Simply Dead

映画の感想文。

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『Billy Ze Kick』(1985)

『Billy Ze Kick』(1985)

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〈おはなし〉
 パリ効外の団地で、結婚式を挙げたばかりの花嫁が射殺された。現場にはビリー・ズ・キックと名乗る犯人の大胆不敵な声明文が……それを知ったシャポー刑事(フランシス・ペラン)は驚愕する。なぜならビリー・ズ・キックとは、彼が娘のジュリー・ベルト(セリーズ・ブロック)を楽しませるために作り上げた架空の人物だったからだ! 次々と女たちが殺され、右往左往するシャポー刑事。ジュリー・ベルトは精神分裂症の青年ヒッポと結託し、過激な遊びに熱中する。そしてシャポーの妻のジュリエット(ザブー・ブライトマン)はブローニュの森で春を売り、同じ団地に住む弁護士と関係を持つ。住人たちの脳内でビリー・ズ・キックの存在は膨れ上がり、事件は予想外のクライマックスに向けて疾走する。

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▲『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』単行本カバー

 世界一好きな小説家は誰か? と尋ねられたら、ジャン・ヴォートランの名前は間違いなく出てくる。今年6月、82歳で世を去ったフレンチ・ノワールの鬼才である。特に、いちばん最初に読んだ『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』の面白さは衝撃的だった。とことん暴力的でイカれてて、なのに笑えて愛らしくて、老若男女に対して平等に冷酷。悪意とチャーミングさを兼ね備えた作風はあまりに自分の好みと合致しすぎて、「もう小説ってのはこれさえ読んどきゃいいんじゃないか?」とさえ思った。その後、ヴォートランと同世代の新世代ノワール作家たちを追いかけたりしたが、やっぱり面白さでいえばヴォートランが断トツだった。

 ジャン・ヴォートランは『さらば友よ』(1968)や『ジェフ』(1969)などを手がけた映画監督ジャン・エルマンのペンネームである、というのは、フランス映画に詳しい人ならよく知る事実だ。とはいえ彼の表現欲求を満たすのは当時のフランス映画界ではなかなか難しかったようで、わりと早い時期に小説家に転向している(脚本家としては活動)。これ以降、後進の“元同業者”たちによってヴォートランの作品はいくつか映像化されているのだが、その作品世界を完全に映像に置換するのはかなり至難の技と見えて、初期「映画秘宝」でも取り上げられていたイヴ・ボワッセ監督の『狼獣たちの熱い日』(1984)という、どうしようもなくいびつで、なおかつ忘れ去られた作品がわずかに知られているだけだ。なかでも『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』の映画化作品である『Billy Ze Kick』はファンでさえも観たことがない幻の作品であり、当然のごとく世間一般の評価も低い。しかしながら、あの途方もない文学をどうやって映像化したのか? という興味は抑えがたくあり、ファンとしては出来はどうあれ一度は観てみたい作品だった。その夢がまさか2015年の大晦日に叶うとは……。

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 ジェラール・モルディラ監督による映画版は完全にコメディとして撮られているので、原作の“団地ノワール”としてのグルーミーな味わい、アナーキーな異常性は消え失せている。悪意が肥大し加速していく、どす黒い痛快さみたいなものはあまりない。ただし、ストーリー展開と登場人物はわりと原作に忠実なので、エキセントリックな登場人物が入り乱れて不条理なミステリー劇が形成されていく面白さはある。鈴木清順とゴダールとジャック・タチを下品に混ぜ込んだような、原色をあしらった奇抜なセットやロケーション、作為的な構図やカット割りをこれでもかと重ねてくる演出(途中でいきなりPV風のミュージカル・パートが始まったりするあたり、いかにも80年代)が受け入れられれば、これはこれで楽しい。時折、本当にハッとするような演出もあるので、なかなか侮れない。

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 キャストも魅力的。なんといっても、物語のキーパーソンとなる危なっかしい夢想家の少女ジュリー・ベルトを演じるセリーズ・ブロックが素晴らしい。というか、この子、原作の単行本のカバーを飾っていた女の子ではないか! なんと知らずに映画版のヒロインと最初から出会っていたのだった。あの表紙の子が動いてる! というだけでも感動だ。さんざん人々の悪意を増幅し、挑発し、暴走していったあげくに彼女が迎える結末は、原作とはちょっと変えてあるが(でも「トリュック!」という名台詞はいっぱい言ってくれる)、これはこれでいい。

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 ほかにもジュリー・ベルトの母親ジュリエット(ジュジュ)役で、歌手でもあるザブー・ブライトマンが弾けた美貌と歌声を披露していたり、映画監督のイヴ・ロベールが立ち退きを拒否する偏屈老人を渋く演じていたり、彼に監禁されて発狂してしまう警察署長を名優ミシェル・ロンズデールが怪演していたりする。シャポー刑事役のフランシス・ペランは完璧にコメディ芝居なのでさすがにやりすぎの感はあるけれども、映画のアプローチから言ったら役割をきちんと果たしていると言える。

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 かなりヘンテコな映画だし、公開当時は観客からも原作読者からもそっぽを向かれたのもわかるが、ぐるっと回って今観ると面白い。原作とは別物の異貌のコメディとして、クライテリオンとかアロービデオあたりで発掘してブルーレイ化してくれないものだろうか?

▼劇中、唐突に始まるミュージカル・パート。だいたい全編こんな感じです。


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『ブラック・パンサー』(1977)

『ブラック・パンサー』(1977)
原題:The Black Panther

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 ブラック・パンサーといっても、有名なアメリカの黒人解放運動組織のことではない。1972年から1975年の間、イギリスで強盗殺人を繰り返した元軍人の凶悪犯ドナルド・ニールソンの異名である。本作はその犯行を生々しいタッチで描いた実録犯罪スリラー映画。これが監督デビュー作となったイアン・メリックの演出は、陰湿さと寒々しさに溢れ、英国スリージーホラーの味わいとソリッドな実録犯罪映画のテイストを併せ持っている。残念ながらイギリス国内での公開当時はマスコミに「病的」と酷評され、興行的にも振るわなかった。

 日本では『ブラック・パンサー』または『ブラック・ハンター/16歳少女戦慄の全裸死体』という題でTV放映。本国イギリスでも長らく映画史の闇に葬り去られていたが、昨年、Bfi videoの旧作発掘レーベル「Flipside」からBlu-ray & DVDのカップリング盤が発売された。モデルとなったドナルド・ニールソンが2011年に獄中死したのも、ソフト化できた理由のひとつだろう。

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 ドナルド・ニールソンはかつて英国軍特殊部隊の一員として国家に身を捧げ、情け知らずの殺人マシーンとして育て上げられた男。除隊して起業したあとも軍隊式の自主トレを続け、家庭内では妻と娘に対して強権的なスパルタ親父を演じている。が、実は事業に失敗し、現在は無職。自室にこもって強盗計画を練り上げ、夜になると黒づくめの武装スタイルで獲物を狩りに行くのだった。

 映画は、ニールソンが犯行を重ねていく数年間の行動をつぶさに描いていく。監督のイアン・メリックは、いわゆるエクスプロイテーション映画寄りの脚色は避け、事実を淡々と追うスタイルを貫くよう脚本家に指示。かくしてシナリオの3分の1は犯人の下準備とトレーニングの描写に割かれ、構成は極めてシンプルに、台詞もとことん切り詰められた。全編に冷徹な観察眼が貫かれ、犯人はもちろん、被害者にも司法にも肩入れすることはない。

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 面白いのは、犯人がどれだけ用意周到・準備万端で犯行に臨もうと、実際にその場で起こる「不測の事態」にはまるっきり対処できず、毎回パニックと勝手な逆ギレを繰り返し、無用な人死にを出しまくるという描写だ。過剰な武装スタイルで民家や郵便局に押し入り、居合わせた人間を慌てて殺してしまうくだりの唖然とするようなドタバタ感。女子高生を誘拐して身代金をせしめようとするが、単純な計画ミスで金の受け取りに失敗してしまう、どうしようもない残念感(それゆえ少女は殺風景な貯水タンクのなかで殺されることになる)。そこには、間抜けさゆえの生々しいリアリティがある。

 軍隊仕込みの殺人スキルも、実社会ではまるで役に立たない。ニールソンは、兵士としては有能だった自分の能力を誇示するかのように、プロ意識をもって「完璧な計画」を組み立て、犯行に臨む。それが浅はかな素人考えでしかないことには気づかぬまま。いくら靴の中にカミソリを仕込んでみたり、銃を改造してズボンの中に隠してみたりしてみても、所詮はボンクラの一人遊びにすぎない(鏡の前で射撃練習をするシーンは『タクシードライバー』を意識した演出だろう)。あげく、誘拐殺人という最悪の結果を招くことになる。

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 偶然の積み重ねによって(といっても十分に予想できる範囲内のことばかりなのだが)むざむざ計画が失敗に終わったとき、子供が駄々をこねるようにわめきちらすニールソンの姿は、本当に恐ろしい。こんなバカバカしいことで取り返しのつかない惨劇が起きてしまうのか……というショックと、こんな人、世の中にたくさんいるんだろうな……という戦慄だ。主演のドナルド・サンプターは終始ピリピリした雰囲気を放ちながらニールソンを怪演。軍隊によって作り上げられた殺人マシーンのなれの果てともいえるキャラクターには、『フルメタル・ジャケット』(1987)にも通じる恐ろしさと物悲しさが漂う。

 本作の陰鬱なムードと寒々しいルックは、イアン・メリック監督曰く、当時のイギリス社会を覆っていた不穏な空気を反映してもいるそうだ。深刻な政情不安と経済不況が、どんづまりの息苦しさを映画に付与することに貢献している。つまり、いまの日本でも楽々作れるということだ。不景気風にあてられすぎて殺気立ったニールソン予備軍はそこらじゅうに溢れている(反韓デモに集まる奴らとか)。

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 ジョアンヌ・レイトンの草稿をもとに脚本を執筆したのは、マイケル・アームストロング(またの名をセルジオ・カストナー)。デイヴィッド・ボウイが出演した短編映画『The Image』(1967)で監督デビューし、拷問映画のクラシック『残酷!女刑罰史』(1970)の監督・脚本を手がけた。その他の脚本作品に『魔人館』(1983)や『スペースバンパイア』(1985/ノークレジット)などがある。撮影を手がけたのは『スクワーム』(1976)『アリゲーター』(1980)『ジャンク・イン・ザ・ダーク』(1982)のジョー(ジョゼフ)・マンジン。ビデオバブル時代の生んだ駄作と悪名高い『ネオン・マニアックス』(1986)の監督でもある。ホラー映画界の名士たちが顔を揃えているものの、ジャンル愛好家を喜ばせるような茶目っ気は、本作にはない。

 製作・監督のイアン・メリックは、アメリカで独立系映画製作者としてジョン・G・アヴィルドセン監督の『泣く女』(1971/ビデオ題:ピンク・ハードボイルド アブノーマル殺人事件)などをプロデュースしていた人物。彼は故郷イギリスでも低予算インディペンデント映画の製作システムを確立するべく、本作『ブラック・パンサー』の製作に着手。しかし、作品の興行的・批評的失敗によって、英国内でのビジネスからは撤退を余儀なくされる。その後はアメリカに戻り、フランシス・フォード・コッポラ主宰のアメリカン・ゾエトロープ社や、ヘムデール社などで働いていたそうだ。

・Amazon.co.uk
『The Black Panther』Blu-ray+DVD(英国盤)

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『マーガレット』(2011)

『マーガレット』
原題:Margaret(2011)

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 ある日、自らの過失がもとで見知らぬ他人を死なせてしまった17歳の少女。その苦悩と葛藤を、上映時間150分という長尺を費やしてじっくりと見つめた骨太のヒューマンドラマ。監督・脚本を手がけたのは、アカデミー最優秀脚本賞・主演女優賞にノミネートされた『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』(2000)のケネス・ロナガン。『ピアノ・レッスン』(1993)のアンナ・パキンが等身大のリアリティをもって主人公を熱演し、その脇をマット・デイモン、ジャン・レノ、マシュー・ブロデリック、キーラン・カルキンといった錚々たる面子が固めている。

 本作はその内容以前に、公開までの複雑な道のりで有名になった。撮影は2005年に行われたが、そこから6年間もオクラ入りにされたのである。監督のロナガンは3時間バージョンでの公開を望んだが、製作会社のフォックス・サーチライトはこれを拒否。再編集を巡るゴタゴタが何年も続き、結局は『ユー・キャン・カウント~』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2001)でロナガンと仕事をしたマーティン・スコセッシが助っ人を買って出て、名編集者セルマ・スクーンメイカーとともに150分の劇場公開版を編集した。日本でDVDリリースされているのは劇場版で、アメリカで発売されたBlu-rayとDVDのカップリング盤には、3時間のディレクターズ・カットも収録されている。

 さらに、プロデューサーが製作費をスタジオに払えず訴訟問題となり、厄ネタとして放置されている間、同じく製作に名を連ねるアンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックが死去。結構な業を背負った作品であり、ストーリー的にもまた一筋縄ではいかない。ちなみにタイトルの由来は、劇中の1シーンに登場するジェラルド・マンリー・ホプキンスの詩「Spring and Fall」から。舞い散る落ち葉に悲しみを覚えるマーガレットという幼子に、語り手が「枯れゆくさだめは生きるものの営みであり、その悲しみはおまえ自身に向けられたものなのだ」と諭す、というような内容である。

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〈おはなし〉
 ニューヨークの私立高に通う17歳の女子高生リサ(アンナ・パキン)は、舞台女優の母親ジョーン(J・スミス=キャメロン)と、幼い弟とともに、マンハッタンで何不自由ない生活を送っていた。ある日、彼女は西海岸に住んでいる父親との旅行にテンガロンハットを被っていこうと思い立ち、ショッピングに出かける。その途中、リサはバスの運転手(マーク・ラファロ)がテンガロンハットを被っているのを見かけ、歩道から「素敵な帽子ね!」と声をかける。彼女の声が聞こえない運転手は、手を振って笑いかける。目の前に、横断歩道を渡ろうとする中年女性(アリソン・ジャニー)がいたことには気づかず。

 次の瞬間、バスは女性を真正面から轢き潰す。タイヤが脚を引きちぎり、大量の血が道路に溢れる。リサは絶叫し、慌てて女性のもとへ駆けつけ、その血まみれの体をかき抱く。出血多量のせいで意識が混乱した女性は、リサを自分の娘と勘違いしながら息絶えた。警官に事故の原因を訊かれたリサは、とっさに「被害者の女性が信号を無視したせいです」とウソをつく。それは不憫な運転手を守るためであり、自分を守るためでもあった。

 それからしばらく、リサはいつもと変わらぬ日常を取り戻そうとしながら、落ち着かない日々を過ごす。ディベートの授業で必要以上に激しい議論を展開したり、ボーイフレンド以外の同級生(キーラン・カルキン)に処女を捧げたり、事故後のPTSDを心配する若い教師(マット・デイモン)に色目を使ったり。最近、新しい恋人(ジャン・レノ)ができた母親との溝も、どんどん深まっていくばかり。

 良心の呵責に耐えかねたリサは、ついに真実を告白することを決意する。悪いのは、事故死した女性ではない。あのバスの運転手なのだ、と。リサは死んだ女性の親友エミリー(ジェニー・バーリン)のもとを訪ね、ふたりで訴訟を起こす手続きを始める……。

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 ……上記のあらすじを読んだ方も、そして実際に映画を観た方でさえも「一体なんでこんな話を2時間半もかけて描いてるんだ?」と思うのではないか。日本版DVDのジャケットには「心揺さぶられるヒューマンドラマ」とか「真実は、私の闇に光を与えた」といった文句が並んでいるが、全然そういう映画ではない。むしろ自分の中にある真実から目を背けるために、ものすごい勢いで目を曇らせる女の子の物語であって、ストレートな意味での感動作とはかけ離れている。では、これは何についての映画なのか?

 おそらく、これはブッシュ政権時代のアメリカについての物語である。主人公リサは、自らの過失が遠因となって起きた惨事(つまり9.11テロ)に胸を痛め、最初は自己嫌悪と罪悪感に苛まれるが、やがて精神学用語でいうところの「防衛機制」が発動すると、責任を他に求めて自己正当化を図る(つまりイラク戦争)。いかに自分が傷ついた人間であるかをアピールし、周囲を籠絡し、自らの罪を棚に上げて一方的な「正義の戦争」を繰り広げる。その内面は完全に混乱しているのだが、本人も自己欺瞞に溺れるうち、その嘘を自ら信じ込んでしまうのだ。ケネス・ロナガンは、ひとりの愚かな少女の言動を通して、この映画が製作された当時のアメリカの病理を浮き彫りにしてみせた。その愚かさを全身全霊で演じきったアンナ・パキンの熱演が凄まじい。もし本作が順調に公開されていれば、主演女優賞のひとつやふたつは間違いなく獲得していただろう。

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 ただ、先述のとおり本作は編集段階のトラブルで長らく塩漬けにされ、その間にアメリカはブッシュからオバマ大統領に政権交代。サブプライムローンやリーマンショックといった新たな社会問題が浮上し、他に責任転嫁するどころではなくなってしまった。だから今となっては、メタファーとして伝わりづらくなってしまった感は否めない。

 ドラマとしても、煮え切らなさが残る。ヒロインがひたすら保身と欺瞞と混乱にまみれていく展開は、長尺を感じさせないドライブ感に溢れ、すこぶる面白いのだが、物語の決着が明らかに弱い。それはとりもなおさず、製作時にはアメリカという国の行方がどうなるのか作り手にも見えなかったからだろう。しかし、中途半端な救済を描いて落とすくらいなら、途中でブチッと終わってしまってもよかった気がする(繋ぎ方がものすごく無感動なのは、スコセッシの意図だろうか)。あるいは、3時間のディレクターズ・カット版を観れば、また印象は変わるのかも?

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 ともあれ『マーガレット』は大変な意欲作である。ある時代の空気を切り取ったモニュメントとしても、また「罪から目を背けるという罪」を容赦なく描いた普遍的な人間ドラマとしても、多くの人の目に触れてしかるべき重要作だと断言できる。正直、いまの日本だって、本作が描いているものと大差ない、ロクでもない論法で動いていると思うから。

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DVD『マーガレット』

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