ストレートに面白かった。

 定石を少しずつ外していきながら、最後には物語の絶対法則へと誘導する語り口が見事。下世話な期待もしっかり裏切らない。見たまんまの印象だが、アンソニー・ウォラー監督の秀作『ミュート・ウィットネス』(1994)を観た時のいい感じを思い出した。

 話自体は「アメリカ人のボンクラ学生がヨーロッパ旅行に来てハメを外してハメまくるうちに大変ヒドイ目に遭う」という、いくらでも下品に落とせるストーリーだが、さほど浮わついた感じはない。もちろんエロもバカも前半ではたっぷり見られるが、予想外にきっちり撮っていて、適当なモンタージュも廃している。後半、チャラい服装だった主人公がフォーマルな格好にドレスチェンジするのも、分かりやすく映画的な演出でいい。

 前作『キャビン・フィーバー』(2003)の子供っぽい露悪趣味を最低限まで封じ、イーライ・ロス監督は地に足のついた演出を貫いている。そこがいちばんの驚きだった。一方で、パク・チャヌク監督の『復讐者に憐れみを』(2002)や、ジャパニーズホラーからの無邪気な引用(日本でもっとも有名な怪談のビジュアルまで! 演じた女優が呪われていないか心配だ)もある。そのてらいのなさが可愛い。

 この映画のスターはなんといってもヤン・ヴラサークだろう。人当たりのいいオランダ人中年男を好演し、観客を恐怖の奈落へ突き落とす。『セルラー』(2004)でのコメディリリーフぶりが印象深いリック・ホフマンが、またしても怪演を見せているのも嬉しかった。

▼この先キケン(ネタバレの)
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『フェリシティーの告白』(1978)

『フェリシティーの告白』
原題:The Night The Prowler(1978)

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 オーストラリア出身の映画監督といえば、忘れてならないのが『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)のジム・シャーマンである……ということに、最近ハタと気が付いた。ただし、この人は舞台演出家としての活動の延長線上に映画がある、というようなスタンスなので、監督作はそれほど多くはない。この『フェリシティーの告白』は、故郷オーストラリアで1978年に製作された作品。原作はパトリック・ホワイトの戯曲で、ホワイト自身が脚色を担当。日本ではRCAコロンビアからビデオが発売されていた(渋谷のツタヤなどに行けば借りられる)。

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〈おはなし〉
 中流家庭の一人娘として何不自由なく育てられた女の子、フェリシティー(ケリー・ウォーカー)。婚約者との結婚をひと月後に控えたある夜、彼女の悲鳴が町中に響き渡った。自室に忍び込んだ何者かにレイプされたというのだ。狼狽するばかりの両親を尻目に、フェリシティー自身の態度はあっさりとしたもの。

 そんな彼女がこれまでどれほど抑圧され、鬱憤を溜めて生きてきたのか? アッパーミドルクラスの生活を死守しようとする偏狭な母親(ルース・クラックネル)が、我知らず娘にしでかした罪とは?

 そしてついにフェリシティーは自ら頚木を解いた。レザージャケットに身を包み、夜な夜な金持ちの家に忍び込んでは家の中を荒らし回るテロリストと化したのだ。だが、彼女の切実な鬱屈と、抑えきれぬ破壊衝動を理解する者はなく、やがてその行動には歯止めが利かなくなっていく……。

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 作り物じみたサバービアを背景に、とある中流家庭の神経症的な家族関係をコミカルに描いた前半部分は、いかにもオーストラリア映画の典型例といった感じ。舞台劇的な演出もあるが、とても『ロッキー・ホラー・ショー』と同じ監督が撮ったとは思えない(というか当地の人から見れば『ロッキー・?』は「ジムが撮ったとは思えない」映画だったかもしれないが)。閉鎖的な環境で身を持て余す冴えない容姿の女の子が、紆余曲折の果てに自分を見出すというストーリーラインは、後の『ミュリエルの結婚』(1994)や『ラブ・セレナーデ』(1995)といった秀作群にも影響を与えていると思われる。

 しかし、フェリシティーが暴走する後半は、やってることは悪戯程度のものでしかないものの、映像の孕む反抗的姿勢というか尖り方は、かなり痛切に迫るものがある。彷徨の果て、彼女に答えらしきものを与えてくれるのは、廃屋の床で今にも死なんとしているホームレスの老人だった。ここでは、老人の萎えたペニスから垂れ流される小便が、生の証として映し出される。シニカルなホームコメディとして始まりながら、最後には思いがけずドブ板ぎわのクソッタレ真実にまで迫るクライマックスには、シャーマン監督の「本気」を感じる。

 ちなみにフェリシティーの部屋に忍び込む情けない侵入者を演じたのは、ピーター・ウィアー監督の『キラー・カーズ/パリを食べた車』(1974)に主演したテリー・カミレッリ。

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『OSS117 カイロ、スパイの巣窟』(2006)

『OSS117 カイロ、スパイの巣窟』
原題:OSS 117 Le Caire Nid d'Espion(2006)

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 東京国際映画祭2006のコンペティション部門でグランプリを獲得した作品だが、中身は大雑把なフランス製の大衆コメディ。単に審査委員長がフランス人だったからか、それともよほど出品作のレベルが低かったか。まあまあ楽しめる作品だが、期待は禁物。

 50?60年代にフランスで作られたスパイ映画『OSS』シリーズをパロディにしながら、西洋主義の権化みたいな大馬鹿スパイが中東社会を土足で踏みにじるという話(でもフランス人だから反省はしない)。冒頭のゴーモン社のタイトルが昔の白黒バージョンだったので、徹底した作り込みを期待してしまったが、中身はそれほどでもない。

 パロディではあってもオマージュではなく、あくまで「ズレを笑う」という姿勢。ギャグの質は『オースティン・パワーズ』であって、それも数撃ちゃ当たるといった感じなので外してるところも多々ある。無神経な自国批判という面でも、まだ中途半端(フランス人にしては精一杯の成果かもしれないが)。

 例えばジョルジュ・ロートネルみたいに、くだらないけどスマートで洒落たユーモア、というのが皆無だったのは残念。機知には欠けるが、暇潰しに観るならいいかも。

▼1964年に作られた“OSS”シリーズの1本
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『ウエディング・クラッシャーズ』(2005)

『ウエディング・クラッシャーズ』
原題:Wedding Crashers(2005)

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 去年の夏に全米でスマッシュヒットを記録したコメディ映画が、日本では敢えなくDVDスルー。まあ気楽に観られるからいいか、と思って早速借りてきて観たら、意外と面白くなかった。

 オーウェン・ウィルソンとヴィンス・ヴォーンという主役2人の持ち味はちゃんと出てるし、脇を固める役者の顔触れも豪華。ヒロインを演じる『パニック・フライト』(2005)のレイチェル・マクアダムスも、とびきり可愛い。しかし、内容的にはどうにも突き抜けない。真面目に作ろうとしているのだろうけど、全体的に凡庸な印象にとどまっている。クリストファー・ウォーケンやヘンリー・ギブソン(まだ元気だったのか!)といった芸達者を揃えていながら、しどころない役で無駄遣いされてるのもマイナス。

 結果として、終盤に登場する「伝説の結婚式荒らし」もとい「フューネラル・クラッシャー」のアノ人がいちばん面白かったというのは、ちょっと情けない。

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