Simply Dead

映画の感想文。

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『女体銃 GUN WOMAN』(2013)

『女体銃 GUN WOMAN』(2013)

 井口昇監督の『おいら女蛮』(2006)は、女優・亜紗美の存在を一躍世に知らしめたエポックメイキングな作品だった。喧嘩っ早いが情には厚い、美少女のようなルックスの男子高校生・女蛮子をきっぷよく演じる亜紗美はとてつもなく魅力的で、ついに井口監督が陰性ではない陽性の理想的ヒロインに出会った! という感動があった。その後も、『おいら女蛮』を越える亜紗美主演作の登場を待ち焦がれ、気がつけば8年経っていた。もちろん『片腕マシンガール』『ファッション・ヘル』『ライヴ』といった作品におけるバイプレイヤーとしての活躍はずっと愉しませてもらっていたが、やっぱり主演作で天下を取ってほしいという思いが常にあった。

 だから『女体銃』には大いに期待していた。事実、本作のクライマックスに展開する『リバーシブルマン』さながらのスプラッター・ガンアクションは、亜紗美ファンならずとも度肝を抜かれ、圧倒され、魅了されることだろう。自らの肉体に銃のパーツを仕込んだヒロインが、我が身を切り裂いてそれらを取り出し、全裸&血まみれで敵を撃ち倒していく。鈴木則文『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』の池玲子によるフルヌード殺陣の向こうを張って、文字どおり裸一貫体当たりで死闘を繰り広げる亜紗美の熱演は、もはや神々しくすらある。敵役・浜崎を演じる鎌田規昭も、禍々しい存在感を放っていて素晴らしい。相手にとって不足なしだ。

 しかしながら『女体銃』は期待したような傑作にはならなかったし、『おいら女蛮』の王座を揺るがすこともなかった。ひとえに作り手が娯楽映画の鉄則を見誤ったからだ。

 本作の実質的主人公は、有力者の息子である変態サディスト・浜崎に妻を惨殺された元医師“マスターマインド”(成田浬)である。劇画のようなマッチョ感を振りまく彼は、復讐のために麻薬中毒の女・亜紗美を人身売買組織から買い受け、強制的に更生させたのち、武器の扱いや格闘技を仕込み、暗殺者に仕立て上げる。そして、浜崎が入り浸る地下の屍姦クラブに潜入させるべく、彼女の体内に銃のパーツを縫い込み、仮死状態にして送り込むという鬼のような手段をとる。つまり、女を変態性欲と暴力衝動のはけ口としか思っていない人でなしを殺すために、自らもまた女を道具にした身勝手な復讐計画を目論むという皮肉な構図が映し出されるわけだ。

 そうなると、殺しのスキルを身につけたヒロインが真っ先に殺意を向けるべき相手は、なんの関係もない自分を復讐の道具に仕立て上げたマスターマインドであるはずだ。たとえ復讐の目的を果たしたとしても、最終的に彼女がとどめを刺すべきは命の恩人であり、師であり、恋人であるマスターマインドだろう。復讐心に憑かれたあげく、自らも怪物と化した男に引導を渡すために、彼女は生まれたのだ。それがドラマというものではないだろうか。

 ところが、この映画においてヒロインはなんの人格も与えられていないので、薬を抜いてもらっただけで彼に従い、同情し、男のほうにだけやたらと都合のいいタイミングで愛に目覚める。マスターマインドこそがこの映画の実質的主人公であると先述したのはそういうわけだ。亜紗美は最後まで「妻を殺された男の復讐譚」というストーリーを曲げることのない女体銃=ただのプロップでしかない。

 だがしかし、『コフィー』のパム・グリアーは自らの復讐心を満たすために悪を討つのだ。『悪魔のえじき』でカミール・キートンがレイプ犯のチンポを切断するのは他人のためではない、自分のためだ。意志もなく台詞もない人形のようなヒロインを演じる亜紗美ほど、見ていてじれったいものはなかった。

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『マムート』(2009)

『マムート』
原題:Mammuth(2009)

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 傑作。名優ジェラール・ドパルデュー演じる定年退職者の男がバイクに乗って旅する姿を、一筋縄ではいかないエキセントリックな笑いと、ペーソス溢れる語り口で描いたロードムービー。昨年のフランス映画祭2011で観て、あまりの面白さに度肝を抜かれたが、いまだ日本公開の予定はなく、現時点でほとんど誰にも知られていない。先日DVDで観直したらやっぱり傑作だったので、遅ればせながらここに紹介しておきたい。『空飛ぶモンティ・パイソン』やシティボーイズLIVE、アルベール・デュポンテル作品のファンなら絶対にハマると思う。

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〈おはなし〉
 「マムート(マンモス)」のあだ名を持つ主人公セルジュ(ジェラール・ドパルデュー)は、勤め先の食肉工場で定年を迎え、記念品のパズルをもらって引退する。スーパーでレジ打ちのパートをしている妻カトリーヌ(ヨランド・モロー)を送り出し、慣れない家事に手を出してみるものの、あまりうまくいかない。ある日、彼は役所へ年金の申請に出かけるが、そこで「今まで働いてきた職場の就業記録がなければ、年金は払えない」と言われてしまう。各地で転職を繰り返してきたセルジュは、ガレージに眠っていたバイク「マムート」にまたがり、就業記録を集めるため昔の職場をめぐる旅に出る。

 ところが、セルジュの前には予想外の出来事ばかりが待ち受ける。雇用主の行方が分からなかったり、職場自体がなくなっていたり、記録など残っていないと言われたり。あげく、サービスエリアのカフェで出会ったギプス姿の美女(アナ・ムグラリス)に所持金と携帯電話を盗まれる始末。途方に暮れるセルジュだったが、それでも旅を続けるしかない。かつてバイク事故で死なせてしまった元恋人(イザベル・アジャーニ)の幽霊が、守護天使のように見守ってくれることだけが唯一の慰めだ。旅の途中、セルジュは伯父の家を訪ねるが、そこには自分が名付け親になった姪っ子ソランジェ(ミス・ミン)がいるだけだった。奇妙なアート作品を作りながらマイペースで暮らしている彼女との出会いは、セルジュの旅に思いがけない変化をもたらす……。

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 監督は『Avida』(2006)のブノワ・ドゥレピーヌ、ギュスタヴ・ケルヴェン。一瞬ギャスパー・ノエ系のアートフィルムかと見紛うような粒子の荒い映像で、どこか不穏な空気を漂わせながら始まるものの、ちょっぴり毒の効いたオフビートな笑いの連打で「あ、コメディなんだ」と気づかせる。わりと思いつき的な単発ギャグが多めだが、よけいな説明を排してシチュエーションと構図だけで笑いを誘うコメディ演出は実に上等。特に、家ですることがない主人公セルジュが通り過ぎる車の数をただ数えているシーン、田舎のレストランで出張中らしき男たちが同時に泣き出してしまうくだりなど、間の取り方といい構図といい、非常に秀逸である。主人公の前に血まみれの元カノの幽霊(イザベル・アジャーニ! 生々しい流血のデザインが絶品)がたびたび現れたりする型破りな演出も面白い。

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 また、現代社会が抱えるさまざまな問題、そして全ての人が抱える「老い」と「老後の生活」への不安をさりげなく切り取る鋭い視線も、本作をただ楽観的なだけのコメディに終わらせていない。格差社会の底辺に生きる低所得者層の生活、定年退職者を襲う虚無感、不安定な年金受給問題、役所が押しつける無理難題、寂れゆく地方社会の現実などなど……。そんな「時代の不穏な空気」が、ざらついた質感の映像で見事に視覚化されている。主人公が老人たちの乗る団体バスの列に呑みこまれそうになるシーンなど、老いていくことへの不安を端的に表した描写の数々もうまい。それでいて、語り口は実に軽やかで飄々としており、なんとも不思議な味わいを湛えた作品である。ガエタン・ルーセルによるウクレレを使った音楽の効果も大きい。

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 でっぷり肥えた巨体にグランジヘアーで登場するドパルデューは、まさにマムート(マンモス)そのもの。その見た目と食肉工場で働いているという設定から、思わず『レスラー』(2008)のミッキー・ロークを想起する人も多いだろう。大型哺乳類的な愛らしい佇まいと、最小限に抑えたコミカルさで最大限のおかしみを醸し出す芝居が素晴らしい。久しぶりに会った従兄と挨拶替わりの「クロスオナニー」をおっぱじめるという結構なヨゴレ役でありながら、ドパルデューは年齢を超えたイノセンスを持った人物として、セルジュ=マムートをユーモラスに魅力的に演じてみせる。彼ほどの大御所俳優がこんな奇抜な演出に溢れた作品に体を張って挑んでいるのも、ちょっと感動的だ。

 セルジュは柔和で寡黙な愛妻家だが、決して知性溢れる人物でも、誰にでも好かれる社交家でもない。道中、彼は行く先々でお前は昔からバカだアホだと言われ(最後に会ってからもう十何年も経ってるのに!)、実際マヌケな所行の数々を重ねるが、そんな彼にも今まで彼なりに生きてきた人生があるのだ。セルジュはさまざまな人々や思い出と再会し、自らの長い人生の軌跡をたどっていく。そして、自分と同じアウトサイダーの匂いを持った姪っ子と出会い、彼女への共感とともに、不器用でも真面目にやってきた自分の生き方を肯定する力を与えられる。この先も続いていく「未来」に、新たな光を見出すまでの男の旅路は、爽やかな余韻と希望を観る者にもたらしてくれる。

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 セルジュの妻カトリーヌを演じるヨランド・モローの貫禄溢れる存在感も、ドパルデューに引けをとらないインパクト。夫の携帯電話を盗んだ女詐欺師をとっちめようと、フロントグラス全壊の車で殴り込みに行くくだりは最高に笑わせてくれる。また、金属探知機を持ってビーチをうろつき、金目の物を拾い集めている男を演じるブノワ・ポールヴールドも、短い出番ながら相変わらず強烈な印象を残す。アナ・ムグラリスの特別出演も嬉しい。だが、助演陣でいちばん素晴らしいのは、ソランジェ役のミス・ミンだろう(劇中でも自らミス・ミンと名乗っている)。ひょっとして本物か? と思わせる目つきと佇まいの危なっかしさがたまらなくキュートな彼女は、女優業のほか、歌手やアニメーション作家としても活躍しているという。本作に続くドゥレピーヌ&ケルヴェン監督の次回作『Le Grand Soir』(2012)にも、ブノワ・ポールヴールドやヨランド・モロー、アルベール・デュポンテルらとともに出演するそうだ。

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 高齢化社会・年金問題・就職難などの諸問題を抱える日本にとっても、全く他人事ではない内容である。厳しい現実を見つめながら、希望の持ちようも提示してみせる、未公開なのが本当にもったいない秀作だ。

・DVD Fantasium
DVD『マムート』(米国盤・リージョン1・英語字幕版)

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『キラー・インサイド・ミー』(2010)

『キラー・インサイド・ミー』
原題:Killer Inside Me(2010)

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 ジム・トンプスンのピカレスク犯罪小説『おれの中の殺し屋』a.k.a.『内なる殺人者』といえば、ノワール・ファンなら必読の教科書的名著であり、何度読み返しても飲み下しづらい「闇」と向き合う羽目になる厄介な問題作でもある。テキサスの片田舎で保安官助手をつとめる主人公ルー・フォードは、美しい娼婦ジョイスと深い仲になったことをきっかけに、とある復讐計画を実行に移す。自分が愛した女をも手にかける冷酷さをもって完全犯罪をやり遂げるルーだったが、思わぬミスから次々と人死にを増やすことに。内に秘めたサディスティックな狂気と暴力性を解き放っていくルーの前に、驚愕の結末が待ち受ける……。いくつもの屈折を経た主人公の心の闇は、我々にとって理解し難くもあり、同時に「親愛なる」パラノイアでもある。ラストを締めくくる一文の「おれたちみんな」というフレーズが多くの読者の胸にびりびりと響くのは、そういうわけだ。このあまりに見事なセンテンスは、宮部みゆきの長編小説『理由』の冒頭にも引用されている。

 1976年に作られた最初の映画化『Killer Inside Me』は、バート・ケネディ監督、ステイシー・キーチ主演という魅力的な顔ぶれに関わらず、見事なまでに黙殺された不憫な作品だ。完全に主人公ルーをサイコパスとして捉えたブラックコメディであり、個性派女優スーザン・ティレルに“死ぬほどいい女”娼婦ジョイスを演じさせるなど、意欲作ではあったが明らかにキャッチーさには欠けた(個人的にはそこそこ面白かったけど)。暴力描写は原作ほどの破壊力を達成できず、ラストも残念な処理となっているので、トンプスン・ファンからの評判も悪い。

 それから34年後、マイケル・ウィンターボトム監督によって再映画化された本作『キラー・インサイド・ミー』は、バート・ケネディ版とは真逆のアプローチで撮られた「極めて率直な映画化」である。原作を非常にてきぱきと整理し、人物関係を分かりやすく解きほぐし、悲劇を悲劇として描き、ジム・トンプスンの殺気と狂気ほとばしる文体を「パッと見、飲み込みやすい」シンプルなBクラスの娯楽作として映像化してみせた。重厚な古典文学のペーパーバック・ダイジェストのようなスタンスで作られた、『おれの中の殺し屋』読者のためのガイドムービーとしても最適だ(おっと、嫌ったらしい言い方をしてしまった)。

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 傑作小説をそのまま映像化したものが傑作映画になるかといえば、答えはノーだ。何かしらの創意工夫、文体を映像に置き換える上での「勝算」が必要になる。だが、この映画はジム・トンプスンの傑作小説『おれの中の殺し屋』を、あえて「最高の映画」にできる可能性を否定してまで、極めてシンプルなかたちで忠実にトレースしようと試みている。映画にすることで見えてくるプロットの奇怪なツイスト、普通に考えれば唐突としか思えないキャラクターの登場も、そのまま率直に映画化されている。ウィンターボトムによるトンプスン文学の分析報告書とも言える仕上がりになっていて、そこが面白い。

 また、ノワール小説の金字塔と称される作品の映画化でありながら、いわゆるフィルムノワール風のコントラスト豊かな「光と影」でデザインされた作為的映像美ではなく、自然光を基調としたプレーンな撮り方が貫かれているのも、2010年製作の映画としては賢明な選択である。それは「ノワールとは外面で表現するものではない。心の問題だ」という主張の表れにも見える。実際、最後まで画面を観ていれば、乾いたルックの中にノワールの醍醐味がきっちりと立ち上がってくる。これがノワール感バリバリの白黒映像などで作られていたら、かなり恥ずかしい代物になっていただろう。そういった映像面での「作家性」は、可能なかぎり抑えられている。

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 ただ、映画前半の性急すぎる語り口は、賛否が分かれるところだと思う。美的に凝ったオープニングタイトルに続いて本編に入ると、まるで映画が途中から始まったかのような素っ気なさと矢継ぎ早の進行でストーリーが追い立てられていく。各カットの尺はやたらと短く、ただ「お膳立ての消化」に近いかたちでルー・フォードの犯罪計画がてきぱきと映し出されていく。ルーとジョイスの関係をどう描くかという部分で期待に胸を膨らませていた観客にとっては、このダイジェスト的な処理の仕方が許せないだろう。ぼくもそうだった。少なくとも前半までの印象は「ダメな映画化」にほかならなかった。

 しかし、後半からの追い上げは凄い。笑ってしまうほど酷薄で陰惨な展開に向かって、ピースがひとつひとつはまっていくドライブ感がある(それは原作を初めて読んだ時の愉しさそのものでもある)。ここにきてようやくカット尺も適当な長さに落ち着いてくる。すなわちルー・フォードの怪物性がめきめきと立ち上がってくるところから、作り手の興味の度合いが激変するのだ。

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 ウィンターボトムも、脚本のジョン・カランも、どうやらジョイスというキャラクターに全く興味がないらしい(ジョイスに扮するジェシカ・アルバが全くのミスキャストにしか見えないのも、そう考えれば致し方ない)。出会った時から地獄行きが決まっているルー・フォードとジョイスの関係に「ノワール」を見出すのは、ウィンターボトムに言わせれば「素人考え」だとでも言いたげだ。あくまでも主役はルー・フォードであり、それ以外は単なる添え物である。ジョイスがファム・ファタールだって? あんなのはただの「装置」にすぎない。見どころは、大胆不敵な犯行を重ねては小さなミスに翻弄され、スリリングな波乗りを愉しむ男の優雅な狂気。うまく立ち回っているつもりで実は奈落の底へ堕ちていく主人公の破滅的人格にこそ、作り手は旨味を感じている。ルーの中に目覚めた太陽のごとき悪の輝きが、婚約者エイミーや老保安官ボブといった善良なる人々の魂を、そして自分自身の真っ黒なハートをも焼き焦がしていく過程に、この物語の恍惚があるのだ。(そのあたりの確信が正直に出過ぎて、導入部への興味のなさが必要以上に露呈している感もあるが)

 ケイシー・アフレックは、まるで内面の読めない個性を活かし、21世紀型のナイーヴな佇まいでルー・フォードを怪演。ハイキーなかすれ声で訥々と語るボイスオーバーに、隠れた狂気がどんどん色濃く滲んでくるあたりがスリリング。血も凍るジョイス殴打シーンは、ケイシー・Aの線の細い拳のせいか、原作のダイナミズムと黒い笑い(女の顔面をカボチャのようにぶっ叩きながら、屁をこいて大笑いする)とは別種の、リアルな暴力の嫌悪感に満ちている。終盤、すっかり「身辺整理」を済ませたルーが、口笛を吹きながらコーヒーを入れる場面のユーモラスな軽薄さも素晴らしい。

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 魅力薄なジェシカ・アルバの代わりに絶品の存在感を放っていたのが、意外にもエイミー役のケイト・ハドソンであった。いつの間にこんな生々しい行き遅れ感(失礼!)を出せるようになったのか、と思うほどの劇的外見変化を遂げており、これが本作のための役作りだとすれば見上げた女優根性と言うほかない(天然で老け込んでるのなら、それはそれで奇跡として享受しよう)。監督自身の言葉を借りれば「バッドガールになりたがっているグッドガール」を、見事な熟れっぷりで演じている。悲惨な末路も健気さたっぷり。ケイシーとケイトの阿吽の呼吸が堪能できる秀逸なバイオレンスシーンに仕上がっている。

 ジム・トンプスン作品ではおなじみの、フィクションやドラマ、小説といった「枠」を破壊するメタ的要素が、さりげなくもきっちりと拾われているあたりもポイントが高い。それは、エイミーが食堂でルーに手紙を読ませる「現実には起こらなかった回想シーン」であり、終盤に登場する弁護士の「物語の伝承者」のような佇まいであり、そしてクライマックスで主人公が脇役の保安官助手に対して吐く「お前にセリフはないぜ」という言葉である。さらに、映画はラストシーンを原作の8割増ほどの火力で(21世紀のBムービーらしい、安っぽいCGの炎で)派手に彩る。「This World, Then the Fireworks.」というトンプスン短編のタイトルを思わせるイメージに飛び火して終わってみせる、粋な趣向だ。

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原作本『おれの中の殺し屋』 by ジム・トンプスン(扶桑社ミステリー)

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