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Simply Dead

映画の感想文。

『The Orchard End Murder』(1981)

『The Orchard End Murder』(1981)

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 1971年公開のイギリス映画『小さな恋のメロディ』に主演し、当時の映画少年たちの胸をときめかせたトレイシー・ハイド。特にアイドル的な人気を集めた日本では独自に主演映画の企画も立てられたが、資金集めがうまくいかず頓挫。その後はしばらく芸能界を離れ、一時的に女優復帰して数本の作品に出演するも、まもなく引退。そんなトレイシー嬢が成人後に出演した作品のひとつが本作である(日本未公開)。

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 原題を直訳すれば「果樹園のはずれの殺人」。監督・脚本のクリスチャン・マーナムが、地元の英国ケント州を舞台に、実際に起きた殺人事件をもとに作り上げた48分の中編作品だ。劇中にはトレイシー嬢の絞殺死体ヌードもあり、純情なファンには衝撃的な内容かもしれない(ほとんど中年以上の世代だと思うけど)。

 こういった商業用の中短編作品は、ある時期までのイギリス映画業界ではおなじみの存在だったそうだ。かつての日本と同じく、イギリスの映画館でも2本立て興行が一般的で、長編2本の場合もあるし、長編1本+中短編1本というケースもあったという(いまだにこの形式を守っているのは、本編前に必ず短編をつけるディズニー長編ぐらいではないか?)。アメリカにおける本来の意味での「B Movie」=添え物映画にあたるものであり、日本映画黄金期にもSP(シスター・ピクチャー)と呼ばれる中短編が作られていたが、イギリスでは意外にも80年代初期あたりまでこの興行形態が生き延びていた。

 たとえば、ロジャー・クリスチャンの監督デビュー短編『Black Angel』(80年・未)は、イギリスやオーストラリアなどの一部地域では『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』(80年)の本編前の添え物として上映された。また、『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』(83年)ではテリー・ギリアムの監督パート「クリムゾン終身雇用会社」が長すぎて本編に入らず、冒頭に添え物としてくっついている。これも往年のイギリス映画界の興行形態を再現したものだ。

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 本作『The Orchard End Murder』はそんな2本立て興行の末期に作られた作品で、配給はジャンル映画を数多く扱っていたというGTO Films。イギリスでは『ゾンゲリア』(81年)と2本立て上映され、ホラーファンを中心にトラウマを植え付けたのだとか。これらの添え物映画はソフト化される機会もなく、観客に「あれはなんだったんだろう……?」という微妙な記憶を残して消えていった。本作は運良くBFI(英国映画協会)のレアもの発掘レーベル「FLIP SIDE」に引っ掛かり、2017年にBlu-rayがリリースされた非常に稀有な例である。

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 舞台は1966年、英国ケント州のチャートハースト・グリーンという田舎町。出会ったばかりのボーイフレンドが出場するクリケットの試合を観に来たポーリーン(トレイシー・ハイド)は、見物に飽きて散歩に出かける。まず観る者の目を奪うのが、トレイシー・ハイドの着ている奇妙なワンピースである。白と黒のツートンカラーで、その柄がひび割れ状というか、鳥の羽の模様っぽくもあり、ガラスに打ち込まれた亀裂のようでもあり、つまり非常に不穏な絵柄なのだ。これから彼女自身が「破壊」されることを予見するかのようなドレスをまとい、緑豊かな果樹園や田舎道をさまよう姿は、クロード・シャブロル作品にも似たムードを漂わせる(恋人といちゃつくシーンで覗く、白のストッキングとガーターベルトがまたエロい)。

 町外れの駅舎までやってきたポーリーンは、住み込みの駅員(ビル・ウォーリス)に声をかけられ、お茶をご馳走になる。「田舎の人間はよそ者を嫌うのさ」「背中にある瘤を触ってみるかい?」などと怪しく馴れ馴れしい駅員の話を適当に受け流していると、大男ユアン(クライヴ・マントル)が現れる。彼は駅員の同居人で、庭仕事や果樹園の世話などで生計を立てていた。その手には1羽のウサギが。あら可愛い!とポーリーンが手を伸ばすと、何が気に障ったのか、ユアンはウサギを乱暴にテーブルに叩きつけ、猛然と外に飛び出すと、庭先で解体処理を始めるのだった。バリバリと毛皮を剥かれていくウサギ。

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▲“運命的”な三角関係が発生する午後の紅茶シーン。このくだりで大体の人間関係と、その後の伏線が描かれる。

 気分を害したポーリーンは、大急ぎで元来た道を戻る。すると果樹園でユアンが目の前に立ちはだかる。リンゴの入ったバスケットを差し出し、素直に謝罪するユアンに対し、警戒心を解くポーリーン。「好きなやつを選んでいいよ」と言われ、枝から果実をもぐ彼女の無防備な体に、ユアンの無骨な手が伸びる。やがて唇が重なり、このまま最後まで雪崩れ込むか……と思いきや、ふと我に返ったポーリーンは「ボーイフレンドが待ってるから」と身を引き離す。このへんの「誤解を招く」プロセスのいやらしい細かさが、英国スリージーホラーの真骨頂であろう。

 「近道を教えるよ!」というユアンに半ば強引に手を引かれ、たどり着いた先は窪地にあるゴミ捨て場だった。がらくたが積まれ、間引きされたリンゴが山のように捨てられている。「ここ、なんなの?」「地元じゃ“ラビット・ホール”って呼んでるよ」……そして、ユアンはぼろぼろに腐ったマットレスをゴミの山から引っ張り出す。「ちょ……冗談よね?」

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 逃げ出したポーリーンは朽ちかけたリンゴの山に押し倒される。悲鳴を上げ続ける彼女の口に、ストッキングを引きちぎって押し込もうとするユアンだったが、いつしかそれは彼女の白く細い首に巻きつけられていた。ばたつく手足はやがて力を失い、瞳は虚空を見据えて動かなくなる。ユアンはその体から、ワンピースをひと息に剥ぎ取る。先ほど憐れなウサギにそうしたように。露わになった美しい裸身に覆い被さろうとしたとき、人の気配を感じたユアンは、咄嗟に死体をリンゴの山の下に隠した……。

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 リンゴの上に横たわる半裸美女の死体。『ツイン・ピークス』(90年)のローラ・パーマー、あるいは『悪魔の手毬唄』(77年)にも肩を並べそうな淫靡で忌まわしい死美人アートに、こんなところでお目にかかろうとは! ただし監督のマーナムも、ピート・ウォーカー組の撮影監督ピーター・ジェソップも、さほどアート寄りの演出には振り切らず、チープでスリージーな田舎ホラーの味わいを優先している。それでもイメージの喚起力は抜群だ。

 後半からは一転、殺人者側に寄り添った奇妙なサスペンスが展開。ユアンに対して明らかにホモセクシュアルかつ上から目線の劣情を抱く駅員と、狼狽しまくるユアン・ザ・バーバリアンの二人三脚による死体隠蔽工作がブラックユーモアを交えて描かれる。ユアンが線路沿いの掘っ立て小屋にポーリーンの全裸死体を隠しているのを、駅員が発見したときに叫ぶ「この浮気者!」というセリフが最高だ。しかも死体に手向けた花を見て「その花は私の庭から盗んだんだろう! 私の大事な花を、よくもこんなことに使いやがって!」と畳みかける。こんなセリフ、なかなか書けるものではない。そんな男たちを、死体となりながら呆れるような眼差しで見据えるトレイシー嬢の演技も素晴らしい。

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 「警察が捜査済みの場所に埋めれば、二度と同じところは探さないだろう」という雑なひらめきのもと、なんともずさんな手つきで果樹園のど真ん中に死体を埋めるくだりも、ほとんどドタバタ喜劇の趣き。監督のマーナムは、スタインベックの『二十日鼠と人間』もイメージして彼らの関係を描いたというが(それはそれで不謹慎な発想じゃないのか)、英国ならではの暗く湿ったムードも相まって一連の「バーク&ヘアもの」なども思い出す。

 案の定、地元警察によってポーリーンの遺体があっさり発見されるシーンでは、なんと土のなかからトレイシー嬢の可憐な尻肉が、土ぼこりを払われながらふるふると出現するのである(本人が土中にもぐっての熱演らしい)。その傍らにはご丁寧にリンゴも添えて。イギリス人のギャグセンスってホントにやぁね、と思わず笑ってしまう珍場面だ。

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▲ユアン役のクライヴ・マントル(右)は、近年では『ゲーム・オブ・スローンズ』シーズン1、『シャーロック』シーズン2などに出演

 直接の下手人であるユアンは逮捕されたが、駅員のほうはいまでも……という、英国厭ホラーの伝統をしっかり踏まえたオチも素敵。この手の小規模作品なら、テレビ放映の可能性も考えて描写もマイルドにしそうなものだが、ヌードもあれば殺人・屍姦(未遂)・死体遺棄まで盛り込んだ手加減なしの作りが潔い(いちばんのネックは、リアルバイオレンスに晒されるウサギちゃんかもしれない)。珠玉の掌編とかいう大袈裟なものではないが、一度でも観た者の心にはなんらかの引っかき傷を残すこと請け合いの一作だ。まだまだ世界には未知の映画がたくさんあるんだなあ、と改めて思った。

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▲2017年発売のブルーレイに収録されたトレイシーさんのインタビュー映像より。お元気そうで何より。

 監督のクリスチャン・マーナムは、60年代末にヒュー・ハドソンが立ち上げたCM会社で編集技師として働いたのち、70年代からは監督として独立。多数のCM演出を手がけつつ、短編ドキュメンタリーも数本監督し、そのうちの1本『The Showman』(70年)は本作のブルーレイに映像特典として収録されている。『The Orchard End Murder』は、マーナムが生まれ育ったケント州の思い出と、同地で実際に起きた殺人事件を合体させたもの。彼の地元には駅の近くに果樹園とクリケット場があり、その地理を念頭に入れてシナリオを執筆したという。本作のあと、マーナムはシャノン・トゥイード主演の『リベンジ・アイランド 欲情の甘い罠』(88年)というエロティック・アクションものを撮ったきり、劇場作品は手がけていない。が、吸血鬼を題材にしたオリジナル脚本を映画化する夢は、まだ諦めていないそうだ。

・DVD Fantasium
米国盤『The Orchard End Murder』Blu-ray(リージョンA・日米共通)
英国盤『The Orchard End Murder』Blu-ray & DVDセット(リージョンB&PAL)

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『愛と歌の日々』(1963)

『愛と歌の日々』(1963)
原題:I Could Go On Singing

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 MGMミュージカルの看板女優であり、歌手としても人気を博した稀代の大スター、ジュディ・ガーランド(1922~1969)。その晩年、1968年のロンドン公演でのエピソードを中心に、彼女の苛烈な生き様を追った伝記映画『ジュディ 虹の彼方に』(2019年)が3月6日に公開される【公式サイト】。原作は2005年にオーストラリアで初演されたというピーター・キルター作の舞台『End of the Rainbow』で、映画化に際してはトム・エッジによる脚色が施された。ジュディを演じたレネー・ゼルウィガーの体を張った熱演がすさまじく、多くのものを犠牲にしながらスターの道を歩み続けてきた大スターのプライドと苦渋を、全身の骨肉にまで染み込ませたような痛々しい演技は、まさに圧巻である(本人はまったくそういうタイプの女優ではないのに!)。

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▲『ジュディ 虹の彼方に』のレネエ・ゼルウィガー。さすがは『ベティ・サイズモア』の主演女優

 この映画を観たあと、米盤DVDを買ったまま放置してあったジュディ・ガーランドの遺作『I Could Go On Singing』を観てみた(日本では劇場未公開、テレビでは『愛と歌の日々』のタイトルで放映)。ミュージカル作品ではないが、映画では『スタア誕生』(54年)以来となるジュディの歌唱シーンを見どころに据えた音楽ドラマの佳作で、これが『ジュディ 虹の彼方に』といろいろな部分で共通性を感じさせる作品だった。

 監督はのちに『ポセイドン・アドベンチャー』(73年)を手がけるロナルド・ニーム。主にテレビ畑で活躍し、映画では『枢機卿』(62年)などを手がけた脚本家ロバート・ドジアーによる原案をもとに、『宇宙からの脱出』(69年)『フェイズIV/戦慄!昆虫パニック』(73年)などのSF作品の印象が強いメイヨ・サイモンが脚本を執筆した。劇中のセリフの一部を、共演者のダーク・ボガードが書き直したという話もある。物語の主な舞台がロンドンで、監督も脇を固めるキャストもイギリス人という、実質イギリス映画として作られているところも『ジュディ 虹の彼方に』と共通している。また、『巴里のアメリカ人』(51年)『キス・ミー・ケイト』(53年)『ウエストサイド物語』(61年)などの作曲を手がけたソウル・チャップリンが音楽監修に名を連ねているのも、往年のミュージカル・ファンなら見逃せないところだろう。

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 ジュディが演じるのは、彼女本人を模したようなアメリカの人気歌手ジェニー・ボウマン。この時代になると、やや生活の荒れが容姿に表れ始めている感じだが、それでもスターとしての華と貫禄は隠しようもなく、おそらく歌唱法の影響でやや猫背気味になったシルエットは、どこかエディット・ピアフも思わせる。

 ジェニーは公演先のロンドンに着いてすぐ、医師デヴィッド(ダーク・ボガード)と面会する。実は2人は元恋人同士で、お互いのキャリアのために結婚目前で破局した過去があった。そのとき、ジェニーは子供を身ごもっていたが、彼女は芸能人としての生活を選び、生まれた子供はデヴィッドが引き取ることになった。デヴィッドは幼馴染みの女性と結婚し、実の息子を養子という名目で15年間育て上げ、ようやく手が離れたところで妻と死別したところだった。その報せを受け、ジェニーは十数年ぶりにデヴィッドのもとを訪れたのだ……。これだけの設定を、デヴィッドの自宅兼診療所での会話だけで徐々にわからせていくシナリオと演出がうまい。というか、こういう「徐々にわからせていく」語りというのは近年の映画作りでは敬遠される手法だろう。

 ジェニーは生き別れた息子に一目会いたいと、デヴィッドに頼みに来たのだった。最初は渋るデヴィッドだったが、「本当に一目だけなら」という条件で彼女の願いを受け入れる。翌日、ジェニーはデヴィッドとともにバッキンガムシャーの寄宿学校に赴き、そこで実の息子マット(グレゴリー・フィリップス)と初めて対面する。マットは世界的大スターのジェニーが自分の母親だとは露知らず、大好きな歌を披露。溢れ出す愛情を抑えきれないジェニーは、ロンドン公演を観に来てほしいとマットに告げる。快諾するマットと、渋い顔のデヴィッド。

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 ロンドン公演での熱唱シーンは、まさにジュディの独り舞台をそのまま見ているような迫力がある。おそらく『ジュディ 虹の彼方に』のレネー・ゼルウィガーも大いに参考にしたはずだ。往年のMGMミュージカルのような派手な演出はないが、1人の小柄な女性が、その歌声と存在感だけで観客全員のハートを「持っていく」エンタテイナーとしての圧倒的力量は見事にフィルムに焼き付けられている。一方、スケジュールを守らなかったり、突然「今日は舞台に出ない!」と言い出して劇場スタッフをハラハラさせる一幕も描かれる。このあたりはジュディ本人のパーソナリティを反映していると思われるが、本人主演の映画でよく正直に描いているなと感心する(さすがにドラッグやアルコール癖については描いていないが……)。

 ジェニーはマットが単身ロンドンに来てくれたことに大喜びで、彼と一緒に遊覧船に乗ったり、ヘリコプターに乗ったりと、ロンドン観光を満喫する。もちろん素性は隠したまま……。この親と子のドラマを主軸にしたストーリーも『ジュディ 虹の彼方に』の重要なエッセンスとなっており、ここまでくると「原作」と言ってもいいような気もしてくる。『ジュディ 虹の彼方に』では、ジュディが良き母親であろうとしながらも、借金まみれの巡業生活のなかで子供たちに安定した生活を与えてあげられない現実、そして子供たちをL.A.に置き去りにしたまま長期の海外公演で生活費を稼がねばならない苦悩と孤独が映し出される。それを踏まえて本作の「疑似親子団欒」の光景を見ると、なかなか切ないものがある。はたしてジュディ本人はどんな気持ちでこの母と子の交流を演じていたのだろうか?

 当然、ジェニーの嘘は長続きするものではなく、息子を迎えに来たデヴィッドとの口論のさなか、自分が実の母親であることをマットに聞かれてしまう。真実を告げたことで、自らのもとを去っていく家族……。このシーンのあと、ステージでジェニー=ジュディが「By Myself」を熱唱するシーンは、本作最大のクライマックスと言っていい。「これでロマンスは終わり/私は私の道を行く」という歌詞の内容も、大切な人間関係を失っても1人でたくましく生き抜こうというジュディ・ガーランド自身の「芸道一筋」の決意表明を迫力たっぷりに聞かされているようで、圧巻としか言いようがない。ちなみにこの曲は、『ジュディ』でレネー・ゼルウィガー扮するジュディが劇中で初めて披露する曲にもなっていて、ジュディ本人に負けじとド迫力の歌声で観る者を圧倒してくれる。



 このあと、マットの親権をめぐってジェニーが泥沼の闘争に突き進みかけるくだりも『ジュディ 虹の彼方に』の脚本に大きな影響を与えたのでは……というか、ジュディ・ガーランド自身の実人生を予見していたのではないか、という気もする。板挟みになったマットは、母のため、父のためを思い、ある決断を下す。そして終盤、公演に穴を開けかねないほど錯乱状態に陥ったジェニーを、デヴィッドは病院の診察室で懇々と説得する。この2人芝居のシーンもまた、本作のクライマックスのひとつである。激しさと穏やかさが火花を散らす名優同士のサイコセラピー的演技合戦からは、ひと時も目が離せない。引き裂かれた人間の心を全身で表現できる、ジュディ・ガーランドの女優としての実力を思い知らされる名場面だ。

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 エンディングを締めくくるのは、本作の主題歌「I Could Go On Singing」。開演時間から大幅に遅れて登場したジェニーが、「どこ行ってたんだ?」「そのカカトの怪我はどうしたんだ?」というロンドンっ子たちの温かいヤジに答えながら歌い出すくだりは、そのまま『ジュディ 虹の彼方に』の一場面でも再現される(ただし、もっと悲惨な展開だが……)。あくまでもハートウォーミングな再生のドラマとして幕を下ろす本作では、ジェニーがようやく心の平静を取り戻したかのような、優しく前向きな歌声が観る者の胸を打つ。



「君が自分の力で、その2本の足でしっかり立てるまで、僕がそばにいるよ」と告げたデヴィッドは、ステージ袖から彼女の姿を見守り、いつの間にか姿を消している。その不在に気付き、一瞬揺らぎながらも、再びエネルギッシュに「私は歌い続ける」と熱唱するジュディの演技が絶品だ。本作公開から6年後、ジュディは滞在先のロンドンで、47歳という若さで死去。これが最後の主演映画となった(ジョン・カサヴェテスが監督した『愛の奇跡』と同年公開だが、こちらのほうが数カ月遅く封切られている)。掛け値なしの傑作とか、不朽の名作とかいうものではないが、『ジュディ 虹の彼方に』が公開されるいま、見逃してはならない作品ではあると思う。どこかで日本語字幕つきでテレビ放映してくれないだろうか?

・DVD Fantasium
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『Billy Ze Kick』(1985)

『Billy Ze Kick』(1985)

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〈おはなし〉
 パリ効外の団地で、結婚式を挙げたばかりの花嫁が射殺された。現場にはビリー・ズ・キックと名乗る犯人の大胆不敵な声明文が……それを知ったシャポー刑事(フランシス・ペラン)は驚愕する。なぜならビリー・ズ・キックとは、彼が娘のジュリー・ベルト(セリーズ・ブロック)を楽しませるために作り上げた架空の人物だったからだ! 次々と女たちが殺され、右往左往するシャポー刑事。ジュリー・ベルトは精神分裂症の青年ヒッポと結託し、過激な遊びに熱中する。そしてシャポーの妻のジュリエット(ザブー・ブライトマン)はブローニュの森で春を売り、同じ団地に住む弁護士と関係を持つ。住人たちの脳内でビリー・ズ・キックの存在は膨れ上がり、事件は予想外のクライマックスに向けて疾走する。

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▲『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』単行本カバー

 世界一好きな小説家は誰か? と尋ねられたら、ジャン・ヴォートランの名前は間違いなく出てくる。今年6月、82歳で世を去ったフレンチ・ノワールの鬼才である。特に、いちばん最初に読んだ『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』の面白さは衝撃的だった。とことん暴力的でイカれてて、なのに笑えて愛らしくて、老若男女に対して平等に冷酷。悪意とチャーミングさを兼ね備えた作風はあまりに自分の好みと合致しすぎて、「もう小説ってのはこれさえ読んどきゃいいんじゃないか?」とさえ思った。その後、ヴォートランと同世代の新世代ノワール作家たちを追いかけたりしたが、やっぱり面白さでいえばヴォートランが断トツだった。

 ジャン・ヴォートランは『さらば友よ』(1968)や『ジェフ』(1969)などを手がけた映画監督ジャン・エルマンのペンネームである、というのは、フランス映画に詳しい人ならよく知る事実だ。とはいえ彼の表現欲求を満たすのは当時のフランス映画界ではなかなか難しかったようで、わりと早い時期に小説家に転向している(脚本家としては活動)。これ以降、後進の“元同業者”たちによってヴォートランの作品はいくつか映像化されているのだが、その作品世界を完全に映像に置換するのはかなり至難の技と見えて、初期「映画秘宝」でも取り上げられていたイヴ・ボワッセ監督の『狼獣たちの熱い日』(1984)という、どうしようもなくいびつで、なおかつ忘れ去られた作品がわずかに知られているだけだ。なかでも『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』の映画化作品である『Billy Ze Kick』はファンでさえも観たことがない幻の作品であり、当然のごとく世間一般の評価も低い。しかしながら、あの途方もない文学をどうやって映像化したのか? という興味は抑えがたくあり、ファンとしては出来はどうあれ一度は観てみたい作品だった。その夢がまさか2015年の大晦日に叶うとは……。

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 ジェラール・モルディラ監督による映画版は完全にコメディとして撮られているので、原作の“団地ノワール”としてのグルーミーな味わい、アナーキーな異常性は消え失せている。悪意が肥大し加速していく、どす黒い痛快さみたいなものはあまりない。ただし、ストーリー展開と登場人物はわりと原作に忠実なので、エキセントリックな登場人物が入り乱れて不条理なミステリー劇が形成されていく面白さはある。鈴木清順とゴダールとジャック・タチを下品に混ぜ込んだような、原色をあしらった奇抜なセットやロケーション、作為的な構図やカット割りをこれでもかと重ねてくる演出(途中でいきなりPV風のミュージカル・パートが始まったりするあたり、いかにも80年代)が受け入れられれば、これはこれで楽しい。時折、本当にハッとするような演出もあるので、なかなか侮れない。

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 キャストも魅力的。なんといっても、物語のキーパーソンとなる危なっかしい夢想家の少女ジュリー・ベルトを演じるセリーズ・ブロックが素晴らしい。というか、この子、原作の単行本のカバーを飾っていた女の子ではないか! なんと知らずに映画版のヒロインと最初から出会っていたのだった。あの表紙の子が動いてる! というだけでも感動だ。さんざん人々の悪意を増幅し、挑発し、暴走していったあげくに彼女が迎える結末は、原作とはちょっと変えてあるが(でも「トリュック!」という名台詞はいっぱい言ってくれる)、これはこれでいい。

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 ほかにもジュリー・ベルトの母親ジュリエット(ジュジュ)役で、歌手でもあるザブー・ブライトマンが弾けた美貌と歌声を披露していたり、映画監督のイヴ・ロベールが立ち退きを拒否する偏屈老人を渋く演じていたり、彼に監禁されて発狂してしまう警察署長を名優ミシェル・ロンズデールが怪演していたりする。シャポー刑事役のフランシス・ペランは完璧にコメディ芝居なのでさすがにやりすぎの感はあるけれども、映画のアプローチから言ったら役割をきちんと果たしていると言える。

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 かなりヘンテコな映画だし、公開当時は観客からも原作読者からもそっぽを向かれたのもわかるが、ぐるっと回って今観ると面白い。原作とは別物の異貌のコメディとして、クライテリオンとかアロービデオあたりで発掘してブルーレイ化してくれないものだろうか?

▼劇中、唐突に始まるミュージカル・パート。だいたい全編こんな感じです。


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