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Simply Dead

映画の感想文。

『アポロジー 変質殺人者の告白』(1986)

『アポロジー 変質殺人者の告白』(1986)
原題:Apology

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 英国人監督ロバート・ビアマンが『バンパイア・キッス』(1989)で劇場長編デビューする前に撮り上げたTVムービー。『ザ・フライ』(1986)の監督に抜擢されながら、身内に不幸があったため降板することになったビアマンにとっては、初の商業用長編となった。当時できたばかりの有料チャンネル、HBOのオリジナル作品としてオンエアされ、内容・クオリティともに劇場作品と比べて遜色ない。

 舞台はニューヨーク。立体造形アーティストのリリー(レスリー・アン・ウォーレン)は、新たなプロジェクトの一環として「アポロジー」という伝言ダイアルを開設。そこで匿名の市民による罪の告白と謝罪の言葉を収集し、自身の立体アート作品の背景音に用いようと考えていた。「アポロジー」は早速、モダンな告解室のごとき活況を呈するが、ある日そのなかに連続殺人犯の赤裸々な罪の告白が紛れ込み始める……。

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▲アラン・ブリッジが実際に使用した「アポロジー・プロジェクト」のポスター

 1980年、ニューヨーク在住のコンセプチュアル・アーティスト、アラン・ブリッジは「アポロジー・プロジェクト」を開始する。これは留守番電話を利用して、ニューヨーク市民に「自らの身を危険にさらすことなく、己の罪を告白し、謝罪しよう」と呼びかける新時代の懺悔室のような試みだった。宗教組織や司法機関とは一切無関係に、なんのしがらみもなく人々が自らの罪を匿名で告白できるスペースとして、「アポロジー」ダイヤルは約15年間も稼働し続けたという(1995年、ブリッジがロングアイランドの海でダイビング中、ジェットスキーとの衝突事故で突然の死を遂げるまで)。

 1000時間以上にも及んだ自白のなかには、不倫、万引き、麻薬売買、儀式的殺人なども含まれていた。その一部はブリッジの雑誌に掲載され、また1984年に刊行されたキャンベル・ブラックのスリラー小説『Mr. Apology』の原案にもなった(ブラックは『殺しのドレス』『レイダース 失われた聖櫃〈アーク〉』のノヴェライズも手がけている)。TVムービー『アポロジー 変質殺人者の告白』はこの小説をベースにしており、映像化にあたってブリッジがわずかに得た収益はプロジェクト続行のために使われたという。

 映像化企画を立ち上げたプロデューサー陣は、脚本執筆を『愛は静けさの中に』(1986)の劇作家マーク・メドフに依頼。主人公は女性に改変され、80年代ニューヨークの若干バブリーで軽薄なアートシーンを反映したストーリーになった。監督にビアマンが雇われたのは、出世作の短編『The Dumb Waiter』(1979)でも顕著だったスリラー演出の巧みさと、当時のモダンアート業界を理解しつつ客観的視点で捉える若い感性が必要だったからだろう。なお、ロケ撮影のすべてをニューヨーク現地でまかなう余裕はなかったようで、カナダのトロントも主要ロケ地として活用されている。

 「町の洗浄」を目的に、ゲイの男性ばかりを狙って残虐な犯行を繰り返すシリアルキラーの造型は『セブン』(1995)の先取りとも言えるし、『クルージング』(1980)の影響下にあるとも言える。リリーはその血なまぐさい殺しの告白、というより謝罪に見せかけた自慢を一方的に聞かされる羽目になり、ついに殺人課の刑事ハンゲート(ピーター・ウェラー)に助けを求める。案の定、ふたりは道ならぬ恋に落ちるわけだが、リドリー・スコットの『誰かに見られてる』(1987)とは違って、あくまで物語の主体はリリー。クライマックスの対決も、ほぼリリーと殺人者の一騎打ちとして展開するところに、時代の変わり目を感じる。

 家庭よりもアートを選んだ離婚経験者であるリリーのキャラクター造型には、新鮮で現代的なリアリティをもつ女性主人公を提示しようという作り手の意欲が感じられる。別居生活を送りながらも良好な関係を築いている愛娘アナ(スカイ・バセット)との交流を描く手つきも細やかだ。おそらく『ザ・フライ』をビアマンが撮ったとしても、ジーナ・デイヴィスが演じたヴェロニカの存在感が際立った作品になったのではないだろうか(後任のデイヴィッド・クローネンバーグもその部分は疎かにしていないが)。リリーとアナが一緒に寿司レストランに行く場面などにも、同時代的な「新しさ」を採り入れようとする意欲が透けて見える。

 リリーが作り上げる立体アートは、人が通れるほどの巨大なトンネル状の透明チューブに数基の稼働型金属製ゲートが組み込まれ、そこに「アポロジー」の録音テープを被せるという大がかりなインスタレーション作品。この装置が予想どおり、リリーと殺人鬼が戦うクライマックスの舞台となる。正直、アートというよりは見世物的なバカバカしさのほうが勝る代物で、映画でアートを扱う難しさを思い知らせてくれる(ビアマンの視点は、むしろピーター・ウェラー演じる刑事のシニカルな態度のほうに近い気がする)。いわゆる「死の機械」的な禍々しさでも漂っていれば、後世の語り草にもなったかもしれない。リリーのキャラクターは『ハートに火をつけて』(1990)でジョディ・フォスターが演じた役も想起させるが、アートへの造詣とシンパシーに関しては、同作の監督・主演をつとめたデニス・ホッパーのほうが遥かに上だろう。

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 『ロボコップ』(1987)で有名になる前のピーター・ウェラーが現場主義的な若手刑事を颯爽と演じる姿も魅力的だが、チャールズ・S・ダットンやジョン・グローヴァーほか、今ほど知名度のない充実した助演陣がチラホラ顔を出すのも見どころ。リリーの住むアパートの階下に住み着く浮浪者を演じているのは、なんと『トーチソング・トリロジー』(1988)で映画界でも注目される前のハーヴェイ・ファイアスタインだ。えっ、こんな役をこんな芸達者が演じるなんて、何かヒネった展開があるのかな!?と思って観ていると、そんなことはなく……。演劇界ではとっくに認められていた才人も、映像業界ではまだ下積み扱いだったころの姿を垣間見られる、貴重作でもある。

 クールかつウェットな映像美で都市を捉えた撮影は、監督と同じく英国出身のフィル・メヒュー。『灰色の容疑者』(1989)から『復讐捜査線』(2010)まで、マーティン・キャンベル監督との長年にわたるコンビで有名だが、マイク・ホッジス監督の『モロン』(1985)なんていう珍品も手がけている。本作ではとりわけナイトシーンの美しさが印象に残るが、そのあたりは売れっ子CMディレクターでもあったビアマンのこだわりも強かったはずだ。ラストの大団円ショットなど、テレビムービーとは思えないほどゴージャスな照明設計にちょっと驚く(事件自体はもう終わってるのに!)。

 テレビとは思えないと言えば、残酷描写もなかなか過激。直接的な殺害シーンは少ないが、血まみれの惨殺死体はのっけから登場したりする。ケーブルTV黎明期の作品には、そういう「地上波では見られないハードさ」を売りにしたものも多かった(現在のHBOの基準ではちょっと難しいかもしれない)。

 日本ではかつてVHSが発売されたのみ。「日本昭和トンデモVHS大全」(辰巳出版)にサスペンスコーナーがあれば入れてもらってもよかったかもしれない。欧米でもディスク化されていないようなので、オリジナルのフィルム素材で高画質ソフト化してくれると嬉しい。

1986年アメリカ、カナダ/カラー/スタンダード/93分/TVムービー、ビデオ発売
監督/ロバート・ビアマン
原案・脚本/マーク・メドフ
撮影/フィル・メヒュー
音楽/モーリス・ジャール
出演/レスリー・アン・ウォーレン、ピーター・ウェラー、ジョン・グローヴァー、ジョージ・ロロス、ハーヴェイ・ファイアスタイン、クリストファー・ノース、スカイ・バセット
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『偽りの果て』(1947)

『偽りの果て』(1947)
原題:Non Coupable

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 町医者アンスラン(ミシェル・シモン)は、かつては名医と謳われたが現在は酒に溺れる毎日を送っている。献身的な愛人マドレーヌ(ジャニー・オルト)の支えなしには生きていけないような状態だ。その夜もアンスランは酒場で酔いつぶれ、マドレーヌが迎えに来る。その帰途、彼は酔ったまま車を運転し、夜道でバイクに乗った若者をはねてしまう。咄嗟の機転で証拠隠滅を図るアンスラン。翌日、その件は不運な事故として処理され、アンスランたちの関与は疑われなかった。

 うまく罪を隠しおおせた……この明晰な頭脳で! 私は決して「役立たずの酔いどれ」でも「終わったヤブ医者」でもない!と再び生きる情熱を取り戻したかのように、アンスランは次なる“完全犯罪”の好機を探し始める。

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 日本には伊藤雄之助、イギリスにはチャールズ・ロートン、韓国にはチェ・ブラムがいたように、どの国にも「唯一無二の存在感」をもつ孤高の名優たちがいる。フランスにおいては、ミシェル・シモンがその代表格ではないだろうか。ジャン・ルノワール監督の『素晴らしき放浪者』(1932)、ジャン・ヴィゴ監督の『アタラント号』(1934)といった名作で強烈なインパクトを刻み込まれた人も多いだろう。あご髭の似合う長さとデカさと丸みを兼ね備えた顔立ちは彫像にしたくなるほど立派な造形で、舞台においても抜群の存在感を発揮したであろう恰幅の良さ、朗々たる声音とセリフ回しは「怪優」の一語では片づけられない貫録があり、やはり稀代の名優と呼んで差し支えない。

 そして、エキセントリックな変わり者をこんなにも自然に悠々と演じられる人もいない(実生活でも奇人と呼ばれていたとか)。パトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』(1989)と同じ原作を持ちながら、まったく印象の異なるジュリアン・デュヴィヴィエ監督の傑作『パニック』(1946)では、群集心理の恐ろしさの標的となる街の変人を説得力たっぷりに、しかし切なさも滲ませながら見事に演じていた。

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 そんなミシェル・シモンの魅力を最大限に活かした、もはやアイドル映画のような一本が『偽りの果て』だ。彼が演じる町医者は、劣等感とプライドが常に内奥でせめぎあい、「このままでは人生終われない」と焦りながら、酒に頼らずにはいられない。シラフのときは貧しい患者から治療費を巻き上げることもできない善良な男だが、医療業界の堅苦しいルールをきらい、信憑性のない民間療法にも手を出しがちな自称自由人でもある。はぐれ者扱いされる現状にはそれなりの理由があるのだが、それにしても世間の評価が低すぎると感じている人物。確かに変人だが、平凡でもある。そんな人物が間違った情熱に憑かれ、間違った方向へドライブしていく様を、ミシェル・シモンは絶妙に演じる。事件捜査の進展具合を、本庁からやってきた刑事や知り合いの新聞記者にそれとなく聞き込むシーンの、ひそかなトキメキを滲ませる芝居は国宝級にキュートでもある。

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 主人公が追い求める「完全犯罪の快楽」とは、小さな田舎町に衝撃を与えるほどの事件を起こしながら、自らの存在をそこから完全に消すことだ。彼のなかで同等に燃え立つ「承認欲求」とは、完全に矛盾する。そのアンビヴァレンツにこの物語の面白さがあり、どこか現代に通じるテーマでもあるように思える。

 愛人マドレーヌの不貞という思わぬ事実は、アンスランに凡庸な嫉妬の感情を起こさせるが、それ以上に「よりよき完全犯罪」を遂行するためのモチベーションとなる。活き活きと計画に取り組むミシェル・シモンの表情は『ゴーン・ガール』(2014)のロザムンド・パイクにも重なって見えるほどだ。しかし、そんなことをしてまで守ったふたりの生活は、それまでとまったく違うもの(=冷たい支配と被支配)に変質してしまうのではないか? と、観る者にスムーズに疑念を抱かせるのも『ゴーン・ガール』的に巧い。冒頭の酒場のシーンで、一見みじめに落ちぶれたように見えながら、寄り添い支え合うふたりの姿を目撃しているだけに。

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 そして本作はフィルムノワールでもあるので、主人公にとって最も皮肉な「罰」がラストシーンに訪れる。無名であることを恐れるな、というようなメッセージはいつの世にも有効なものだ。これと似た結末をまったく違ったニュアンスで描いた、クロード・シャブロルの『一寸先は闇』(1971)も併せて観たくなる。

 監督のアンリ・ドコアンは戦前から活躍するベテラン映画人だが、本作『偽りの果て』をはじめ、犯罪/ノワールものも多数手がけている。ジョルジュ・シムノンの原作をアンリ=ジョルジュ・クルーゾーが脚色した『家の中の見知らぬもの』(1942)、潜入捜査官を描くギャングノワールの古典『筋金〈ヤキ〉を入れろ』(1955)など、ほかにもいろいろ観たくなった。

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・Amazon.co.jp
DVD「〈フランス映画パーフェクトコレクション〉フィルム・ノワール 偽りの果て」(コスミック出版)
※『偽りの果て』『カルタの裏』『裁きは終りぬ』『サンタクロース殺人事件』ほか10作品収録

1947年フランス/モノクロ/スタンダード/93分/劇場未公開・TV放映
監督/アンリ・ドコアン
脚本/マルク=ジルベール・ソヴァジョン
撮影/ジャック・ルマール
出演/ミシェル・シモン、ジャン・ドビュクール、ジャニー・オルト

『屋根の上の赤ちゃん』(1969)

『屋根の上の赤ちゃん』(1969)
原題:Daddy's gone a-hunting

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 イギリスから新天地アメリカにやってきたキャシー(キャロル・ホワイト)は、サンフランシスコ国際空港の出口で、いきなり雪玉をぶつけられる。投げてきたのはケネス(スコット・ハイランズ)という無邪気で魅力的な青年だった。ふたりは惹かれ合い、同棲生活を始める。キャシーは勤め先として広告会社をケネスに紹介され、彼女はそこから着実にキャリアを積み重ねていく。一方、売れっ子カメラマンを目指すケネスはなかなか芽が出ない。生活力がなく子供じみた甘えが抜けない彼に対し、キャシーの愛情が冷め始めたころ、妊娠が発覚。こんな状況で出産したくないというキャシーの主張を、ケネスはまるで聞かずに「立派な父親になってみせるさ!」と豪語するばかり。不安に苛まれるキャシーは職場の先輩の勧めで堕胎手術を受け、その事実をケネスに告げる。絶望した彼は彼女のもとを去り、ふたりの恋は終わった。その後しばらくして、キャシーは有望な若手政治家バーンズ(ポール・バーク)と出会い、結婚する。

 そして、キャシーは再び妊娠する。

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 男性ストーカーの恐怖を描いたという点で先鋭的だった本作は、のちにB級ジャンルムービーの巨匠として名を馳せる若き脚本家ラリー・コーエンが、その才気を発揮した初期作である。もともとはアルフレッド・ヒッチコック監督のために書かれたシナリオだったそうで、言われてみれば『めまい』(1958)や『サイコ』(1960)を思わせる箇所もあり、都市生活者である若い女性を主人公にした異常心理犯罪スリラーはいかにもサスペンスの巨匠好みの内容だ。後半、誘拐事件の捜査にあたる刑事たちの描写は、黒澤明の『天国と地獄』(1963)も想起させる(さほど役には立たないが)。

 しかし、コーエン渾身の脚本はヒッチコックの琴線には触れなかったらしく、代わって製作・監督に乗り出したのがベテラン職人監督のマーク・ロブソンだった。犯罪ノワールの拾い物『恐怖の一夜』(1950)の頃のシャープな演出はどこへやら、直近のヒット作『哀愁の花びら』(1967)のメロドラマ調を引きずった、もったりとしたスリラー演出に60年代末期のハリウッドの低調ぶりを見る思いだが、シナリオの面白さにかろうじて救われている。

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 チャーミングな悪戯っ子のように登場し、最終的には「赤子殺し」という重罪をナチュラルに企てるケネスを演じるのは、カナダ出身の若手俳優スコット・ハイランズ。二代目アンソニー・パーキンスを狙って残念ながら外してしまったような感もあるが、本作における狡猾かつチャイルディッシュ、薄気味悪くてタチの悪いストーカー演技は、けだし妙演といえよう。奔放とも病的とも受け取れる男性性を振りまくケネスの言動は、『サイコ』のノーマン・ベイツとはまた違った生々しさがあり、時にはうんざりするような自戒も込みで「男って昔から……」と嘆息させられる。

 初対面の相手にいきなり雪玉をぶつけて悪ふざけで済ませてしまう身勝手さ、小動物をいじめて遊ぶような小児的残酷性、立入禁止の高層ビルの屋上に平気で登っていく(しかもデート中に)根拠のない万能感に裏打ちされた危なっかしさ……といったサイコな性格描写の積み重ねは、今見ても十分にリアルな不安を誘う。特にキャシーが深刻な面持ちで妊娠を告げようとするシーンの直前、ケネスが上半身裸でベッドに寝転がって紙ヒコーキで遊んでいる描写は、観る者すべてに「ダメだこりゃ」と思わせる秀逸なシーンである。

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 健全で裕福な家庭環境を得て、今度こそ赤ちゃんを産むことを決意するキャシーの前に、病的な元カレ=ケネスの不穏な影がちらつく。最初はヒロインの妄想かとも思えるケネスの輪郭は徐々に明確となり、ついには産婦人科の待合室で彼女の夫バーンズと平気で会話を交わすほど大胆になる。この場面で、ケネスがさらりと口走る「Welcome to the club.」というセリフは、日本語で言えば「御同輩ですな」みたいな慣用句だが、もちろん二重の意味がある。バーンズは「父親仲間」だと思っているのに対し、ケネスのほうは「同じ女を取り合う者同士」「これから自分の仕掛けたゲームに引っ張り込む相手」として喋っているわけである。このように重層的でウィットを含んだセリフやシチュエーションを巧妙に散りばめているあたり、いかにも「脚本家の映画」という感じだ。

 このあたりのダークなウィットは、リライトを担当した共同脚本のロレンツォ・センプル・ジュニアが加えたのかもしれない。彼もまたコーエンと同じくテレビ業界で活躍したのち、一風変わったサイコスリラー『かわいい毒草』(1968)で映画界でも注目された。妄想と現実の区別がつかないナイーブな青年アンソニー・パーキンス(!)が、狂気の小悪魔的少女チューズデイ・ウェルド(!!)に翻弄される『かわいい毒草』は、ハーレイ・クインに翻弄されるジョーカーの物語のようでもあって、テレビの実写版『バットマン』の主力ライターでもあったセンプルのコミックセンスが垣間見えるキュートな怪作である。

 シドニー・ポラック監督&ロバート・レッドフォード主演コンビの『コンドル』(1975)も、センプルによる初期稿はもっと荒唐無稽な活劇寄りのシナリオだったというし(序盤のコミカルさと残酷さが入り混じるタッチはそれっぽい)、その後はディノ・デ・ラウレンティスのお気に入りとして『キングコング』(1976)や『フラッシュ・ゴードン』(1980)も手がけている。『屋根の上の赤ちゃん』でも、サスペンスを増強しつつ「遊び」の要素も加えるために呼ばれたのではないだろうか。キャシーが不安から来る苛立ちを、イルサというベタな名前の家政婦さんに何度もぶつけてしまうくだりなどは、ラリー・コーエンっぽくない気がする。同じ移民同士なのに……という皮肉なユーモアが効いているが、おそらくシナリオほど愉快な場面にはなっていない。

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 生まれたばかりの赤ん坊をケネスにさらわれ、狼狽しつつも最終的には夫や警察に頼らず独力でカタをつけようと奮闘するキャシーのキャラクターは「戦うヒロイン」の原型とも言える。生き馬の目を抜く大都会で自立し、若くして社会的成功を掴む女性という主人公の造型も、当時の時代感覚を投影したものだろう。その主人公が自らの意志で堕胎手術を受けるというくだりも、当時としては踏み込んだ描写だったはずだ。ただし、マーク・ロブソンの演出には堕胎という行為自体にやや否定的なニュアンスが含まれており、ヒロインがその過去に(おそらく多分に倫理的な、または一般的宗教的価値観に基づく)罪悪感を抱き続けている描写など、別の意味で時代性を感じさせる部分もある。キャシーが英国人であるという設定も、この役がハリウッドのトップ女優たちに敬遠されたせいだろうか。

 主人公キャシーを演じているのが、キャロル・ホワイトであるというのも映画史的に重要なポイントだ。彼女の起用は言うまでもなく、ケン・ローチ監督の長編映画デビュー作『夜空に星のあるように』(1968)で労働者階級のシングルマザーを演じた実績ありきだろう(ちなみに『屋根の上の赤ちゃん』は1950~70年代の北米に存在した大手劇場チェーン、ナショナル・ジェネラル・コーポレーションの自社配給作品で、『夜空に星のあるように』も同社配給で前年に米国公開されている)。ケン・ローチ以上に期待の新星として注目されたホワイトは、早々にハリウッド進出を果たしながらも、その真価を発揮することはできなかった。ショービジネスの世界で身を持ち崩した彼女は、ついに出世作を凌ぐ成功を掴むことなく、1991年に48歳という若さで世を去ってしまう。彼女を手放してしまったケン・ローチも、回顧インタビューなどでことあるごとにその才能の損失を嘆いている。

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 1969年当時のハリウッドでは珍しく先進的/同時代的なヒロイン役を得たはずの『屋根の上の赤ちゃん』でも、残念ながらホワイトの芝居は冴えない。表情はいいが、セリフに覇気がない。ケン・ローチ仕込みの抑制のきいたリアルな芝居を試みたのかもしれないが、古くさい定型ではあってもエネルギッシュな芝居が要求される娯楽映画工場=ハリウッドにおいては通用するはずもなく、ましてや(当時から古色蒼然の気配が色濃かったであろう)マーク・ロブソンの伝統的スタジオ・ムービー志向のもとではぎこちなく浮くか沈み込むほかない。それでも、キャシーが我が子の奪還をがむしゃらに試み、マーク・ホプキンス・ホテルの屋上で直接対決に至るクライマックス近辺には、彼女のパワフルな生命力あふれる資質が(ようやく)表れている。

 本作から2年後、クリント・イーストウッドは女性ストーカーを描いた『恐怖のメロディ』(1971)で鮮烈な監督デビューを飾る。さらに16年後、その焼き直しと言える『危険な情事』(1987)が世界的に大ヒットし、「怖い女」を主題としたスリラージャンルが確立された。しかし『屋根の上の赤ちゃん』で描かれたような(実社会ではより現実的であったはずの)、男性による女性へのファナティックなストーキング行為、あるいは支配的なハラスメントを扱った犯罪スリラーはあまり作られてこなかった。2022年現在、『ドント・ウォーリー・ダーリン』や『MEN 同じ顔の男たち』といった「有害な男性性」を描いた作品が相次いで公開される今こそ、本作は再評価されるべきなのかもしれない。そして現代的視点できちんと注意深くリメイクすれば、今度こそ傑作が生まれる可能性もある。

 ワーナーアーカイブから2012年に発売された日本版オンデマンドDVDは、すでに廃盤。とりあえず再販を望む。

・DVD Fantasium
『屋根の上の赤ちゃん』DVD-R(Warner Archive)

1969年アメリカ/カラー/ヴィスタ/108分
製作・監督/マーク・ロブソン
脚本/ラリー・コーエン、ロレンツォ・センプル・ジュニア
撮影/アーネスト・ラズロ
音楽/ジョン・ウィリアムズ
出演/キャロル・ホワイト、スコット・ハイランズ、ポール・バーク、マーラ・パワーズ、ジェームズ・B・シッキング、マチルダ・カルナン
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