Simply Dead

映画の感想文。

『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(2008)

『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』
原題:Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull(2008)

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 面白かったけど、つまらなかった。ひとつひとつの見せ場は遊園地のアトラクション的に楽しくて、さすがスピルバーグという感じなのだけど、全体としては面白みに欠ける。準備段階でさんざん難航した挙げ句、ひたすら軽いコミカルな方向へえいやっ! と振ってしまったことで、前3作にあったドラマ性や、味のあるキャラクター造形なども放棄してしまった。シリーズ4本中ではまず一番の凡作になったと思う。

 前作から19年を経て帰ってきたインディ・ジョーンズ=ハリソン・フォードは、渋みを増すどころか、落ち着きのないアクションと説明台詞にてんてこまいするコメディリリーフになっていた。1作目のヒロイン、カレン・アレンとの意外な再会も、それほどは盛り上がらない。シャイア・ラブーフ、ケイト・ブランシェットはよく頑張っている。ジョン・ハートもいいが、前作のデンホルム・エリオットと比べてしまうと、なんともしどころのない役だ。レイ・ウィンストン演じる新キャラに至っては全く意味不明。ジョン=リス・デイヴィスの存在感が恋しい。

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 とにかく全編ワクワクしないのはなぜだろう。ジョン・ウィリアムズの音楽や、おなじみのパンチ音のSEにはグッとくるが、長続きする感覚ではない。それよりも、イイ歳したおじいちゃんたちが無理して若ぶる悲惨さ、みたいな感じが終始つきまとう。スピルバーグ映画の観客としても『宇宙戦争』や『ミュンヘン』(共に2005年)を経た後では「何を今さらこんな幼稚な……」と思わずにいられない。扱っているネタ自体、わざわざ『インディ・ジョーンズ』の新作でやることとは思えない陳腐なものだからだ。ジョージ・ルーカスのセンスはもう致命的なところまで来てるなあ、と改めて思った。

 脚本はデイヴィッド・コープ。個人的に好きな脚本家/監督ではあるけど、どうも『インディ・ジョーンズ』とは相性が合わない気がした。ねじくれた悪意とシニシズムが前面に立ちすぎているような感がある。冒頭の核実験のシークエンスとか、ちょっとアンマリだと思った。ここはやっぱりローレンス・カスダンとかに王道の冒険活劇を書いてもらいたかった。しかし、昨今の映画界ではトレンドスポットである南米を舞台に選び、『アポカリプト』(2006)ライクなスペクタクルを繰り広げるあたり、さすがの目利きである。そういえばデビュー作の『アパートメント・ゼロ』(1988)もブエノスアイレスが舞台だった。

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 正直、随分と時間のかけられた作品のわりには、肩透かし感は否めない。とはいえ、上映時間中は何をしてでも楽しませるという娯楽職人スピルバーグの矜持は、今回も保たれている。長年の『インディ』ファンは、センチメンタルな期待感いっぱいで観に行くより、思いがけない余禄に出会えたような気楽なノリで観た方がいい。「まあ4本もあれば1本くらいはこういう感じもアリか」ぐらいの気分で帰れるから。

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『イースタン・プロミス』(2007)

『イースタン・プロミス』
原題:Eastern Promises(2007)

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 凄かった。いつの間にかマーティン・スコセッシを飛び越えて「暴力映画の巨匠」になってしまったデイヴィッド・クローネンバーグ監督の新作は、前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005)同様、やはり「凄い」としか言いようのない傑作だった。

 クローネンバーグはこれまで主にSFやホラーといったジャンルで、肉体の内側と外側、あるいは理性と本能の相剋・葛藤を描いてきた。しかし、彼は今回もまた前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に引き続き、より具体的な闘争の場=犯罪社会へと踏み込む。平和な日常と、その隣り合わせに存在する暴力的世界の摩擦と衝突を、さらに過激にエスカレートさせていくのだ。

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 『イースタン・プロミス』は、英国ロンドンのロシアン・コミュニティという、あまり目にしたことのない世界の暗部にメスを入れた強烈な物語である。ナオミ・ワッツ扮する助産婦のアンナは、赤ん坊を産んで死んだロシア人少女の日記を手にしたことから、マフィアが取り仕切る売春ビジネスや人身売買の実態を知ることになる。そして、彼女はひょんなことからマフィアの運転手ニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)と奇妙な交流を深めていく。非情さと優しさを併せ持つ、不思議な魅力を湛えた彼の正体とは……。

 『堕天使のパスポート』(2002)の脚本家スティーヴ・ナイトによるシナリオは、ジャンルとしては「社会派バイオレンス・スリラー」になるのかもしれないが、クローネンバーグの演出は単純なジャンル分けを許さない。特に強烈なインパクトを与えるのが、ホラー映画とまるで変わらないどぎつさで、ひたすら明確に映し出される人体破壊描写の数々だ。クローネンバーグにとっては新機軸と云っていい本格ギャング映画である本作でも、暴力の恐怖を伝えるために、グロテスクな破壊の瞬間そのものをしかと見せつけるダイレクトなホラー演出が相変わらず駆使されているのが面白い。同じくホラー・ジャンル出身のステュアート・ゴードン監督による『King of the Ants』(2003)にも通じる感覚だと思った。

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 そんな明確さに反するように、ストーリーはぎりぎりまでシンプルに削ぎ落とされる……クローネンバーグ作品におけるシンプリシティは、往年の職人監督がするように分かりやすさを目的とはしておらず、観客の知性を試す種類のものだ。その無駄のなさを通り越した省略語法は『スキャナーズ』(1981)から変わっていない。

 しかしながら、この映画的成熟はどうしたことか。語り口はいつものクローネンバーグだが、シナリオの新鮮な衝撃性、常連スタッフによる素晴らしい仕事も含めて、とてつもない豊かさと成熟が感じられる。軽いユーモアも交えた深みのある人物描写、ロシア語をマスターした名優たちの見事な演技、リアルな美術セットや風俗のディテールなど、映画の各部がこれまでで最高と云っていいくらいの高みに達している。

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 とにかくもう、ヴィゴ・モーテンセンが素晴らしい。強烈なカリスマ性を放つ謎の男・ニコライに扮し、見事なアクセントで叩き上げのロシアン・マフィアを完璧に演じている。体中に刺青メイクを施した精悍な肉体を披露するほか、公衆浴場での全裸プラス1もとい全裸&タトゥー姿で繰り広げる凄まじい格闘シーンにも、筋金入りの役者魂を感じずにはいられない。役作りのために単身ロシアに渡ってウラル地方の文化風俗を吸収したという役者バカ(というか変人)だ。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズはもとより、前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のイメージさえ払拭し、その演技力と存在感をフルに発揮した過去最高の芝居で圧倒する。

 ナオミ・ワッツとクローネンバーグ映画の相性も、なかなかのものだ。鬼才の作品でも、凛とした女性の強さを最低限の演技で体現できる稀有な女優であり、本作でも幼い命を守るために危険な領域へ足を踏み入れていくヒロインを、説得力たっぷりに演じている。横顔がやはり、美しい。キスシーンが本当に映える女優さんだと思う。

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 自称・元KGBの偏屈な叔父役を演じるのは、ポーランド出身の奇才監督イエジー・スコリモフスキー。ベテラン俳優顔負けのユーモラスで味わい深い演技を披露している。クローネンバーグたっての希望でキャスティングされたらしいが、やはりそれはスコリモフスキーが共産主義政府と相容れず故国を脱した流浪の人であり、過去にロンドンで『早春』(1972)や『Moonlighting』(1982)を撮っているからだろうか。ヒロインの母親役にシニード・キューザックを配しているのも、彼女の夫が『Moonlighting』とクローネンバーグの『戦慄の絆』(1988)に主演したジェレミー・アイアンズだから?

 冷酷なマフィアのボス役に、温厚なイメージで知られる名優アーミン・ミューラー=スタールを起用しているのも、いかにもクローネンバーグらしい捻り技。そのドラ息子役のヴァンサン・カッセルは、『バースデイ・ガール』(2002)で演った役とイメージが被るんじゃないか? という不安があったが、杞憂に終わった。イキがっているわりに弱さを抱えたダメな二世をこれまた絶妙に演じており、複雑なキャラクターを見事に作り上げていて感動。ぜひこのままお父さんのような良い役者になってほしい。

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 本作『イースタン・プロミス』は、クローネンバーグ作品としては珍しくアクチュアルな社会問題を扱った作品だが、そこで見据えられているのはやはりこれまでと不変のテーマだ。つまり肉体の内と外で繰り広げられる闘争(Conflict)、そしてアイデンティティの変容を追う物語である。そのメタファーは刺青であり、血だ。

(以下、ややネタバレ)

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『フィクサー』(2007)

『フィクサー』
原題:Michael Clayton(2007)

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 傑作。近頃では稀有な“大人の男のシリアスドラマ”を真っ向から描いた、気概に満ちた作品だった。骨太な社会派エンタテインメントとしても一級品。テンポよく硬質な演出と、気迫みなぎる役者の演技でグイグイ引っ張り、最後までテンションを落とさず見せきってしまう。CGを使った特殊カットも一切盛り込まず、ただ現実に在る人間たちのドラマを映しだすだけで、ソリッドな娯楽映画を成立させた作り手の心意気が嬉しい(だから、エンドクレジットのなんと短いことか!)。

 主演のジョージ・クルーニーが、久々に本気でかっこいい。普段の軽妙な味や胡散臭さを封じ、苦み走った寡黙な中年男の哀愁を漂わせ、最高の演技を見せている。彼が演じる“フィクサー”とは訴訟に関与しない揉み消し専門の弁護士のこと。日本でフィクサーと聞いて思い浮かべる大物のイメージとは違い、本作の台詞の中では、どちらかというと姑息に暗躍する何でも屋といったニュアンスで使われている。「ニッチ(適材)」という言葉も劇中で何度か出てくるが、クルーニー扮する主人公マイケル・クレイトンは、そんな裏の仕事が天職だと認められてしまった男。常に自己嫌悪と隣り合わせの日々を送り、妻とも離婚し、肉親の作った借金まで背負っている。人生に追いつめられた者の鬱屈を、クルーニーは笑顔ひとつ見せない抑えた芝居で妙演。クライマックスの逆転劇でも、シリアス俳優としての実力を出しきっている。これで惚れ直す人も多いのではないだろうか。

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 しかし、本作でもっとも強烈なインパクトをもたらすのは、主人公の同僚アーサー役のトム・ウィルキンソンだ。悪徳企業の庇護にうんざりし、ノイローゼに陥ったあげく「正義」という名の狂気に目覚めてしまうベテラン弁護士を、かつてないほどの凄まじい迫力で熱演している。映画の冒頭を飾る、狂気に満ちたモノローグがとてつもなく素晴らしい。破滅的なおかしさと本物の威圧感がみなぎる最高の演技だ(この人だけは『フル・モンティ』に出てたって本気で怖い)。『フィクサー』は彼のベスト・パフォーマンスと言えるのではないか。

 そして、敵役にあたる巨大農薬会社の法務部長カレンを演じた英国人女優ティルダ・スウィントンも素晴らしい。恐ろしくもありながら大いに同情をさそうキャラクター造形が出色で、それをガラス細工のように冷たい美貌をもつスウィントンが張りつめた表情で力演。一瞬たりとも目が離せない。オスカー受賞も納得だ。

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 珍しく事前情報を何も持たずに観に行き、オープニングにもスタッフクレジットがなかったので、最後まで誰が監督した映画なのか知らずに観た。それで余計に楽しかったのかもしれない。途中でシドニー・ポラックが役者として出てきたので「ひょっとして……」と思ったけど、すぐに「いや、今のポラックにこんなきびきびした映画は撮れないよな」と思い直した。最後になってようやく名前が判明。監督・脚本、トニー・ギルロイ。ああ『ボーン・アイデンティティー』の脚本家だ。なるほど。

 男くさい社会派ドラマを真っ向から語りきろうとする姿勢、予想を裏切る時制トリックを織り込んだシナリオの構造、その態度はひたすら自信に満ちており、揺るぎない。ラストカットの長回しも堂々たるものだ。プロデューサーとして名を連ねるスティーヴン・ソダーバーグや、S・ポラックを思わせる演出テクニックも吸収しつつ、デビュー作にして確固たる自分の映画を作り上げていて、とても好感が持てた。ファンタジー小説をモチーフに使うギミックのあたりは少し余計だったけど、よくできたシナリオを作者の意図どおりに映像化しきった充実感は伝わってくる。

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 やっぱり冒頭のシーンが何しろかっこいい。留守電に吹き込まれた明らかに狂った男のモノローグを背景にした弁護士事務所のカットバックで、完全に心を奪われた。ここでいきなり謎をふっかけられた観客は、主人公ジョージ・クルーニーが画面に登場した時に「なるほど、この導入部で彼がさっきの留守電野郎の危機を救い、鮮やかな“揉み消し屋”ぶりを見せるのか」と思う。しかし予想は覆される。主人公は疲弊しきった表情のまま特にめざましい活躍をすることもなく、また別のサプライズが起こり、観客ともども呆然としている間に、話は数日前にさかのぼってしまう。この説明を排したスリルのたたみかけが見事だ。『ボーン』シリーズでも本来目指していたのはこのニュアンスなんだな、と確認できる。

 そして、社会悪を描写するリアリティ。これが何しろ卓抜している。『エリン・ブロコビッチ』や『シビル・アクション』といった企業の悪事を糾弾する社会派作品からも、一歩抜きんでた印象がある。

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 物語上では“敵役”にあたる企業法務弁護士のカレンは、別に冷血漢でも悪魔でもなく、我々のごく身近にいるタイプの人間として描かれる(それどころか努力の人と誉め称えられてもいい)。企業の防波堤として日々プレッシャーと戦い、責任ある大人として己に与えられた職務を全うしようとするがゆえに、彼女は人の道から外れる。それがどんなに恐ろしいことか分かっているにも関わらず。しかし立場上、そこに選択の余地はない(と、彼女は思い込んでいる)。今この世界にどれだけカレンのような人間がいることだろう? 社会的地位や報酬と引き換えに、プレッシャーにまみれ、倫理や信義に目をそむけ、自分を見失った人間が。彼女が脇にでっかい冷汗のシミを作って緊張に喘ぐ姿や、自宅で何度もスピーチの練習を繰り返す姿を執拗に映しだす演出は、鮮烈にリアルだ。

 本作には、今までずっと勘違いされてきた「人間味のある悪役」という言葉が、やっと正しいかたちで実現している、という感動があった。たとえば『ザ・ロック』のエド・ハリスみたいに、型通りの悪役に中途半端な味付けとして「人間的な弱み」とかを加えるのではない。元々どこにでもいる普通の人でしかないキャラクターが、ある特殊な立場にいるために器以上の悪をなさざるを得ず、さらにプレッシャーやコンプレックスを肥大させていく。そうした成立過程こそ現実社会における“悪”のリアリティではないか。善玉VS悪玉という明快な図式を好むハリウッド映画にしては珍しく、トニー・ギルロイはそんなリアルな敵役を見事に作り上げてみせた。

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 社会人として生きる人間にとって、この映画に登場する「どんづまり」に陥った人々は、とてつもなくリアルに映る。生活のためには自分を裏切り、他人を傷つけ、環境を破壊することも致し方ない。だが、クルーニー演じるマイケル・クレイトンも、はたまたウィルキンソン演じるアーサーも、ある瞬間にそこで捨て身の決意をもって踏ん張り、己の信義を守ってみせることができた。しかしカレンは、現実の大多数の人がそうであるように、正義に目覚めるチャンスを逸する。

 地獄に堕ちないためにどう生きればいいか、少しでも考えさせてくれる良作である。

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オリジナル・サウンドトラックCD『フィクサー』

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