Simply Dead

映画の感想文。

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『ゴーストアビス』(2003)

『ゴーストアビス』
原題:Visitors(2003)

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 ヨットで世界一周にチャレンジした女性が体験する恐怖を描いた心理スリラー。監督はかつて「ヒッチコックの後継者」とも呼ばれた、オーストラリア出身の俊英リチャード・フランクリン。脚本のエヴェレット・デ・ロッシュは、フランクリン監督の代表作『パトリック』(1978)『ロードゲーム』(1981)『リンク』(1986)で組んでいる、いわば名コンビ。怪作『ロング・ウィークエンド』(1978)の脚本家でもある。本作は、それら初期作品群のテイストに今また立ち返ったかのような、シャープなサスペンス演出で魅せる意欲的なサイコドラマだ。

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〈おはなし〉
 ジョージィ(ラダ・ミッチェル)はヨットによる無寄港世界一周にチャレンジ中だ。同乗者はペットの猫一匹のみ。記録に名を残すためには、決して自分以外の人間を船に乗せてはならない。

 ひとりぼっちの過酷な船旅は、心身共に負担が掛かる。事故を避けるため常にチェックを怠ってはならず、海賊に襲われる危険もある。だが最大の敵は、孤独と、自分自身の弱さだった。

 次第に彼女のなかで現実と幻想は混濁し始める。話し相手の猫は最近なにかと口うるさい。出航前の出来事も頻繁にフラッシュバックする。恋人や後援者との関係、父の病、母の自殺……後悔と憤り、そして淫らな妄想。そんな時、誰かが甲板にいる気配が……。

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 主演は『ピッチブラック』(2000)以降、ハリウッド作品への出演が続いているオーストラリア出身の女優、ラダ・ミッチェル。ほとんど一人芝居と言っていい難しい役柄を、繊細かつパワフルに演じきっている。ちなみに彼女は、やはりスリラーの名手で、ニュージーランド出身の若手監督スコット・レイノルズの快作『ワイルド・ストレンジャー』(2001)にも主演。趣味がいい(顔は無骨だが)。

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 大自然の中に紛れ込む異物=人間という舞台設定は『ロング・ウィークエンド』を思わせもする。しかし、この作品の主眼は、ヒロインの危うい心理状況を徹底的に描くこと。本作は心理スリラーでありつつ、一種のセラピー映画でもある。

 誰も乗せてはいけない船とは、つまり彼女の心そのもの。この設定が実にシンプルで見事だ。次から次へと現れる来訪者たちの対処の仕方に、開き直ったようなユーモアが漂っていたり、妄想にもフィジカルな痛みやアクションが伴っている辺りが面白い。回想を多用する構成や、幻覚の見せ方も巧みだ。主人公を責めさいなむ母親を演じるのが『ロバート・アルトマンのイメージズ』(1972)に主演したスザンナ・ヨークというのも、意味深なキャスティング。

 終盤、ヒロインが訪問者たちに反撃を仕掛けるくだりのスリリングな畳み掛けは、昔のフランクリン作品を思い出させて嬉しくなってしまった(たとえ相手が××であっても)。今の時代では地味な作品と言えるかもしれないが、熟達したスリラー演出で充分以上に楽しませてくれる。船の中の生活描写も面白いし、エンディングも捻りが利いていながら清々しい。

 幽霊や怪物が出なきゃホラーじゃないという人や、イカれた女の妄想なんぞに付き合ってられるか、という人にはお薦めしない。個人的には非常に「買える」一作だった。

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『リトル・ミス・サンシャイン』(2006)

『リトル・ミス・サンシャイン』
原題:Little Miss Sunshine(2006)

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 東京国際映画祭2006コンペティション出品作。低予算のインディペンデント作品ながら、アメリカでは予想外のヒットを記録した。今回の映画祭では、監督賞と主演女優賞(アビゲイル・ブレスリン)を獲得。

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〈おはなし〉
 美少女コンテストに出場する娘のため、1台のバスに乗り込んでコンテスト会場へと向かうファービー家の面々。家族はそれぞれに問題を抱えているが、道中で起こる様々な出来事が彼らを変えていく。波瀾万丈の旅の終わりで、一家を待ち受けるものとは?

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 映画の作りは非常に口当たりよくマイルドで、逆に言うとその辺にあるメジャー作品とあまり変わらない。全体のテンポはいいが、登場人物の葛藤も変化も、形だけで通り過ぎていくような印象。ドラマとしての目新しさや深みにも乏しい。もしこれがインディペンデント作品ではなく、メジャー会社の冠のついた映画だったなら、ここまで大きな反響を得られたかどうか。

 キャストもまったくの無名というわけではなく、それなりに名の売れた実力派俳優を配している。その中では、トニ・コレット、スティーヴ・カレル、ポール・ダノがいい。名優アラン・アーキンはいつもながらの快演を見せてくれるが、ちょっと出番が少なくて物足りなかった。主役の女の子オリーヴ役を演じたアビゲイル・ブレスリンの演技は、いかにも芸達者という感じがして少し鼻についた。

 何年かに1本、こういう「そこそこよくできたドラマの小品」が過大評価される傾向があると思う。日本公開される時も、好意的に受け入れられるだろう。
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『父子』(2006)

『父子』
原題:父子(2006)

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 東京国際映画祭“アジアの風”部門出品作品。ウォン・カーウァイが師と仰ぐという、パトリック・タムの17年ぶりの監督復帰作。度肝を抜く映画だった。

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〈おはなし〉
 ボーイ(ン・キントー)の一家はマレーシアの中国人街に住んでいる。料理人として働くハンサムな父(アーロン・クォク)は、博打好きの荒くれ者。そんな夫の激しい気性に堪えきれず、母(チャーリー・ヤン)は家出してしまう。父はかんしゃくを爆発させ、やがて職まで失う羽目に。

 借金取りから逃れるため、父子は名も知らぬ街のモーテルに身を寄せる。「人に使われるのはゴメンだ」と言って働こうとしない父は、やがてボーイに盗みまでさせるように……。

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 遠い熱帯の異国を舞台に、父と子の交流をたゆたうように描いた枯淡の映像詩……などという内容では断じてない。観客の襟首をつかんで引きずり倒すかのごときパワフルな演出で、壊れゆく家族の絆を150分ガッチリと描いていく。それでいて、映像は途方もなく美しい。息もつかせぬカッティングと、流れるようなカメラワーク、キレのある役者の演技……何もかもが圧倒的だ。映像の官能性も素晴らしく、ラブシーンの濃密さには息を飲む。その強靭な演出力たるや、とても17年間も休業していたとは思えない。特に前半部は凄すぎて、半ば呆然としながら観ていた。

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 精緻に振り付けられたダンスのような役者の動作からも、徹底した演出を感じる。アーロン・クォクのダメな父親ぶりが素晴らしい。素晴らしくいい男がどんどんダメになる。その堕ちっぷりがすこぶる感動的なのだ。健気な息子を熱演するン・キントーも、育ちの良さを思わせる品のいい顔立ちで、画面に美しく映えていた(彼もまた、堕ちる)。

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 家族を捨てる母親を演じるのは、チャーリー・ヤン。スレンダーな身体に薄幸のリアリティをしっかり身につけ、得難い存在感を醸し出している。『バタフライ・ラヴァーズ』(1994)や『天使の涙』(1995)でファンになった身としても、再び脚光を浴びているのは嬉しい。中盤から登場する娼婦役のケリー・リンのキャスティングも絶妙。

 終盤さすがにダレてくるが、それでも群を抜く作品だと思う。ここまで鬼気迫るテンションを維持できる映像作家が、今どれだけいることだろう? まさに“鬼才”と呼ぶに相応しい。監督業から退いていた間は、学校の講師を務めたり、ウォン・カーウァイやジョニー・トー作品の編集者として働いてきたのだとか。これまで監督として映画を撮らなかった理由については「芸術的自由が許される環境がなかったから」と語っている。マレーシアの学校で教えていた生徒と共にシナリオを練り上げ、昨年1年間かけて制作した本作『父子』は、全てにおいて芸術的な欲求を満たした作品だそうだ。

 ちなみに英語題は「After This Our Exile」、流浪の果てに。ラストシーンのいわく言い難い後味は、ベルトルッチの映画にも似ている気がした。

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『おばさんのポストモダン生活』(2006)

『おばさんのポストモダン生活』
原題:姨媽的后現代生活(2006)

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 東京国際映画祭“アジアの風”部門出品作。『女人、四十。』(1995)のアン・ホイ監督が中国資本で撮り上げた最新作。上海で一人暮らしする中年女性を主人公に、様々な人々との出会いや生活の変化が映し出される。

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〈おはなし〉
 近未来的な高層ビルと、昔ながらの町並みが混在する近代都市、上海。主人公のおばさん(スーチン・ガオワー)は定年退職後、マンションで独り暮らしをしている。彼女の周りには、いつも少し変わった人物が現れる。

 隣に住む金持ちのマダムは、カラオケ好きでペットの猫を溺愛。生意気な12歳の甥クァンクァンは、街で知り合った少女と一緒にニセの誘拐事件をでっち上げ、おばさんの肝を冷やさせる。ある日、おばさんは公園で元京劇役者の男(チョウ・ユンファ)と出会い、やがていい仲に。しかし彼は怪しい取引に手を出してカモられ、ついでにおばさんも貯金を失ってしまう。

 不運が重なり、とうとう大怪我をして入院してしまうおばさん。見舞いに訪れたのは、かつて田舎に夫ともども置き去りにしてきた娘(ヴィッキー・チャオ)だった。彼女は自分たちを捨てたことを責めながら、都会で暮らせなくなった母親を実家へと連れ戻す。遠く離れた地へと向かう車の中で、おばさんの目に映るのは……。

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 少年が列車で上海にやってくるオープニングから、てっきり少年の目から見た話なのかと思ったら、実は語り部のいないドライな映画だった。次々に出てくる登場人物が、いつの間にか物語から姿を消していくパターンが続くので、映画のスタイルが掴みづらく、初見ではやや戸惑った。

 語り口はコミカルで、映像のトーンも明るく鮮やかだが、内容は一筋縄ではいかない。気楽なようでいて実はくつろがないおばさんの都会生活は、いろいろあって下降線を辿り、あれよあれよと終焉を迎える。都市部と地方の生活ギャップを冷徹に映し出す終盤、黙して現実を受け入れる主人公の姿は、過去の罪をあがなうようでもあり、急変する社会のツケを一身に支払わされているようにも見える。監督にとっては、その上昇と下降も全てひっくるめて、それが今の中国の「現代生活」なのだろうか。かなり辛辣な映画だと思う。

 スーチン・ガオワーが主人公をリアリティをもって力演。その周りを彩るキャストも魅力的だ。ひょうきんな好人物だが、どことなくうさんくさい中年男を演じるのは、あのチョウ・ユンファ。北京語の台詞回しも新鮮で、これまでのイメージを覆す役柄を好演している。地方に暮らす一人娘を演じたヴィッキー・チャオのやさぐれた感じも素晴らしかった。個人的には、少年クァンクァンと仲良くなる顔に火傷のある少女役の王子文が印象的だった。チャウ・シンチーの新作にもキャスティングされているとかいないとか。

▼王子文
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 音楽を担当したのは久石譲。いつも通りの大げさなオーケストラスコアで、何か作品の主題を見誤っているような感じがした。

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『サイゴン・ラブ・ストーリー』(2006)

『サイゴン・ラブ・ストーリー』
原題:Saigon Love Story(2006)

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 東京国際映画祭“アジアの風”部門出品のベトナム映画。互いに惹かれ合いながら引き離されていく男女のラブストーリーを、色彩豊かなミュージカルタッチで描いた作品。

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〈おはなし〉
 1988年のサイゴン。フォーの屋台を営む母に女手ひとつで育てられた青年ザイン(ハー・ヴィー・ヴァン)は、ある日、道端でカセットテープを売っている娘タム(ゴー・タイン・ヴァン)と出会う。彼女は歌手志望で、いつかスターになる日を夢見ていた。ザインは奔放なタムに惹かれ、彼女もまた彼に好意を抱く。

 しかし、ザインは勤め先の社長の娘に見初められ、親同士の取り決めで結婚させられることに。その披露宴の席で、タムは歌手としてザインの前に姿を現す。彼女がステージで歌う「サイゴン・ラブ・ストーリー」の甘く切ない歌声は、ザインの胸を強く締めつけるのだった……。

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 アーティフィシャルな映像の質感と、ベタベタなストーリー展開は、往年のクラシック映画へのオマージュ。しかし、肝心なストーリーテリングの流麗さや、リズムの快さに関してはまったくの勉強不足。芝居にやたら無駄が多くて、身悶えするほど長ったらしく、テンポが悪く、しまりのない、イライラする作品だった。ひょっとしてファイナルカット以前のものなのか? と思ったり。

 それでも最後まで我慢して観たのは、ヒロイン役のゴー・タイン・ヴァン(Ngo Thanh Van)という女優がメッチャクチャ可愛かったから。向こうでは有名なモデル/女優/歌手なんだとか。衣装替えもふんだんにあり、内容はつまんなくとも彼女の魅力だけでもってしまう映画ではあった。開巻早々、いきなりマドンナのコスプレで登場するのもポイント高い。

▼せっかくなのでゴー・タイン・ヴァンの写真もいくつか
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 監督はアメリカ留学中に『ゴッド&モンスター』(1998)のビル・コンドン監督に師事していたとか。劇中にゲイネタが多かったのはそのせい?

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『ドッグ・バイト・ドッグ』(2006)

『ドッグ・バイト・ドッグ』
原題:狗咬狗(2006)

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 東京国際映画祭2006コンペティション出品作。日本の配給会社アートポートが製作した香港映画で、主演はエディソン・チャンとサム・リー。監督はソイ・チェン。

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〈おはなし〉
 とあるレストランで残忍な殺人事件が発生。刑事ワイ(サム・リー)は現場付近で怪しい人物を発見する。カンボジアから香港へ密航してきた殺し屋パン(エディソン・チャン)だ。幼い頃から賭けボクシングの選手として育てられた彼は、何の躊躇もなく人を殺す凶暴な男。ワイは多くの犠牲を出しながら、何とかパンを捕りおさえるが、護送中に逃げられてしまう。

 追撃をかわしながら、あてどなく逃げ回るパン。そのさなか、彼はゴミ集積場に暮らす少女ユー(ペイ・ペイ)と出会う。自分と同じように孤独で不幸な彼女を、パンは一緒に連れていくことに。

 一方、上司の命令を無視し、執拗にパンを追い続けるワイ。だが、いつもあと少しのところで彼を取り逃がし、同僚たちは次々と眼前で殺されていく。怒りに燃えたワイは、もはや刑事としての職務を忘れ、執念の鬼と化していく……。

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 主人公がカンボジア人というあたりが新味だが、基本的には『ワンナイト・イン・モンコック』(2004)などと同じ話。ただし暗殺の任務にまつわるサスペンスは一切なく、ひたすら殺し屋と刑事が繰り広げる血みどろの戦いが描かれる。

 エディソン・チャンがイメージを一新し、暴力のみで生きてきた主人公を台詞なしで力演。凶犬の身のこなしというか、狂気と怒りをたぎらせた敏捷な体の動きからは目が離せない。対するサム・リーはやや力不足だが、クライマックスの変貌ぶりは大したもの。薄幸のヒロインを健気に演じるペイ・ペイは、日本でも清純派アイドルとして通用しそうな可愛らしい美少女。

 凄絶なバイオレンス描写が目玉となっているが、思慮のなさが読みとれてしまうタイプの突発的暴力が延々続くだけなので、そのうち食傷気味になってくる。それに、話を前に転がしていくのが今どき「殺し屋と無垢な少女の逃避行」だったりするので、かなり集中力を削がれる。終盤、カンボジアに舞台を移してからの展開はダメ押し的で面白かったけど、そこまでが長い。もう少しスマートさがあれば快作になったかもしれないが、この監督はそういう青臭さと荒々しさが持ち味だから仕方ない。

 暴力シーンは徹底してるくせに、肝心のラストで急に嘘くさくなるのが残念。そこがいちばん大事な血を見せるシーンだろ! と思ってしまった。さらに、同監督の前作『愛・作戦』(2004)と同じく、わざわざ字幕で“魂のメッセージ”を出すセンスにも腰が抜けた。

 『愛・作戦』は一昨年の映画祭でたまたま観て、本作より面白かったぐらいだが、やっぱりラストの字幕でずっこけた。その時は苦し紛れの策なのかと思ったけど、本気だったか……。

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『クブラドール』(2006)

『クブラドール』
原題:Kubrador(2006)

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 東京国際映画祭“アジアの風”部門出品のフィリピン映画。違法行為の横行するスラム街で生活する女性の姿を、リアリズム・タッチで追ったドラマ。

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〈おはなし〉
 スラム街に夫と暮らす中年女性アメリタ(ジーナ・パレーニョ)は、フエテンと呼ばれる違法ナンバー賭博の注文聞きで生計を立てている。毎日お得意さんを訪問して回る彼女は、町でもおなじみの顔だ。日常に起こる様々な出来事を数字の組み合わせで解釈し、それをギャンブルに役立ててもいる。一方で信仰に厚く、寄付金集めにも精を出すが、その敬虔さには戦場で死んだ息子の影がつきまとっていた……。

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 町の人々から親しみや信頼を得ながら、警察の目に怯え、不安定な生活を送る主人公のキャラクターが興味深い。様々な矛盾を抱えながら、たくましく生きていくより他に術はない。知人の息子の葬式で、嘆き悲しむ家族を親身になって慰めた後、「涙と老人……そうだわ」といって数字の組み合わせを考えてしまう姿が可笑しかった。

 スラム街でオールロケを敢行し、手持ちのデジタルビデオカメラによる撮影が、町の空気を生々しく伝えている。しかし、フィクションにしては無頓着な撮り方とか、味のない色調とか、いろいろ気になる点はあった。それでも、こうした作品はアジア各国で今後もどんどん増えていくはず。機動性とコストパフォーマンスに優れたデジタルカメラの登場が果たす役割は、とても大きなものになると思う。

 前述のカメラワークにしてもそうだが、なんとなく映画文法的に未熟な感はある。劇中、主人公の死んだ息子の幻影が時折現れるが、かえって視点がぶれるだけで、やや余計な気がした。題材や本筋のドラマはとても面白いだけに、気になる。

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『バックロード』(1977)

『バックロード』
原題:Backroads(1977)

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 フィルムセンターで開催中の「オーストラリア映画祭」で観賞。『デッド・カーム/戦慄の航海』(1989)で注目され、現在は主にハリウッドで活躍するフィリップ・ノイス監督の劇場デビュー作。56分の中編だが、非常に見ごたえがあって面白かった。はぐれ者の中年白人とアボリジニの青年が、ケチな犯罪を繰り返しながらあてどない放浪を続ける、ニューシネマ風のロードムービー。

 古典的なバディムービーというわけではなく、海を見たことがないアボリジニの中年男や、フランス人のヒッチハイカー、僻地のガレージで働く若い女など、どんどん道連れが増えていく。当時オーストラリアという国にどれほどアウトロー的な心情を抱えた人々がいたかという証明のようだ。よるべない人々の逃走をハードなタッチで活写していく、ノイスのパワフルな演出に目を見張る。

 主人公2人が出会った過程などは冒頭の字幕で示すだけで、余計な説明は一切なし。映画はただ彼らの道行きを追い続けることだけに終始し、ラストシーンまで勢いが途切れない。運転席と助手席にいる2人の会話に、後部座席の人々の話し声をわざわざ被せてくる凝った演出も、突き放したクールなリアリティを与えていて効果的だ。『ピクニックatハンギングロック』(1977)の名手ラッセル・ボイドによるカメラワークは、車の中の空間を見事にとらえており、場面によっては手持ちカメラのラフな映像で臨場感を伝える。

 オールロケ撮影で映し出される最も印象的な情景は、アボリジニたちの暮らす居留区の実態だ。入植者に差別され、生活力を奪われていく彼らの過酷な現実を、ノイスは粗暴な白人中年の目を通して突きつける。後にノイスがオーストラリアへ里帰りして撮った『裸足の1500マイル』(2002)に連なる社会派作品であり、また現代(70年代当時)のアボリジニたちの心情を謡ったプロテストソングをちりばめた音楽映画でもある。

 小利口で調子のいいアボリジニ青年を、ギャリー・フォリーが好演。彼は劇中の挿入曲をいくつか手掛けてもいる。口の悪いアウトロー中年をパワフルに演じるのはビル・ハンター。ノイス監督の『ニュースフロント/時代を撮り続けた男たち』(1978)や、最近では『プリシラ』『ミュリエルの結婚』(共に1994)などでもおなじみのオーストラリアを代表する名優だ。

 ざらついたアウトロー映画のタッチと、社会的なテーマが力強く結びついた快作。どこかで「フィリップ・ノイス初期作品特集」なんて組んでくれないものだろうか。

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『ロング・ウィークエンド』(1978)

『ロング・ウィークエンド』
原題:Long Weekend(1978)

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 1978年にオーストラリアで製作された、一風変わったスリラー映画。アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭では「黄金のアンテナ賞」を受賞。フィルムセンターの「オーストラリア映画祭」で講演を聴いた際、参考作品として抜粋上映されたので、ビデオで観てみました。

 人里離れた海辺へキャンプに訪れた夫婦が、得体の知れない恐怖にとらわれ、極限状況に追いつめられていくという物語。海外ではカルトムービー化していて、最近アメリカでスペシャルエディション版DVDが発売されました。日本でもかつて大陸書房からビデオが出ていましたが(有り難いことにシネマスコープサイズ収録)、現在は廃盤。

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〈おはなし〉
 倦怠期を迎えたピーターとマルシアの夫婦は、週末の3連休を利用して、海岸に面した森へキャンプに出掛ける。夫は雄大な自然を前にして大はしゃぎだが、アウトドア嫌いの妻は早く帰りたくて仕方がない。そんな状況で、ふたりは異様な気配に気づき始める。海から聞こえる奇妙な鳴き声、静寂とはほど遠い夜……やがて恐怖に駆られた妻は、車を奪って逃げ出してしまう。置き去りにされた夫は、たったひとりで夜を明かす羽目に……。

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 題名になっている「ロング・ウィークエンド」とは、オーストラリアに暮らす現代人特有の強迫観念をさす言葉でもあるとか。大まかに言うと、“都市部で働く社会人たちは、大自然に触れることでリフレッシュしたいという願望(というか固定観念)にとらわれている。「少し足をのばせば雄大な世界が広がっているのだから、そうやってアウトドアライフを満喫してこそ、この国に生まれた意味があるってもんだ」と。しかし、たまの連休に海や平原などへ出かけてみても、自然は思ったほど心を癒すものではなく、逆にストレスを抱えて帰ってくる”……そうしたシニカルな構図を、この映画では徹底的に、それこそ死に至るまで描いています。

 喜び勇んでキャンプにやってきた主人公が、実は自然に対して全く何の理解もなかった、という描写がいちいち痛烈。「意味はないけど木を切ってみる」「何か動いたら撃ってみる」といった一方的な行動を繰り返し、そのくせヘタに野生の動物に手を出して怪我をしたり、夜の暗闇に死ぬほど怯えたり。観客の方は、彼らが勝手な行動をとるたび、いつか酷い目に遭うのではないかとハラハラし続けます。そして最後には、とてつもなく皮肉な結末が……。

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 人間が自然に手痛いしっぺ返しを受けるという物語には、有名なところでアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『鳥』(1963)があります。しかし、明らかに敵意をもって人間が攻撃される『鳥』と違って、この作品に出てくる自然は基本的に何もしません。ただ、人間という“異物”が生態系に入り込むことで生じる奇妙な緊迫、不穏なムードばかりが執拗に描かれるだけ。そこが凄い。それだけで、ふたりの登場人物は精神的に追いつめられ、残酷な末路へと導かれていきます。言ってしまえば単に自滅してるだけとも言えるので、映画の内容を説明する時、ちょっと困るんですが(笑)。

 そうした自然に対するオブセッションは、オーストラリアという国では一般的なもののようです。『ピクニック at ハンギングロック』(1976)や『ザ・ラスト・ウェーブ』(1977)といったピーター・ウィアー監督の諸作品群は、その代表例。本作もその系譜に連なる作品ですが、より痛烈で、自嘲的なムードに満ちています。

 神経症、人間関係の溝、自然との対立……「この映画にはオーストラリア映画に特徴的な要素がほとんど全て含まれており、なおかつそれをひっくり返したような構造になっている」と、先述の講演では語られていました。シンプルでありながら、とても奇妙で、なおかつ強烈な作品です。

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『証拠』(1991)

『証拠』
原題:Proof(1991)

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 フィルムセンターで開催中の「オーストラリア映画祭」で観てきました。『キルトに綴る愛』(1995)のジョスリン・ムアハウス監督の出世作で、主演は今やハリウッド俳優のヒューゴ・ウィーヴィングと、ラッセル・クロウ。佐和田敬司氏の書いた「オーストラリア映画史」を読んで以来、ずっと観たかった作品でしたが、期待以上に面白かったです。

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〈おはなし〉
 メルボルンの片隅。盲目の青年マーティン(ヒューゴ・ウィーヴィング)は、誰にも心を開かない、気むずかしい男。彼の習慣は、自分のカメラで写真を撮ることだ。決して自分で見ることはできないが、それがその場所に自分がいたことの“証拠”になるというのだ。

 ふとしたきっかけから、マーティンはレストラン従業員のアンディ(ラッセル・クロウ)と親しくなり、自分の撮った写真の説明を彼に求めるようになる。マーティンの世話をしている女性シリア(ジュヌヴィエーヴ・ピコ)がそれを知った時、彼女のとった行動とは……。

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 登場する三者それぞれのキャラクターがしっかり立っていて、とりわけ、マゾ的な内面性を持ちながらサディスティックに振る舞う女性、シリアのキャラクターが秀逸。女性監督ならではのクールかつ繊細なセンスを感じます。オーストラリア映画独特の神経症的ムードを小味に効かせた、知的でシンプルな語り口にも好感が持てました。

 若者たちの屈折した関係性のドラマですが、随所にユーモアが溢れており、全体にドライで風通しのいい印象。息苦しい密室劇に陥ったりはしません。特に、男2人で車を走らせている時にパトカーに追突してしまい、難を逃れようと「目が……目が見えない!」と言ってごまかすくだりは最高に可笑しいです。

 ヒューゴ・ウィーヴィングはひねくれ者の感じがいかにもハマってるし、ラッセル・クロウも気のいい青年役を好演。前述のシリアを演じたジュヌヴィエーヴ・ピコの妙演も強く印象に残ります。本作は1991年のAFI(オーストラリア・フィルム・インスティテュート)で、作品賞・監督賞・主演男優賞(ウィーヴィング)・助演男優賞(クロウ)・編集賞を受賞。

 ちなみに第2班監督を務めたポール・J・ホーガンは、監督の夫で、『ミュリエルの結婚』(1994)や『ベスト・フレンズ・ウェディング』(1997)などの監督としても知られてます。キャシー・ベイツ主演の『夢見る頃を過ぎても』(2002)では、夫妻で脚本を共著していました。

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『ハーヴィ・クランペット』(2003)他

アダム・エリオット監督作品
『ハーヴィ・クランペット』他


 東京国立近代美術館フィルムセンターで開催中の「オーストラリア映画祭」で、クレイアニメ作家アダム・エリオットの諸作品群をまとめて観る機会に恵まれました。といっても、この日まで監督の映画は1本も観ておらず、さらにオーストラリア出身ということも知らなかったんですが……それを本気で後悔するほど、素晴らしかったです。

▼短編『兄』
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 1996?98年に作られた連作『おじさん』『いとこ』『兄』は、風変わりな親戚や家族の生きざまを、クレイアニメで描いた作品。フリーキーでユーモラスなキャラクターが登場し、語り手の客観的視点から、彼らの生活や奇行、その死までが淡々と綴られていきます。モノクローム調のくすんだ画面は、「記憶の映像化」と呼ぶべき質感。そして全ての作品には、故人への愛情、アウトサイダーへの強い共感が溢れています。

▼オスカー受賞作『ハーヴィ・クランペット』
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 アカデミー賞を獲得した『ハーヴィ・クランペット』(2003)は、ある一人のポーランド移民ハーヴィがおくる波乱に満ちた人生を、ユーモアたっぷりに描いた27分の作品。生まれつき脳に軽度の障害をもち、両親は凍死、戦禍を逃れるためオーストラリアに移り住み、地味な職を転々、天啓を受けてヌーディスト兼動物解放運動家になり、落雷を受けて磁石人間と化し、それが縁で看護婦と結婚……さらにさらに、という男の一代記がテンポ良く語られていきます(ナレーターはジェフリー・ラッシュ)。

 やはりキャラクターのとぼけた表情が素晴らしく、笑っちゃうような不幸も、小さな幸せも、常にビックリまなこで受け入れる主人公ハーヴィがとても魅力的です。ちょっと『ザ・シンプソンズ』のホーマーにも似てます。

 人生の過酷な部分に、おかしみや深みを見つけていこうとする作者の視線には、ある種の諦観と温かみが滲んでいて、誠実な感じがしました。人生を悲喜劇として捉える作家にとっては、大事なことです。

▼アダム・エリオット監督
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・Amazon.co.jp
『ハーヴィー・クランペット』DVD

『隠された記憶』(2005)

『隠された記憶』
原題:Cache(2005)

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↓ネタバレしております。
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『パプリカ』(2006)

『パプリカ』(2006)

 試写で観てきました。ティント・ブラスの名作じゃなくて、今敏監督・筒井康隆原作の長編アニメの方です。

 肥大する狂気を扱っていながら、回収できる範囲内で物語が収まってしまうのは、これまでの今監督の作品と同じ。いわゆる分かりやすいレベルにとどまっています。作画もストーリーテリングも超ハイクオリティですが、とんでもない飛躍や破綻はありません。 やっぱり弾けないんですね、今回も……という印象。『東京ゴッドファーザーズ』(2003)や『妄想代理人』(2004)といった近年の快作群と比べると、若干パワーダウンの感もあります。

 とはいえ、初監督作『PERFECT BLUE』(1998)以来の、ひたすらタイトで完成度の高いサイコスリラーでまとめてきたかといえば、わりとサスペンス色はあっさりしていて、ディテールやオフビート感を愉しむ作品になってるのが意外でした。クールでスタイリッシュな作品を予想すると面食らうかも。

 後半になるとくだらないギャグも増えて、ぐんぐん回転数が上昇してくるのが素直に楽しいです。特に、悩める中年刑事が活躍し始める辺りからは一気呵成。「おっさんをなめるな!」という監督のシンパシーがこれまで以上に大爆発してます。ラブストーリーのスパイスも効いてました。

 大塚明夫が渋くておバカな刑事役を好演。過食症の天才科学者を演じる古谷徹の軽妙な味にも、忘れがたいものがあります。原作者と監督がそれぞれ演じるバーのマスター&ウェイターに至っては、もはやアニメを超越した存在感。しかも監督、筒井先生を差しおいて、いちばんイイ台詞を自分でかっさらってます。ホントずるい! 爆笑しました。

 しかし残念だったのは、日常が揺らぎ、現実と夢がいつの間にか取って代わられるスリルが感じられなかったこと。そして何より、あまりにエロが少なかったこと。夢の世界の話なんだから、もうちょっと……。

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『チャイルド・ゾンビ』(1980)

『チャイルド・ゾンビ』
原題:The Children(1980)

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 伊東美和さんの名著『ゾンビ映画大事典』の中で、「アメリカ国内でもプレミア価格でビデオが取引されるレアな珍品」として紹介され、昨年になってトロマ社から唐突にDVD化された低予算ホラー映画。ゾンビと化した子どもたちが大人を急襲! そのうち大人もマジで反撃! そんな野蛮な代物を日本でも発売しようなどと考えるのは、やはりトラッシュマウンテンビデオしか有り得ないのでした。今回も2本立て仕様で、併録はイタリア製のミステリーホラー『ゼダー/死霊の復活祭』(1982)。

 「放射能漏れで発生したガスを浴び、子どもたちがゾンビ化」という設定もデタラメなら、「子どもゾンビに抱きつかれた大人が煙を吹いて焼け死ぬ」という仕組みもまったく訳が分からず、もはや爽快。絵的になかなか不気味だし、殺し方も豪快です。このデッドチルドレン(略してデッチル)、数こそ少ないものの、老若男女を問わずバンバン焦がしていくのがステキ。サスペンスなんて上等なものがない代わり、出てくりゃ必ず誰かがコンガリという大盤振る舞い。

 後半、彼奴らの弱点が手首であると知った保安官たちが、殺られる前に殺りかえせ!とばかり逆襲に転じる姿も、まるで大人げありません。いくら殺人ゾンビとはいえ、子どもの両手首がナタでポンポン切り落とされる映像にはドキッとさせられます。ていうか明らかに手以外の部分もガンガンいっちゃってるし。銃で撃たれて階段から落ちるデッチル君の見事なアクションにも目を見張ります。

 演出はいたってユルイものですが、意味のないヌードシーンなどサービス精神は旺盛で、気楽に観られるところが美点。保安官役の役者がちょっとウケ狙いすぎるのが難ですが。ちなみにチョイ役で『遊星からの物体X』(1982)のピーター・マローニーが出演。音楽は『13日の金曜日』(1980)のハリー・マンフレディーニ。

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『La Cabina』(1972)

『La Cabina』(1972)

〈おはなし〉
 ある日、団地の中庭に設置された電話ボックス。そこに、ひとりの中年男が閉じ込められてしまう。押しても引いても外に出られず、電話も通じない。やがて団地の人々が集まってきて、男は見世物状態に。屈強な男や警察官がドアをこじ開けようとするが、びくともしない。情けないやら恥ずかしいやらで、頭を抱える男。

 すると、電話ボックスを設置した作業員たちが再びやってきた。彼らは男ごとボックスを取り外すと、トラックの荷台に載せて何処かへと走り始める。今度は移動する晒し者と化した男。はたして彼らは自分をどこへ連れて行こうとしているのか?

 そんなとき、同じ電話ボックスを載せたトラックが近くを通り過ぎる。中には自分と似たような中年男がひとり……。

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 スペインのTVで放映された34分の短編映画。電話ボックスに閉じ込められた男の悲劇を描いた、ちょっとシュールで、ペーソスに富んだスリラーコメディ。たまたまネットで見つけて観てみたら、拾い物でした。国際エミー賞のドラマ部門で賞を獲っているとか。

 閉じ込められた人物の声は聞こえないため、台詞はほとんどなし。だからスペイン語が分からなくても楽しめます。設定は絵に描いたような不条理劇ですが、乾いたコミカルさに溢れており、主人公から台詞を奪っているので、うざったい内省描写とも無縁。

 ちょっとアラン・アーキン似のホセ・ルイス・ロペス・ヴァスケスが、不運な主人公を好演してます。野次馬の晒し者にされる序盤は、ブラック・コメディの趣。箱詰めのおじさんが延々トラックで運ばれていく中盤は、サスペンスフルでありつつ、これでもかと言うくらい物悲しくて、メチャクチャおかしいです。

 気になるオチの付け方も見事。全く予想外の結末というわけではないけれど、スケール感がものすごい(笑)。『オーメン』みたいな音楽も効果絶大です。

 youtubeでも観れるみたい(こっちは英語字幕つき)↓
http://www.youtube.com/watch?v=eEfhNAufdcI

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『打鐘 男たちの激情』(1994)

『打鐘 男たちの激情』(1994)

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〈おはなし〉
 立花ワタル(西村和彦)は競輪界の若きホープ。最後尾から追い上げて1位を狙う、先行一本勝負にこだわり続け、近頃めきめきと頭角を現してきた。彼の目標は、競輪学校の同期生でS1クラスの王者・清原良(中倉健太郎)を倒すこと。しかし、早くから彼に注目していた新聞記者の秋葉(大杉漣)は、立花に「このままでは清原に勝てない」と忠告する……。

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 競輪に情熱を燃やす青年の姿を描いた、黒沢清監督のスポ根Vシネ。インタビュー本「黒沢清の映画術」を読んでたら観たくなったので、探して借りてみました。

 フィクションであることを割り切った演出が実に清々しい、良質の娯楽作。スピーディでテンポのいい場面展開も楽しくて、ちょうど自転車のペダルをこぎ続けるような疾走感と心地好さ。競輪自体に興味の薄い感じも、職人的演出に徹する上でプラスになってます。

 黒沢作品ならではの1シーン1カット撮影もありますが、それもカメラと人物に躍動性があって、とても活き活きと撮られています。こういう「楽しい長回し」ってあんまりないと思うんですが、この作品ではまんまと成功してます。

 主演の西村和彦のパワフルな演技も、作品を成功に導いた大きな要因。競輪のことしか頭にない主人公のメチャクチャな(監督曰く「狂っているとしか思えない」)キャラクターを、疑問を差し挟ませる余地がないくらい、気持ちよく演じきっています。黒沢作品には欠かせない名バイプレイヤー・大杉漣の軽妙な演技も素晴らしく、これがベストアクトなのではと思うほど。

 思わず「もうこういう楽しいばっかりの映画は撮らないのかなあ」と、溜め息が出てしまう快作。
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『黒い画集 第二話 寒流』(1961)

『黒い画集 第二話 寒流』(1961)

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〈おはなし〉
 支店長に出世した銀行マン・沖野(池部良)は、得意先の料亭の女将・奈美(新珠三千代)と恋仲になる。しかし、上司の桑山常務(平田昭彦)も彼女に惚れてしまい、それがきっかけで沖野は左遷。奈美も桑山にあっさりと乗り換えた。沖野は彼らに復讐しようと、探偵に素行調査を依頼するが……

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 堀川弘通監督の『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960) に続き、松本清張のシリーズ小説『黒い画集』の一編「寒流」を映画化した作品。監督は鈴木英夫。

 前半は主人公とヒロインの不倫劇をじっくりと描き、後半は転落した男の復讐劇をサスペンスフルに活写する……かと思いきや、彼の努力はことごとく叩き潰され、なんの救いも得られないまま終わってしまう。相手は常に一歩先を読み、サラリーマンの浅知恵では上層機構には勝てない、というダークな結末が待っている。

 ものすごく凹む映画だった。それが極めて現実的な話だからだ。勧善懲悪の娯楽映画としては異色作かもしれないが、普通の大人が見れば身につまされる内容だろう。懸命に立ち回った結果、全てが裏目に出てしまい、挙げ句に上司から叱責される。そのイヤな感じがとてもよく出ている。特に、ラストで主人公を激しく叱責する副頭取役の中村伸郎が、ものすごい迫力。この人にこんなことを言われたら、ちょっと立ち直れない。

 とはいえ、ガチガチの社会派ドラマではなく、基調となっているのは不条理劇的なムード。たびたび妙ちきりんな展開になったりして、驚かされる。

 中盤のあるシーンでは、温泉宿に一泊した主人公とヒロインと上司が「宿を出るまで一眠りしようか」と言って、明るいうちから布団を敷いて川の字で寝てしまう。緊張感に満ちた場面だが、その状況がまずおかしい。さらに後半、主人公が唐突に料亭に連れて行かれると、丹波哲郎率いるスジモノの一団が待ち受けているシーンも、呆気にとられる。ここで主人公は丹波から「もう小細工は止しましょう」と警告されるのだが、コミカルなタッチに急展開して最後にぞっとさせる、というのが巧い。巧いけど、あまりやらない。

 白黒・スコープ作品だが、これはきっとスタンダードで撮りたかった内容だろうな、と思わせる構図が多かった。新珠三千代は個人的に苦手な女優さんなのだけど、この映画の彼女はとても良かった。

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『彼奴を逃すな』(1956)

『彼奴を逃すな』(1956)

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〈おはなし〉
 藤崎哲夫(木村功)はラジオの修理屋をしている平凡な男。小さな洋裁店を営む妻の君子(津島恵子)とふたり、慎ましく暮らしていた。ある夜、彼は店の前に立つ怪しい人影を見かける。翌日の新聞で、藤崎はそれが向かいに店を構える不動産屋を殺した男だと知った。

 事件の裏には、巨大な犯罪組織が絡んでいた。証言すればただでは済まない。犯人からの脅迫状を受け取り、青ざめる藤崎。来年には子供も生まれるというのに、家族を危険にさらすわけにいくものか。しかし、事件を捜査する永沢警部(志村喬)たちは、藤崎夫妻から証言を引き出そうとしつこく食い下がる。

 そんな時、身近に2人目の犠牲者が……。

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 鈴木英夫監督の代表作の1本。たまたま犯罪に巻き込まれてしまった小市民の味わう恐怖を、緊迫感みなぎるサスペンス演出で描きのめした傑作。

 木村功と津島恵子が演じる若い夫婦の描き方が、とてもいい。肩を寄せ合って生きる市井の人の生活感が滲み出ていて、かといって過度に感傷的にはならず、あくまで硬質なシャープさを保ってドラマが進行する。その抑制の加減が心地好い。

 ロケーションも含め、鈴木監督のスタイリッシュな映像センスは本作でも随所に光っている。アメリカの都会派サスペンス映画を思わせるクレーンやドリーショットも多く登場。極めて完成度の高いタイトな演出は、どこか黒澤明っぽくもある。

 音楽は芥川也寸志。先日観た『脱獄囚』(1957)では電子オルガンをフィーチャーしていたが、こちらはハープシコード。ザランザランという不吉な音色で、巧みにサスペンスを盛り上げている。音楽以外にも、貨物列車の通過音やラジオの雑音、チンドン屋の演奏や坊さんの団扇太鼓など、音でスリルを増長させていく演出も見どころだ。

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『マッチポイント』(2005)

『マッチポイント』
原題:Match Point(2005)

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 ウディ・アレンが裏方に徹した久々の快作。ストーリーテリングの巧さがとにかく圧倒的で、到底2時間強もある映画とは思えない。初の全編イギリス・ロケも効果を上げている(いわゆるお行儀のいいロンドンしか出てこないが)。等身大の主人公をシンプルに演じた、ジョナサン・リス・マイヤーズの好演に因るところも大きい。

 しかし何より感動的なのは、ヒロインのスカーレット・ヨハンソンを色情的に見つめる監督の視線の火照り。彼女を捉えるカメラは常に紅潮し、そのベタ惚れぶりを惜しげもなく観客に伝播させる。さらに後半では「キレる女優」の恐ろしさをリアリティたっぷりに演じさせ(笑)、なるほどこれは地元ニューヨークでは恐くて撮れない内容だなあと思った。

 ブラックな笑いがじわじわと滲み出てくる後半も面白いが、タイトにまとめ損ねた感はある。終盤、刑事が推理を働かせるあたりの台詞の処理が、もっとスマートであればなお完璧だった。やや間の抜けた刑事コンビを演じるのは、『ブラディ・サンデー』(2002)のジェームズ・ネズビットと、『トレインスポッティング』(1996)のユアン・ブレムナー。

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『ホワイト・アイズ/隠れた狂気』(1987)

『ホワイト・アイズ/隠れた狂気』
原題:White of the Eye(1987)

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〈おはなし〉
 ボーイフレンドと大陸横断の旅を続けていたジョーン(キャシー・モリアーティ)は、アリゾナ州のとある田舎町に立ち寄る。そこでインディアンの血をひく青年ポール(デイヴィッド・キース)と出会い、彼の不思議な魅力の虜となった彼女は、恋人と別れてこの地にとどまることに……

 10年後。ジョーンはポールと結婚し、娘と3人で平和な日々を送っていた。ポールは優れた音感と手先の器用さを活かし、今はオーディオ修理工を営んでいる。ジョーンは慎ましい幸福を享受しながらも、夫の持つ奇妙なカリスマ性ゆえに、ひそかに彼の浮気を疑っていた。

 そんな時、近くの町に暮らす裕福な白人女性が、自宅で残虐に殺される事件が発生。さながら「血のアート」のような現場には、インディアンの古い方位図が残されていた。参考人として刑事から事情聴取を受けるポール。しかし、変わり者ではあるが実直な彼を、疑う者は少なかった。

 ジョーンはある日、ガソリンスタンドで元恋人のマイク(アラン・ローゼンバーグ)と思いがけず再会。10年前に別れ、ニューヨークへ旅立ったはずの彼は、なぜかこの町に戻ってきていた。すっかり変わってしまった彼の姿に、驚きを隠せないジョーン。その頃、第2の殺人が起こる……。

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 狂気にとり憑かれた男と、その妻に降りかかる恐怖を描いたサイコスリラー。といっても監督が『パフォーマンス』(1970)の奇才ドナルド・キャメルなので、一筋縄ではいかないエキセントリックな怪作に仕上がっている。

 いかにも異邦人らしい視点で捉えられた、アメリカ南西部のランドスケープ……アリゾナの広大な大自然、景観と不釣り合いなモダン建築、スモールタウン、廃坑などが、この異様なドラマの舞台だ。全編に漂うスピリチュアルなムード、独特のトリップ感に満ちた編集は、サスペンス以上にシュールな感覚をもたらす。語り口がひたすら流麗であるだけに、なおさらタガが外れて見える。『ツイン・ピークス』(1990)との相似性も気になるところだ。

 ストーリーの核となる連続殺人の動機も、一風変わっている。殺しは彼にとって、自然や宇宙と感応した結果の行為なのだ。個人のトラウマや性的欲求、または堕落への制裁といった「人間主体」の思考ではない。デイヴィッド・キースがこの怪人物をエキセントリックに演じており、終盤で魅せる奇怪なビジュアルには唖然とさせられる(ネイティヴ・アメリカンとはまったく関係ない)。彼が唐突にホーミーを奏でる場面では、思わずイエジー・スコリモフスキー監督の『ザ・シャウト/さまよえる幻響』(1978)を思い出してしまった。映画自体の音響デザインも、狂気を誘発する作りになっている。

 やや詰め込みすぎて消化不良の感は否めないが、野心的なパワーは随所に感じられる。壮絶なクライマックスの空撮ショットにも、言いようのない感動を覚えてしまうはずだ。

 耽美的で暴力的。チープに陥ることにも臆しない、過剰なスタイル主義。ドナルド・キャメルの映画には、ニコラス・ローグやケン・ラッセルでも踏み込めない狂気が確かに存在する。そこが最後まで一般受けしなかった理由でもあるけれど……

 キャメルが映画監督として生涯に残した長編作品は、たった4本。最後の監督作『ワイルド・サイド』(1996)の編集権をプロデューサーに取り上げられた直後、銃で頭を撃って自殺した。すぐには死なないよう、上あごから垂直に脳天をぶち抜き、妻の用意した鏡で自分を見ながら小一時間かけて死んだという。


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