『13/窒息』(1977)

70年代後半から80年代前半にかけて香港映画界を席巻した若手監督たちのムーヴメント「香港ニューウェーヴ」。斬新な映像スタイルと生々しいリアリズムの追求によって、それまでのモードを一変させてしまった作家たちのなかで、ひときわ異彩を放っていたのがパトリック・タム(譚家明)である。武侠アクションという古典的ジャンルムービーの器に、鈴木清順ばりのアヴァンギャルドな映像美と、メロウな愛憎劇のテイストを盛り込んだ劇場デビュー作『名剣』(1980)は、当時の批評家・同業者たちに多大なインパクトを与えた。肝心の観客からはそっぽを向かれたものの、やがてカルトムービーとしての評価を獲得し、続けて発表された『愛殺』(1981)や『レスリー・チャン/嵐の青春』(1982)といった斬新な傑作群によって、パトリック・タムはその名を不動のものにしていく。
映画界入りする前、パトリック・タムはすでにTVドラマ界の鬼才として知られていた。彼がディレクターとして参加した作品には『CID』『七女性』『小人物』『13』といったタイトルがあるが、中でも『13』はTV時代のパトリック・タムを代表するシリーズではないだろうか。人間の歪んだ愛情やオブセッションが招く犯罪や恐怖にスポットを当てた、30分枠のスリラードラマで、全13回・計11エピソードのうち、ほとんどの回の演出をパトリック・タムが手がけている。

そのうちの1編『窒息』は、若き日のチョウ・ユンファが主演した貴重なエピソードである。彼が演じるのは、死と暴力のイメージにとり憑かれた青年カメラマン。彼はモデルを使って殺人や強盗の現場を再現し、その様子を写真に撮り続けている。そんなある日、主人公の目の前に奇妙な幻影が現れ始める。かつて撮影した被写体がフラッシュバックし、内に秘めていたはずの暴力衝動が噴出し、現実と妄想が急速に混濁していく。そして、最後に彼が見出した被写体とは、自分自身の「死」であった……。
脚本は、のちに『ソウル』(1986)や『喝采の扉』(1996)の監督を手がけるシュウ・ケイ。ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(1966)、あるいはマイケル・パウエルの『血を吸うカメラ』(1960)を発想の出発点として、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』(1980)を先取りしてしまったかのような幻惑的サイコスリラーだ。同時に、透き通るような都会の孤独感を見事にすくい取った青春映画でもある。台詞はほとんどなく、分かりやすい説明も排され、多くは映像によってのみ語られる。こんな実験的な内容のドラマを、普通にTVでやっていたのだから恐ろしい。
パトリック・タム独自の美的感覚に溢れた画面レイアウト/色彩設計、シャープで小気味良いカッティング/ショット構成は、この30分足らずの短編でも存分に発揮されている。前半のあるシーンに登場していたキャラクターが、唐突に主人公の自宅で食事をしているという場面の見せ方など、かなりハッとさせられる(もちろん『2001年宇宙の旅』の演出は凄く意識してるだろうけど)。ユンファ扮する主人公が異常殺人者なのではないか? と視聴者に思い込ませるトリッキーなオープニングや、エドワード・ホッパーの絵画を明らかに意識した深夜のダイナーの描写などは、初期ダリオ・アルジェントの作風にもやや近いものを感じさせる。BGMに『タクシードライバー』(1976)の音楽をまんま流用しているシーンもあったりして、アジア人らしからぬ洋画的センスが随所に感じられて面白い。当時でもいかにパトリック・タムが異端児的な存在であったか、この作品を観るだけでもよく分かる。

ものすごくスリムな姿で登場する新人時代のチョウ・ユンファは、都会に生きる若者の孤独を見事に好演。台詞回しは若干あやしいものの、若々しい色気があり、ひとつひとつの所作が魅力的で、スター性の片鱗がうかがえる。ちなみに彼は『13』唯一の長編エピソード『花劫』にも、端役で出演している。その辺のことは今月発売の
「TRASH-UP!! vol.5」
に書いたので、興味がありましたらぜひ(結局、宣伝)。
・56.com
『13/窒息』(Part 1)『13/窒息』(Part 2)(字幕はありません)
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『パブリック・エネミーズ』原題:Public Enemies(2009)
傑作。ここ最近のマイケル・マン監督作品の中では断然いい。去年のうちに観なかったことを深く反省。2009年の上位20本の中にはぜひ入れたかった。
犯罪王ジョン・デリンジャーと捜査官メルヴィン・パーヴィスの物語という、これまであらゆるメディアで語り尽された素材を、マイケル・マンはどう料理したか。答えは極めてシンプルである。「かつて見たことのないビジュアルで、皆がよく知る物語を“オレ流のリアリズム”で提示する」。本作はその一点にのみ心血が注がれていると言っていい。

『パブリック・エネミーズ』のビジュアルは、過去に作られた同ジャンルの作品、あるいは同時代を描いた作品では、ほとんどお目にかかったことのない新鮮さに満ちている。カメラアングル然り、ライティング然り、ロケーション然り。デジタル撮影がもたらした効果も大きいだろう。徹底的なリサーチを重ね、リアリティと臨場感にこだわりつつ、意固地なほどに過去作品のイメージに頼らない画面作りを実現させており、感動的ですらある。特に、ドラマティックな照明に彩られた夜の空港のシーン、鮮烈な白と明るさに溢れた留置所のルック、深夜の森での銃撃戦と逃走劇の美しさは忘れがたい。
それは同時に、ニューシネマ以降のよくある「リアル一辺倒のギャング映画」にもしない(できない)ということであり、そこで潔く“オレ流”のクライムドラマ=男のファンタジーに仕上げてみせたのが、いかにもマイケル・マンらしいと言えよう(まあ、この人にはそれしかできないという話もあるが)。そういう映画なので、ジョン・ミリアスの『デリンジャー』(1973)と比較したりするのは、たいへん馬鹿馬鹿しい。

大事なのは“オレ流”であること。マイケル・マンは確かにディテールの作家だが、大枠におけるリアリズムには常に興味がない。ジョニー・デップ演じるジョン・デリンジャーはひたすらカッコいい台詞しか言わないし、クリスチャン・ベール扮するメルヴィン・パーヴィス捜査官は憎まれ役でありながらクリーンな男であり続ける。マリオン・コティヤールのヒロインに至っては、最後までノワールのノの字も感じさせない一途な愛の体現者だ。
類型的なキャラクター造形、陳腐に陥る一歩手前のロマンティシズム、シンプルすぎて深みのないストーリーといった要素が、この監督に限っては好ましいものに思える。そんな稀有な作家であるマイケル・マンの個性は、この『パブリック・エネミーズ』でも強固に貫かれている。それは絶対的に映画を信じている者にしか持ち得ない、ある種パラノイア的な強みだ。映画の終盤、デリンジャーが死を迎えるその日にとった「ある行動」は、もちろん完全なフィクションであり、誰もが「んなアホな!」と突っ込みたくなる場面だが、それこそが“映画の夢”ではないだろうかと観客を心酔させてしまう力がある。伝記映画の枠組みを逸脱したファンタジー領域へと足を踏み入れることによって、まるで映画自体がジョン・デリンジャーという男の大胆不敵さを倣ってみせるかのようだ。
前2作『コラテラル』(2004)と『マイアミ・バイス』(2006)では、監督のトレードマークであるリアリティとファンタジーの均衡が、デシタル技術の導入と機を同じくして、著しく損なわれた感があった。しかし、本作ではそのどれかひとつでも諦めることなく、ようやく最適のバランスを掴み取ったように思えた。

撮影には機種の異なるデジタルカメラを同時に数台回し、複合的に使っていたそうだが、そのため映像の統一感という面では、ややムラがある。フィルムよりも綺麗なのではないかと思うほどシャープでキメ細かいカットもあれば、デジタル特有の残像というかブラーが残って、アクションのキレを殺している部分もある(『アポカリプト』でも感じた特徴だ)。とはいえ、作品全体としては非常に美しいルックを作り出している。「ギャング映画には元々なんの興味もないから観ていない」と言い切るマン監督が、本作を撮るにあたって参考にしたのはエドワード・ホッパーの絵画らしいが、ホッパーといえばもちろん
『電子頭脳人間』(1974)である。まあ、敢えて説明は省こう。
技術面でとても面白い試みだと思ったのは、ナイトシーンにおける大胆な高感度撮影の使い方。TVの犯人逮捕ドキュメント番組、あるいは防犯カメラで撮ったかのようなノイズの浮いたDV画質で、1920年代を撮るという倒錯的な感覚にも惹かれたし、今の観客は実際のところ、そういうビデオっぽい映像のほうが「それなりにリアルな」緊迫感を抱いてしまうのではないか。前2作ではそれが当たり前に「現代」を映すだけで、大して感心しなかったが、今回の使い方には唸った。マイケル・マンがどこまで意識的に仕掛けているのかは分からないが、えらくトリッキーな映画であることには違いない。

マイケル・マン作品の醍醐味と言えば「渋い脇役の面構え」だが、今回の映画で最も印象に残る顔といえば、ウィンステッド捜査官を演じたスティーヴン・ラングである。『アバター』(2009)の軍人役ですっかり有名になってしまったが、本作で魅せる大人の威厳も非常に魅力的だ。まさかこの人が最後の最後で儲け役になるとは思わなかった、という意外性も手伝って印象に残る。そして、デリンジャーの右腕的存在であるレッド・ハミルトン役のジェイソン・クラークも、抑えた芝居と寡黙な存在感が後半でじんわりときいてきて素晴らしかった。他にも、ジェームズ・ルッソ、スティーヴン・ドーフ、マット・クレイヴンといった通好みの顔ぶれが、ひたすら主役のドラマを引き立てるために地味なサポートロールに徹している贅沢さも心地好い。「赤いドレスの女」ことアンナ・セージを演じるブランカ・カティッチ(あの『黒猫・白猫』のヒロインだ!)の存在感も光る。

公共の敵、ジョン・デリンジャーを「時代の終焉を象徴する男」として描き、ロマンたっぷりに惜別の思いを捧げたマイケル・マン。その胸中には“映画の夢”を途絶えさせてはならないという男の意地が、熱く静かに脈打っている。
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『かいじゅうたちのいるところ』原題:Where The Wild Things Are(2009)
傑作。スパイク・ジョーンズ、そら離婚もされるわ……と思いながら観ていた。だってこれ、本当に子どもの心をそのまま持ち続けている人間にしか撮れない映画だもの。そんな人が円満な家庭生活など成立させられるわけがない(いや、よく知りませんけど)。これまでスパイク・ジョーンズの映画に対して心底感動したことは別にないけれども、これに関してはさすがに凄いと言わざるを得ない。というか「ようやった!」と誉めてあげたい。なんか一部で評判が悪いと聞けばなおさらだ。子どもなんだから、そんなこと言ったら泣いてしまうじゃないか。

何より凄いのは「子どもの感性」と「夢の論理」に忠実に沿って、1本の映画を作りきってしまった蛮勇である。覚悟と言ってもいいだろう。そうやって作ると決めた以上、よくできたフィクションや娯楽映画としてスジを通したり、辻褄を合わせたりすることを、頑なに拒否することになるからだ。だから、ストーリーの繋がりがよく分からないとか、キャラクターの行動原理が単純で行き当たりばったりで暴力的すぎるとか、そういったことを本作の欠点としてあげつらうのは意味がない。子どもの思考とはそういうものだし、夢とはそういうものだ、と感覚的に思い出せる人なら十分に腑に落ちる内容であるはずだ。

ここで描かれる夢の中の世界は、主人公であるマックス少年の奔放なイマジネーション、ヤマもオチもイミもない破天荒な空想に支配されながら、同時に現実世界のメタファーでいっぱいだ。かいじゅうたちの繊細で脆弱な関係性は、大人以上に人間関係の複雑さ、回りくどさを辛辣に見抜いている。子どもはなんでも知っているのだ。とはいえ、夢はあくまで夢であり、茫洋として何もかも無秩序に混濁した世界の中では、ありきたりで分かりやすい図式化はされない。その曖昧さが、観客に深読みや想像の余地を与え、より味わい深いものにしている。
甘い甘い「子ども向けの世界」はあくまで大人が作り上げるものだが、「子どもの世界」は違う。もっとやるせなく、思い通りにいかないもどかしさに満ちた、長い長いあがきの道程だ。スパイク・ジョーンズにとって、それはおそろしいほどリアルな世界である。でっかいかいじゅうたちと暴れまわる夢の中の大冒険でさえも、苛烈なリアリズムに満ちている。

全編を通して漂うメランコリーと心細さは、幼年期特有の不安定な感情そのもの。大人とはまた違ったネガティヴな感情に包まれていたあの頃の気分を、この映画はびっくりするほど克明に思い出させてくれる。それは、子どもの「悲しみ」を理解する者にしかできない至難の業だ。
悲しみ。子どもであることの悲しみ。寂しいことの悲しみ。寂しい子どもであることの悲しみ。寂しい子どもの悲しみが痛いほど分かる大人であることの悲しみ……。この映画を作るために、スパイク・ジョーンズが己の全身全霊を懸けて振り絞ったものが、完成したフィルムには見事に焼き付けられていると思う。文字どおり魂をすり減らして臨んだ作品であることは、想像に難くない。

とはいえ、この映画は本当に楽しい。マジで、心底、ムッチャクチャ楽しい。着ぐるみとCGを組み合わせたクリーチャーの素晴らしい「名演」は、本作最大の見どころだ。老人のような子どものような、ナイーヴさとペーソスに満ちたかいじゅうたちの表情は、異様であり不気味であり、だけど見ているうちにどんどん愛おしくなってくる。ドシンドシンと森の中を歩き回り、ダイナミックに飛び跳ね、乱暴に着地し、あらゆるものをボガーン! とぶっ壊す。そんな彼らの姿を眺めるうち、思わずワクワクしてきてしまったら、もうこの映画の虜だ。内なる子ども心が目覚めてしまった証拠である。いかにも「自然にさりげなく撮ってます」風な撮り方にイラッとくる部分もあるが、それは作家性なので目をつぶろう。

かいじゅうたちはマックスにとっての「大人」や「家族」といった他者、時には「自分自身」のメタファーでもある。だから、声優陣もいわゆるモンスター風に作りこんだ演技はせず、全員がきわめてナチュラルな芝居を貫く。白眉はやはり、マックスの自己投影的キャラクターでもある癇癪持ちの寂しがり屋キャロルを演じた、ジェームズ・ギャンドルフィーニだ。クレジットを見て内心「ええっ!?」と叫んだ人は少なくないだろう。あの『ザ・ソプラノズ』の親父が!? うまい役者だとは思っていたけど、ここまでデキる人だとは……。
KW役のローレン・アンブローズもいい。自然な声のトーン、優しさに溢れた芝居が胸に沁みる。KWには母親のイメージも重ねられており、つまり彼女の慈愛に満ちたキャラクターは、マックスが母親に対してこんなにも優しく愛情深いイメージを持っているということも表しているわけだ。それだけで泣けてくるし、それを見事に演じきったアンブローズの妙演にも感嘆してしまう。最初は、母親役のキャサリン・キーナーが演じているのかと思った(そう言われても全く違和感がない)。本作ではプロデューサーも兼ねるキーナー姐さんは、もう言うまでもなく最高。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1994)でもお馴染み、名女優キャサリン・オハラの参加も嬉しかった。キャロルの親友ダグラスを演じたクリス・クーパーの渋い声も光っている。

そして、本作最大の発見と言ってもいい、マックス・レコーズ少年の素晴らしさに触れないわけにはいくまい。夢の世界で超ハイテンションにはしゃぎまくり、ふかふかのかいじゅうたちと幸せいっぱいに戯れる主人公マックス役に、はたして彼以上の逸材がいるだろうか!? というくらい完璧なキャスティング。この子を見つけた時点で、スパイク・ジョーンズは映画の成功を確信したのではないだろうか。
サントラの趣味の良さも、憎たらしいほど素晴らしい。カーター・バーウェル&カレン・Oによる音楽は、時に底抜けに楽しく、時に愛すべき物悲しさを湛えていて絶品だ。たまたま最近、カレン・Oがヴォーカルをつとめるバンド“Yeah Yeah Yeahs”の
「Heads Will Roll」と
「Zero」があまりにカッコよくて聴き倒していたので、何も知らずに映画を観てびっくりしてしまった(曲のリンク先は youtube)。カレン・Oと子ども合唱団をフィーチャーした歌モノ中心のサントラCDは日本でも発売されているが、カーター・バーウェルのスコア盤がダウンロード配信オンリーなのは勿体ないかぎり。

いまだにちょっと癇癪持ちで、そのために自ら人間関係に亀裂を入れてしまうようなところもある人間としては、おれも幸せになれそうもないなあ……と落ち込んでしまうような映画だが、そういった気づきを与えてくれるという点でも、素晴らしい傑作である。
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原作本『かいじゅうたちのいるところ』 著:モーリス・センダック
CD『かいじゅうたちのいるところ』 オリジナル・サウンドトラック by カレン・O&ザ・キッズ
CD「イッツ・ブリッツ!」 by Yeah Yeah Yeahs
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MP3 Download『かいじゅうたちのいるところ』オリジナル・サウンドトラック・スコア by カーター・バーウェル 【“『かいじゅうたちのいるところ』 (2009)”の続きを読む】